2017年7月15日土曜日

20170715-01

社会不適合だなと思っていて、社会っていうのはいわゆる社会人としてとかじゃなくて人間社会って意味で、生きている資格がないっていうよりは不適合っていうのがより正確な表現で、とにかく不適合だなってめちゃくちゃ思うんだけど、じゃあどうしたらいいかもわからないしわかってもコントロールできないからただただ不適合だなって思うしかない。そうするとまわりの、数少ない一緒にいてくれる人にとても申し訳なくて、でもわたしも今生きていてエゴがあるからなにもかも手放して一人でしんどい思いをすることもできなくて、だからとりあえずダラダラ居心地のよい場所で眠ったり起きたりしているのだけれど、それでもやっぱり不適合でどうしようもない、申し訳ない気持ちばかりある。でも自分がじゃあ適合できるかというと絶対ムリで、絶対ムリって思っていること自体が甘えなのかもしれないけどどうしてもできない、ロボトミーとかしないと絶対適合できない。

誰も悪口を言わない世界、思ったとしても口に出さない世界、口に出した瞬間に排除される世界、にいけたらよいのかなと思ったけど、多分遠まわしなイヤミや自覚のない悪口のテクニックがあがりまくった世界になるんだろうなとか、多分わたしは結局どこでも不適合なんだろうなとか考えてしまってアーとなった。ネットをみてると不適合って言う人はたくさんいて、でもわたしから見たら適合しているように見えてしまう、でも逆にわたしもそう見えるんだろうなと思う。思考が多分極端になってしまっている自覚はある、でもどうしていいかわからなくてただただ自分は不適合だな、わたしが近くにいることにより周りの人が受けられるはずの恩恵みたいなものを削ってしまっているのかなとひたすら申し訳なくなる。

2017年6月3日土曜日

20170603-01

これは前にも書いた気がするけれど、そしてこれを読んで同じ感じになっちゃう人がいるのが本当に怖いのであれなんだけど、なので繊細な人はここから先読まないでほしいのだけれど、比喩じゃなく息の仕方がわからなくなるときがあって、いつもどこまで息を吸っていたのか、肺に空気を入れるのはどうしたらいいのか、息も水みたいにゴクンと飲み込む必要があるんだっけ? 息を吐くときは全部吐ききらなきゃいけないんだっけ、こんなお腹に微妙に空気が残った感じで次の空気を吸っていいんだっけ、みたいなことがわからなくなるときがわりとあって、でも過呼吸やパニックになるほどでもなくて、ゆるやかに呼吸が苦しい感じがずっと続く。多分正しい対処法としては意識をそらすこと、なので、なんかリズムゲームをやったりマンガを読んだりが一番いいんだろうけど外を歩いているときやねむろうとしているときはなかなかそうもいかないから困る。ここまで書いて気付いたけれど「目をつむっているときはどこを見たらよいのだろう」という苦しさは最近ないな、思い出してしまったので今日の夜ちょっとこわい。

2017年5月20日土曜日

20170520-01

どうしても、現在進行形で物理的暴力を加えられているわけではないのに弱る、ということに納得がいかない。ヨナみたいな環境に置かれているわけではないのに弱るのに納得がいかない。「ストレス」としてカウントしていい項目が、殴られる・刺される・監禁される、エトセトラエトセトラ、に準ずるもののみとなぜか制限がかけられているので、生命の危機に直結しない事柄によって弱るということが納得できなくて、それはおそらくイコール許せないで、どうしてこんな非効率的な感情をもてあましてしまうのか、生命としてバグではないのか、(他者に大してはそんなこと微塵も思わないので)自分に対して厳しすぎる自覚はあるけれどじゃあ「頑張って厳しくしないようにする」しか対処方法がなくそれができないのであればやっぱりバグじゃないのかと思っていたのだけれど、例えば電動ドライバーの連続使用制限がある、みたいな感じで仕様だと思って対処するしかないのだろうなぁと考えたら少し楽になった。「どうして連続使用したら本体が発熱してしまうんだ、発熱しないように頑張れ」って思ってたのが今までで、「連続使用したら発熱するからn分使ったらn分電源を切り本体を休ませねばならない(なぜならそれが設計上仕方のない仕様だから)」と考えようとしているのが今。
「全ての物事が(結果として)合理的で生産的であるはずだ、その意図がわからないのはわたしに理解が足りないせい、またはバグ」という思考を変えるのは難しいけれど「(人間の)感情」と「(機械やプログラムの)仕様」がイコールであると無理矢理考えると少し楽になるかもしれない。

