2013年12月22日日曜日

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可愛い女の子のインスタ見てたら死にたくなってる、いつになったらこういうものから逃れられるのかなって思ってるけどいつになったらっていうか多分五年前くらいからだし死ぬまでなんだろう。賃貸で死んだら遺族がえらい賠償請求されることがあるっていうニュースが上がっててそういうニュースなんかわからんけど最近よく見るしなんていうかこう情け無しって感じもしなくはないけどあーだったらっていうか知ってはいたけどだったらやめとこって思ったりもするから結果的に有意義なニュースなんだと思う。人間っていうか生物としての欠陥が自分にはありすぎてだからってパタリと死ねるわけではないからややこしいよなあと思う、今めっちゃお腹空いてるけど外出るっていうか部屋から出るのもめんどうくさいから我慢してる、着る毛布にくるまれて我慢してる。例えば何も飲まなくても酔っぱらえたみたいな時期がとうの昔に終わってしまったこととかどうして上手に笑えないんだろうとか、上手に笑えないにもほどがあるだろう少女漫画で「どうして上手に笑えないんだろう」ってモノローグつけながら苦笑するヒロインは上手じゃないけど苦笑はできてるのにわたしのそれは全く持ってアレで口角が一ミリも上がらないっていうかむしろ重力に負けまくっちゃっていてああなんかこれはもうそうだ、だからわたしはこうするんだって気付いたのが昨日なんだけど、わたしの口角が下がっていることで不幸というか不快になる人はいるからじゃあわたし上げろよその口角をよって思うのに上がらなくて、とりあえず今すごく肩凝ってる。屑だなあって自分を自認する人わたし少なからず知っているけどああ確かに屑でも人間っていうか生物として屑というか欠落というか欠陥だなって思ったことは一度もなくてその点わたしはそうだなあって思う。誰かがじゃあこういう人はそうなのって書いてたの、カウンターアタック的意味があったんだろうけど「そうだよわたしはずっと前からそう思う自分のことそう思ってたもん」って思ってしまった。終わらないギターロックがあったらいいのになって今は思ってる、今思ったんだけど二回目リピートしてたらさっきより褪せて聞こえてしまったしギターロックって何かわかんないからやっぱり終わっちゃってもいいや。


屑と肩って文字似すぎじゃない?

2013年12月1日日曜日

じぶんメモ:11がつ本まとめ

感想をかいてなさすぎだし、記録漏れがすごいので、12月はちゃんと記録しよう。


2013年11月25日月曜日

20131124-00

好きな場所には一人で行った方がいいのだと思う。好きな人と/好かれている人と/友達と/知人と、色んな人と一緒に訪れたことがあるけれど圧倒的に一人で来た記憶のほうが大きくて、多分それはこの先も変わらないのだろうと思う。


多摩動物公園に行った。


数ヶ月ぶりの多摩動物公園はすっかり紅葉で、適度に涼しい気温のせいかいつもより人が多かった。真っ先に動物園ラーメンを食べたけど、食堂にも注文待ちの列ができていた。そういえばわたしあちらには一度しか行ったことがないかもしれないと思いながら、右手の方角を見ながら左に曲がった。歩くことが目的で、道のりの途中で目に入った動物をただ見る程度の意識で反時計回りに園内を進む。猛禽類の檻の中、かなり高い位置から落ちる滝のその絶壁ギリギリの川の中に大きな鳥が二本の足を踏ん張って水流に逆らい立っていたけど、コンタクトを入れていても全てがぼやけて見えるわたしにはその鳥の種類がわからなかった。
わたしが一番好きな動物・シャモアは、動物園の一番奥にいる。花形レッサーパンダを越えたそこ、シャモアの檻は急斜面で、おまけに彼らはその斜面の遙か一番奥にいることが多く、あまり人気がないゾーンで、わたしはそこに陣取って、彼らがこちらへ降りてくるのを・もしくはお尻をこちらに向け必死に餌を食べてる彼らが振り返ってくれるのを、ジッと待つのが好きだった。
数分そこにたたずんだだけで、さっと振り返った彼と目があったのでわたしは満足して、きびすを返したら人気のなさにかまけたカップルが熱い抱擁をしてたから、足早に檻を後にした。
動物慰霊碑でお参りをしたあと出口まで歩くことに決めたのだけれど、以前までは1kmほど何もなかった遊歩道に狼とモウコノウマのゾーンが出来ていて、地響きみたいな音が聞こえて見てみたら、狼が集団で遠吠えをしていた。どういうつもりで遠吠えをしているのか気になって解説の板を見てみると、動物園では感情が高ぶったとき・もしくは同じ時間に遠吠えをする事が多いようですと書いてあり、今のこの遠吠えは何となく、時報の遠吠えのような気がした。よくよく聞いてみると遠吠えにも上手下手があり、へたくそな遠吠えを必死でしている狼を何匹かみつけることは、間違い探しのようで面白かった。わたしたちにはわからないタイミングで彼らは一斉に鳴き止んで、狭いスペースの中でバラバラに座ったり、じゃれたり、歩き回ったりし始めた。