大英博物館展を見に行ったら進化についての記述があって、今でこそ「生物は進化する」ということが当然だという認識ですが昔はそうではなく、みたいなことが書いてあった。進化論が出る前は人間は最初から現在の形でポンと生まれたと思われていたのだろうか。多分わたしの、「すべてのものごとは合理的かつ生産的であるはずだ」という認識は進化論というか進化しきってる論に基いている、現状人間は生物として完成されていて、だから全ての物事に理由があり全ての物事は考えうる最善の形になっている、と思い込んでいる。
「自分の心臓をコントロールできないのと同様に、感情もコントロールできない」と本当の意味で納得することができればもう少し楽になるのだと思う。根性論がどこかでしみついてしまっているのだろう。
ストレス値10以上でHPが減少していく、11であっても100であってもHPが減少することには変わりがない。「殴られる」はストレス値120、「睡眠時間が少ない」はストレス値12、後者は前者の1/10のストレス値だけれどどちらも10以上なのでHPは削られる、それが仕様。対処方法は継続的に考えてゆかなければならないけれど今現在は仕様なので対応方法を考える必要がある。




めちゃめちゃつらいことがあったとき、「あのときよりはまし」でいろんなことに耐えられるようになる、とポジティブに考えていたのだけれど、「あのときよりはましなのにどうしてつらく感じるのだ」と自分を責めるようになってしまった。 例えば海難事故で1ヶ月水だけでなんとか生き延びた人も、助かって通常生活に戻ってサラリーマンやって一日忙しくてごはん抜きになったらお腹空く、「事故のとき一ヶ月水しか飲めなかったんだから一日ご飯抜いたからってお腹空くのはおかしい」とはならない、多分そういうこと。

2017年4月23日日曜日

20170423-01

家に帰ったら茹でたとうきびのにおいが充満していた。

人ができる当たり前のことがなんにもできない、考えようとすると頭が痛くなってしまう。2の段までならなんとかいける掛け算の3の段から全く覚えられない感じ、3かける1すらもう精神的なハードルが高すぎて拒否反応を起こしてしまう感じ、あたまではよくわかる、落ち着いて、筋道立てて、今までできていたほかのことと同じように対応するだけ、わかっているけどバリアが張られていて入れない世界みたいなんだ、他の人には全く影響しない、わたしだけを遮断するバリア。


弱肉強食よりも適者生存が正しいってどこかで見た、でもなんにも適している気がしない。人間に生まれた以上というか生物である以上多分おそらく適度に他者と協力しないと生き残れない、でもそれって生き残ることが最終目標になった場合の話で、なにがどうしようと生き残れというミッションにチャレンジしているわけではなく、例えばめちゃくちゃ苦痛の中でなんとか心臓だけ動かして生物学的に生き延びてもじゃあなにがゴールでミッションコンプリートになるのかわかんない、でもとりあえず現状いる社会に適せないのはなかなかしんどい。



好きな人は数える程度しかいなくて、でも嫌いな人も特にいないしって思ってたけど、多分好きでも嫌いでもない人は「好きでもない人」だから嫌いと同意なんだと思うわたしの場合、積極的にみんなに不幸になってほしいとは全然思ってないしはやく世界が平和になればいいのにって心から思うけど、わたしができる範囲もといしてあげられる範囲もといしてもよいとわたしが思える範囲がめちゃめちゃ狭いから、それを超えちゃうとなんにもしたくないし、「幸せになってね」って気持ちだけはあるけどわたしやわたしの好きな人の幸せや平和が阻害されるならそれ以外の人は死んでも苦しんでもいいとたぶん思ってる。



いつかを境に決定的に変わってしまったと思っていたけれど本当はずっと変わっていないのかもしれない、わたし、自分がいつからこうだったか全然わかんない。