遊びに来ているたくさんの子供連れやカップルを見ながら、恋人や友達や子供が欲しいと思う気持ちは、ひどく滑稽なことだなと思った。自分とそういう関係性になってくれる他者が欲しいと言うことなのかなとも思ったけれど、子供に関してはそうではなくて、なんていうか、存在しない存在を願うというのはふしぎだな、と思った。存在しない存在が、しかし誰かに望まれて存在し始めるとして、しかしそれは存在を始めた瞬間から一個の人間で、これについて考え続けたら頭がこんがらがるばかりだなと思い、なんだかアイスが食べたくなった。


なんにもいない草むらを指差し「ねえここ何がいるのー?」と聞いた子供に母親が「そこには、まっくらさんがいるよ」と言っていて、それを聞いた子供が恐ろしそうと言うよりはその「まっくらさん」を憎むような顔で「いやだ!」と叫び駆けだして行った。

2013年11月23日土曜日

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ルーベンスの絵の下で眠るようにELIちゃんの絵の下で寝た。手足を(手、はいいか、足を)折り曲げないと体を横たえられないそこは一般的には床の間という場所で、なぜそんな場所で丸くなったかというとフローリングよりも畳のそこが幾分眠りやすそうに思えたからだ。50×130センチのそこに枕を持ち込んで、布団はなかったので布団カバーを頭までかぶって寝た。かぶっている布団カバーをちらっとめくり、上を見上げるとELIちゃんの絵がたしかにそこにあって、あ、ネロみたい、って思った。

http://ken-zen.blogspot.jp/2013/03/blog-post.html
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgp_Z1nMm2FV1xFDBC4gwhwxBoShtVEbinOQ1KgeWaMPeVBv52YL_TvdZj_vH8iMwKYgNlG06x498tOqcKNFPeJ-W0pgjHIWQYKogJPG6dmmT0Q85v1DBwBO2BOyy39OFZU_yjUgGeyn5Sp/s1600/IMG_0354.JPG

2013年11月21日木曜日

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足を一歩踏み出すたびに自分は本当に屑だ、と自覚する。貸し出された長靴を履いても砂はどこからか入ってくる、もしかしたらわたしの足の指の股あたりからわいて出てきているのかもしれない。
踏みしめた足元からキュッと砂の鳴る音がする。グッと足を踏み込むと力が足の裏から抜けていってしまうようで疲れるばかりで、一向に前に進まない。目の前に広がる砂はサラサラしているのに長靴に進入してきたそれらは確かに粒で、海風で舞い上がり顔に頭に降り注ぐそれらも粒で、右手で 必死にフタをするビールのプラカップに入り込むそれらも粒、どこもかしこも口内さえも、今のわたしはジャリジャリしている。

屑、とまた思う。

屑が砂にまみれて砂丘を登る。足を踏み出すたび長靴がズルリと数センチ滑り落ち、その数センチが積もり積もって壁になる。登り切ったと思えども視界に広がるのは次の山で、海風は確かに強くなり潮の匂いもするけれど、海にたどり着ける気は全くしなくなっている。

2013年11月20日水曜日

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downyの新譜を聞いてる。

downy、前からもちろん知っていたけれど、きちんと聞いて好きになったのはとっくに解散したあとだった。なぜかというと、あんまり好きじゃない女の子が、downyのファンだったから。なんとなく敬遠してて、でもきいたらすごく好きで、いつかの誕生日、自分へのプレゼントとして、出てたCDを全部買った。その年の誕生日プレゼントで、カセットテープももらった。
わたしのすきなバンドは、やっているときにライブをみたものもそうじゃないものも、今でも聞くバンドは休止・解散・脱退しているものばかりで、だからdownyのライブを見られるなんて、見られるかもとは思ってはいたけど思いもしなかったし(自分がチケットを手に入れられるわけがない・ライブというものに足を運べない)、だから来月だけれどもライブにいけるということに、すごくびっくりしている。
「downyのライブに行けた人生」と「downyのライブに行けなかった人生」、紙一重だし、正直多分そんなに変わらないのだと思う。変わらないのだけれど、わたしにとってはいろいろと、いろいろとものすごく違っていて、だから嬉しいは嬉しいんだけど、びっくりしているっていうほうがまだ強い。諦めてしまったというか、最初から望まないように諦めていたものが叶った感じがする。だから難しいんだけど、切望していたものが叶ってうれしいとかじゃなくて、死んでしまった人が生き返ったような、最初から望んでもいない望みが叶ったような。
あの子の脱退ライブ、 あのバンドの解散ライブ、一応解散はしていないけれど、事実上最後になってしまったあのバンドのあのライブ。物理的・時間的に行くことが不可能じゃなかった(のに行かなかった)それらについて考えるとどうしようもない気持ちになってしまうけど、そういうdownyとは全く関係のない、私のごく個人的な感情なんかが、ちょっと救われた気持ちがしている。

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自分が絶対やらなさそうなことをやる女の子って無条件でかわいい気がする。コンビニの、いろんなお菓子が並ぶ棚からホワイトチョコやラムレーズンを選ぶ女の子、レモンティじゃなくてミルクティを選ぶ女の子、かばんにディズニーのちいさなぬいぐるみをつける女の子。それらを選ぶという行為がひどく女の子らしく感じて、日常的に目にするそれらの行為にわたしは不思議な眩しさを感じる。ネイルサロンに行ったり下地を丁寧に塗り込んだり、髪を巻いたり香水をつけたり、そういうことのほうがより「自分のしない女の子らしいこと」の気がするけれどそれらはなんだか違っていて、可愛らしいなとは思うけれど眩しくは感じないのは、直接的すぎるからなのかもしれない。


わたしは、わたしが言う「いつか~しようね」が、永遠に実行されないことを知っている。
いつか二人で写真を撮ろう、いつか温泉行きたいな、いつかあそこの中華料理屋行こう。何ひとつ実行されないまま死んでも後悔はしないと思うからそれでいいのだと思うし、そういうものだと思ってる。果たされない、約束未満の約束を、たくさん抱えていると一人になっても例えば死んじゃっても、寂しくないんだと思う。一緒に何かをしたいと思う人がいて、その人もとりあえず「うん」って頷いてくれたという事実、そういうのを両手に抱えて眠れたら、ほんの少し寂しくなくなるんだと思う。

20131120-01

息の仕方がわからなくなるときがある。鼻と口、それぞれからどれくらいずつ吸って吐いてをしていたか/一度にどれくらい吸い込みどれくらい吐くのか/肺にまで入れたという感覚はないけれど空気を飲み込むようにしなくてもいいのか/どのくらいのペースで吸って吐いてを繰り返せばいいのか。意識すればするほど呼吸は浅くなり、地上にいるのに溺れてるみたいに息ができなくて苦しくなる。「呼吸」を意識しないようにすればスムーズに息ができる、それがわかるから次から次へと浮かぶ「呼吸」に対する疑問を無理矢理封じ込めてわたしは無理矢理意識を逸らす。『昨日(すー)テレビでやってた(はー)炊き込みご飯あれすごく(すー)おいし(はー)そ(すー)うだったな(はー)、今度家(すー)でもつく(はー)ろうかな(すー、はー)』。いっそ酸欠で倒れてしまえればいいのにと思う、気絶したり眠ったりして意識がなくなれば、自然と呼吸ができる気がするから。わたしは果たして本当にちゃんと、酸素を吸って二酸化炭素を吐けてるの、わたしはちゃんと肺に空気を送り込めているの、これを24時間365日意識しないと生きていけないなんて辛すぎる、
だったらいっそ、



夜、お布団に入り眠りにつくときには呼吸のことはあまり意識しない、呼吸のことで辛くなるのは人混みにいるときだけだ。夜寝るときに気になるのは呼吸ではなくて、目の位置。瞼を閉じて真っ暗になったときどこに焦点を合わせていいかわからなくて目の奥がツンと痛くなりどうしていいかわからなくなる。瞼を閉じてもわたしの目は瞼の裏を確実に見ていて、でも瞼の裏って言っても案外大きくて、それの中心なのか端っこなのかどこを見ていれば眠りに落ちることができるのかわからなくてキョロキョロして、目の奥が痛くなって途方に暮れる。光化学スモッグで濁った都会の夜空みたいなわたしの瞼の裏をずっと眺めているのは拷問に等しく、こんなに辛いならいっそ起きてようと目をカッと開くけれどそしたら目に飛び込むは壁掛け時計の文字盤で明日の起床時間を考えるともうそこには絶望しかなく、やっぱり眠ってしまわないと死だよ、死、とか思うけど目を瞑ると瞼の裏が襲いかかってくるし、わたしの目は死ぬまで何かを目撃し続けていてどこにも休まる場所なんてなくて、そう考えていつも絶望する。こういう時も呼吸と同じで意識を逸らすことだけが唯一の問題の解決方法だとわたしは知っているから、だからわたしはまたしても、必死で意識を逸らし続ける。意識を逸らすために脳裏に浮かべる今日あった楽しかった思い出と、目の前の瞼の裏の暗闇は重なることはなく同居して、脳内の映像と目に映る映像の、再生場所って本当に違うのだなって思う。

2013年11月18日月曜日

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こちらの世界の人は相手を殺さずに和解をするらしい、基地に帰ってきた先生のグループに見慣れない人がいたから間違って頭を撃ってしまって、でも咎められなかったからホッとした。
ていうか敵じゃないのに見慣れないってだけで殺しちゃってごめんね先生って思ったけれど(でもフード付きパーカーのフードを被った色黒の大男なんて、反射的に撃ってしまっても仕方ないと思う)、先生は足下に転がる4人の死体を無視して「久しぶり、無事で何よりだよ」ってわたしに笑いかけたから、わたしも笑顔で久しぶりって返した。
先生が言うには、注射するタイプの薬をわたしのお兄ちゃんが開発したから敵になっても殺さないでいいらしい。そういう先生の手には確かに何かが握られていたけれどどう見てもそれは杭にしか見えなくて、っていうか絶対杭、杭以外の何物でもなくて、でもそれを指摘するとめんどくさそうだったから、わたしは納得したふりをした。最後尾を守ってたお兄ちゃんがわたしに気付いて嬉しそうに手を振り、注射器(どう見ても杭)をわたしに渡してくれた。さっきの先生の説明通り、先日襲われて敵になってしまったはずのおばさん達が正気になって先生の後をついてきてた。こちらがわの絶対数アップは確かに心強いなと思ったけれど、向かってくる敵を殺さず一々薬を打つのは少し面倒だなとわたしは思った。
その注射器(ていうか杭)は木でできていて、わたしの両手の人差し指と親指でわっかを作ったくらいの太さで、一方が荒く削られていて尖っていて、尖っているけれどそれだけの太さだから刺さるわけもなく、だから木槌で尖ってないほうをコーンと打って、敵の足の裏に刺すってことだった。どう見たって杭だけれど注射器であるこれは、中にお兄ちゃんが開発した薬が仕込んであって、それが足の裏から全身に回り、ゾンビになっちゃった人たちを再び生者に戻すらしい。いたちごっこになりそうだけれど、こちらの数が相手を上回った瞬間に一気にかたをつけることができたら、確かにこの島から、敵を一匹残らず駆除(オセロの、黒を全部、白にひっくりかえすみたいに)できるのかもしれない。みんなを助けたいっていう甘ったるい理想をお兄ちゃんは叶えるために確かにこうして効果的すぎる方法を開発したわけだけれど、悪即斬とばかりに敵を見たら頭を撃てって教え込まれたわたしにとっては、みんなを救うために膨大な時間と労力をかけるよりも、とりあえず自分だけ生き残るために自分以外を殺しちゃうほうが、よっぽど簡単だし効果的に思えた。

20131118-01

ああ人間はこういう時にご利益のある壺を買ってしまうのだな、と思ってる。ご利益のある壺(100万円)はさすがに買えないけれど、ご利益のある石のネックレス(1万円)くらいなら買ってしまいそうだし、知人に「いい占い師知ってるんだけど一度見てもらったら?」って言われたら見てもらってしまいそう。

こういう時の人間の心理を分析して、例えば何か嫌なことが起こった時に、(1)その原因が不明瞭な場合(2)連続して起こる嫌なことの、その連続性に因果関係を求める場合――オカルトに傾倒してしまうのかな、と思った。
わたしの場合は(2)。全く関連しない事柄に無理矢理関連を求めてしまっている場合。頭ではそれらは全く関係ないとわかっているし、それぞれの原因と解決方法もわかっているのにそれでもだめだ。
例えば、(1)自転車が盗まれた(2)配達されてきたamazonの商品が破損していた(3)家にゴキブリが出た(4)職場でクレーマーからの電話に当たった(5)わざわざ電車に乗って向かったお店で目当ての商品だけが売り切れていた――これらの五つの項目に、因果関係を求める場合、それはオカルトに頼るしかなくなる。
(1)最近いいことがありすぎたから(2)わたしに実は今オバケが憑いているから――悪いことがこんなに立て続けに起こるんだ、って思うとすごく楽になるのだと思う。それは、目をそらしていると同義なのかなと自分では思うし、そこに因果を求めても何の解決にもならないし、問題1~5の解決方法というか対処方法はきちんとわかっているのだから冷静に普段通りの頭で一つ一つこなせばいいだけなのにそれができなくて、多分、一つ一つの出来事はものすごく小さな事柄で、それこそよくある「不幸」「不運」 程度のものなのに、それら一つ一つを解決する前に次の事柄が襲ってくるから、ボディーブローみたいにじわじわ精神が浸食されて、その結果わたしは今とても、お祓いしたいし占いに行きたい。その出来事の一つ一つ、正しい原因を言われるよりも「それは全て、あなたに取り付いている幽霊のせいです」と言われたほうが楽になるのは、ありもしない藁人形を殴るみたいな、そういう無意味なことなんだろうけど、きっと精神がどこかに、イケニエみたいに原因を捧げて、そこに振り上げた拳を振り下ろしたがっているからなのかなとも思う。


ここまでわかっていても憂鬱なものは憂鬱だし、お祓いはしたいし胸はざわざわするし、だからせめて今目の前にある問題を箇条書きにして、今できることとそうじゃないこと、明かさなきゃいけないこととやらなきゃいけないこと、本当は自分はどういう精神状態になっていたらよくて、そのためには今気分転換が必要で、だから例えばラジオを聞いてバラエティやアニメを見て小説を読んだり、そういうこと必死でしてるけどまだ全然全く落ち着かないから文章を書いている。精神回路が透明な模型になって俯瞰で見れて指でいじくれたとしたとしても、多分全然現実に反映されなくて、だから人間の感情って難しいなと思う。誰かを好きだという気持ちがコントロールできないなんてのはよく聞くしわかってるけど、何かの問題に直面した時に、賢い行動ができないのは得てして感情が邪魔をするせいで、そういうときにわたしは自分の愚かさを思い知って嫌になるのだけれど、今ものすごく、そういう感じ。なんて「賢くない」んだろうって思うんだけど、それでもコントロールできない感情があって、それはそれとしてコントロールできないものとして認識して、何とかごまかすのが賢いと思うので、だから今から食器を洗います。

2013年11月9日土曜日

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例えば輪郭をうっすら知っていても、分かってしまっていても、それでも目の当たりにすると耐えきれないような出来事があるとすると、わたしにとってそれは、「暴力的」とでもいいようがないようなものになる。

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すきな人の作品に対して私情を挟まずそれを鑑賞するということ、昔のわたしならばできていたはずなのにどうしてもできなくなってから一年弱、でも邪念みたいなものにとらわれて素直にそれを見れなかったりしたのは最初だけで、もちろん何かのフィルタはかかりっぱなしなのだろうけれど、追っているうちにきちんと物語に入り込んでしまうということは、もうそのものが、そういうことなのだろうと思う。多分わたしは正しい鑑賞者ではないのだと思う、どうしてこうなのかなとも自分で思う。
今まではこんなことなかったのに、の、正しそうな理由を挙げることは実は簡単なのだけれど、それを差し引いたっておかしいと思うし、つまりは今のわたしは正しくないのだろうな、と思う。 思うのに、これ以外にどうしようもなくって、でもぬかるむ足元を踏みしめてちゃんと繰るには勢いづけなきゃダメで、とにかく思いつく手段を使ってわたしは今こうしてここにいるのだけれど、どうしても、わたしの口から出るすべての言葉が、間違っているとしか思えない。


立ち位置や立場や役割、どんなに優れた人でも誰かの父親母親兄弟恋人友人子供全部にはなれなくて、それをひたすら悔しいと思うときがある。わたしはここ最近ずっと、それがとても悔しいなと思うけれど、それは例えば反転して自分に当てはめたらすぐわかるしょうがないことで、でも悔しいなとは思ってしまうから、ひとりでパソコンに向かって文章を書くのです。重ねるごとに、私情というか色眼鏡が取れて純粋に見れてしまうこと、すこし怖いけど、だからこそすごいなあと思う。わたしが君の作った作品を好きだということ、明言は死ぬまでできないと思う、知られてはいるだろうけど明言はしてはいけない気がするし、しないだろうと思う。もしかしたら勘違いかもしれないけれど、なんとなく、することは適切ではないのだろうな、と思うから。でもわたしは本当に、



明日はエビをスーパーで買う。

じぶんメモ:10がつ本まとめ

そろそろ記録すらしなくなってきていて、いけない。
記録すらしないのは、家にある本か、もしくはまんが、再読。
そういうものばかりよんでいる。


20131109-01

毎日いやなことが少しずつ、でも確実に起こるけど、毎日びっくりするくらいわらってる。おとといもたのしかったし、きのうのよるもたのしかったし、毎日すごくしあわせだと思う。でもあんまりにも少しずつ、でも確実に起こるいやなことが積もり積もって重すぎて、人間はこういうとき、変なツボとかを買ってしまうのではないかな、と思っている。
扉を閉めた瞬間に聞こえる他人の笑い声とか、そういうものにビクっとするのはすごく無駄だから、早くやめたいな、と思う。

毎日すごくたのしくて、楽しくない瞬間もやまほどあってというかそういう時間のほうが一日のうちに大半なんだろうけれども一日一度は口をあけて声を出して笑えていて胸が痛い感じで「“いま”しあわせだな」と考えるから、わたしは幸せなのだと思う。幸せは瞬間のもので、「変わらない」ってことは絶対になくて、じゃあなんで変わらない幸せを享受しているように見える人たちが存在するかというとその人たちが(無意識にしろ)ものすごい努力をしているからだとわたしは思う。もしかしたら、息をする、心臓を動かす、というレベルのことをわたしが努力しなければできない人間だということだけなのかもしれないけどわたしにとってそれは血のにじむような努力で、だから今日わたしがしあわせなのは、誰かや誰かのおかげでもあるけど、わたし自身の努力の結果でもあって、でもこの努力をしなくなったら堅牢に見えるこの足元がガラガラ崩れてしまうこともわかっているから、だからきっと「しあわせだな」と思うとき、胸が痛いんだろうと思う。



すごくさむくて手がうごかないから、ちょっとだけおふとんにくるまってきます。

2013年10月17日木曜日

20131016-01

視界に広がる風景が、5年前のそれだったから泣けて仕方なかった。風景の相似とだからこそ際立つ欠落、下手なドラマや小説のようにそれの名称を声に、音に 出して呟いてみると涙が加速するのなんてわかりきっているのに、そうしないとなにかに栓をされてわたしの中身が腐って醗酵し膨らんで小さく爆発してしまうと思ったから、そうした。右を向き寝ころんで泣くと、当然だけれど涙が横に流れて、頬と枕の間に挟まれている髪の毛を濡らす。これはもしかして右のフェイ スラインの髪だけぐねぐねと妙な癖がつくのではと心配になったから、頬に手を当てて、髪の毛から涙をシャットアウトして泣いた。


今何かがほしいのではなくて、なくなった時間や光景そのものへの恋慕は、薄れるどころか深まるばかりなのだと思う。それを思うたび自分の愚かさを突きつけられるようで、だからそのもの自体に対しては泣けないし、でも本当は、声を上げて泣きたい。



フラッシュバックするいろいろが薄れるのを期待するのではなく、慣れるのに期待している。なくなったものやひとや場所、なくしてしまったそれら、わたしが罅を入れたそれら、それによって変容してしまったそれら。蓋をして見ないことで防御をしていたけど蓋を取ってそれを乾燥させてかさぶたにする作業がこれからで、だからわたしが今泣くと、またそれらがぐずぐずになるし、だからわたしは、泣いてはいけない。

2013年10月15日火曜日

20131015-01

からだじゅうに、小石がついているみたいな感覚がする。

古い書類を整理していたら、よくわからない会社からの給与明細が出てきた。一日だけのアルバイト(派遣の、試食のサービスのような)かなと思っていたけれど肩書が「社員」になっていて困惑している。わたし絶対この会社の社員になったことはない。その給与明細には普通の会社にはあんまりないであろう項目もついていて、あまりにも思い出せないからもしかしたらこれはわたしのじゃないのかもとか思ってはみるけど右上に記された指名は間違いなくわたしだし、平成21年のわたし、いったいなにをしていたの。



自分のこと、だけが、上手にできない気がする。朝と昼間、死ぬほど眠たいのに、夜になるとそれがどこかへいってしまう。ここ1,2か月、本も読めていないし文章も書けていない。そうすると、なんだかひどく、自分がおちつかない。


はやくおちつきたいな、とおもう。本を読んだり、くだらない文章を書いたり、そういうことをしたいな、と思う。あとちょっと、あとちょっと、で毎日頑張ったら、昨日の自分に毎日感謝をすることになっていて、だから明日のわたしのために今日もわたしはがんばるのだけれど、でもやっぱり、ねむたいから、今日ははやくねてもいいかな、ごめんねあしたとあさってと、そのまたつぎと、とにかくみらいのわたし。

じぶんメモ:9がつ本まとめ

宣言通り全く本を読めなかった。そして10月も読めていません、読めていないというか、記録自体もできていない。
11月には落ち着いて、毎日本を読めるような生活にしたい。ものです。

2013年9月16日月曜日

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浅く腰掛け足を放り出す、少しの罪悪感と溜め息を吐く。まっすぐ上を向いた長靴のつま先がぼんやり滲んで涙ぐんでいる自分に気付く。
ガラガラの電車は街を切り裂くように進む、着駅のアナウンスよりごおっというエンジン音が響く。人の声が聞こえない程度にボリュームを上げたイヤホンで両耳を覆うと世界が無声映画のようで、末端とわたしが切り離される。


夢占いが不必要なほどのあられもない夢を見て愕然とした。何度同じことがあっても全く慣れない。深層心理はもっとオブラートに包まれるべきで、いっそ薬局で買ってきてむしゃむしゃ食べたりしようかと思う。内臓も何もかもわたしを全部、オブラートで包んでしまいたい。

ここから知らないところに逃げたら全部ましになるのかなって期待すると同時に答えも知ってて、だからわたしはノロノロ歩く。地縛霊がいるならそこを離れろ、でもそれはわたしに憑いてるみたいで、だからわたしはお風呂に入る。ゴシゴシ洗っても泡が立つばかりで、いっこうに何にもおちてくれない。




短いホームと長い階段、エスカレーターでまた階段、すべて同じ速さで歩を進めると自動でどこかへ運ばれてるような錯覚に陥る。放り出した長靴の、左右が知らぬ間に交差している。押しつぶされた左がまたゆっくり滲んで、次の駅まで目を瞑る。

2013年9月15日日曜日

20130915-02

「しんだほうがいい」と呟いて彼女は生きた。

20130915-01

冷や汗、は、本当に冷たいものだと立ち上がってつくづく思う。無理矢理流した前髪が額にペタリと張り付き鬱陶しい。かけてあったタオルでうなじに溜まった冷えた汗を拭い、そのまま首筋とこめかみを拭いた。
世界がどう見えるかは、フィルター次第だと思うしわたしはそれが真実だと確信している。同じ登場人物とあらすじでもハッピーエンドのフィルターを通せば世界は幸せだし、ネガティブフィルター越しに覗くとそれは不幸以外のなにものでもない。自分のとるべき行動も幸せフィルターを通して出したなら最適解だしなのに不幸せフィルターを通して墓穴を掘るのは感情に流されてしまうからで、つまりはセルフコントロールを完璧にこなせば、人は絶対幸せになれる。そしてわたしはそのセルフコントロールという至極簡単なことが、ぜんぜんまったく完璧にできない。



リハビリが必要な程度になまけている。リハビリのためのリハビリをしないとだめだ。

2013年9月1日日曜日

じぶんメモ:8がつ本まとめ

なんだか全然だめだった。
本が全く読めないときは、たぶんあんまりよろしくないときなのだとおもう。
小説を読むと気持ちがそっちにもっていかれてしまうので、漫画ばかり読んだ。
漫画は、のめりこんでもパタンと閉じたらちゃんと切り替えができる気がする。
後から思い出して考え込むことももちろんあるのだけれど、小説だと自分の頭で具体的なイメージを考えてしまうから、脳裏に焼きつくのが強いのかなと思う。脳裏に焼きつくというか、焼きついて、残ってしまう時間が長いというか。

9月は8月以上に本を読めなくなる予感がしている。いやだな。




2013年8月27日火曜日

20130827-03

わたしは一生ごめんねって言い続けてると思うし、それは誰にも理解されたくない。

わたしにこっそり一人で思い出して切なくなるような思い出があるように、わたしの好きな人にもわたしのしらないそういうものがたくさんあるんだろうなって思ったりすると、どうしていいかわからなくなる。当たり前だし、別の人間だということはつまりそういうこと、たとえ小さいころからずっと一緒の双子だったとしても共有できない思い出はできるしそれを否定するのは相手の否定そのもので、それよりなにより自分自身に自分自身でしかほどけない部分があるのはわかっているのに、もてあましてしまうような、どうしていいかわからない気持ちになる。

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わたしはすぐ泣く、本を読んでもアニメを見ても漫画を読んでも絵を見ても泣く、でもほんとうに泣いてしまいたいことで泣けない。くちのなかの、両方の奥歯の奥のところが変な味になって喉が詰まり胸が苦しくなる、だけど涙が絶対出ない。たぶん、わたしはこのことで泣く権利がないことを、自分でよくわかっているからだと思う。

だからわたしは一生、そのことについて、きちんと泣くことはできないのだと思う。

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しあわせになりたいなんてばかなことおもってはいけない、と思った。すっかり忘れた顔をして、なにを笑って望んでいたのだろう。誰かに期待したり優しくされたりなにかそういうまっとうなことを気付いたら望んでいて当然の顔をしてそれを享受して、はずかしくなる。それそのものがどうだとか、どうこうしたいとかそういう問題じゃなくて、現実の何かでもわたしでも誰かでもなくて、それはもう規定されたことで、どうしてわたしは気を抜くと、当たり前みたくしあわせになりたいななんて思うのだろう。

このまんま外に出て歩いてどこかへいってしまいたい、だけど明日もわたしは仕事だし、ひざの上には猫がのっていて、だから多分わたしはそれをしない。明日の約束や仕事や授業やそういうものをすべて投げ出して鈍行に乗ってどこかへいくようなまね、多分わたしはもう一生しなくて、それは年をとったとか責任感がどうという理由ではなくて、どこへいったって、わたしはわたしから逃げられないからだ。




だれにも「そんなことないよ」って言ってほしくない、「どうしたの」なんて訊かれたくない、理解した顔を向けられたくない。だけどすきなひとや、死んでしまった鳥や、見えないふわふわとしたかみさまみたいな存在に、きっとわたし許されたいと思っている。

2013年8月26日月曜日

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たとえばこの世界に泣いている女の子が無数に点在しているとするじゃないですか、「嬉しくて」じゃなくて「悲しくて」のほうの涙を流してる感じの、自分が幸せではないことに彼女自身が納得していることもあるので彼女らを「不幸」とは定義したくないから「幸せじゃない」と言うけれどとにかく幸せじゃない状態の女の子が無数に点在しているとするじゃないですか、そんなこと許せますか、それって許していいものですか、許せるわけはないんですよ。

たとえば僕の存在を犠牲にしても1mm程度しか救われなかった彼女、僕の愚鈍さに殺された彼女、彼女も僕もほかのどんな人間もどうしようもなかった覆せない強い現象に潰された彼女、たとえ僕が命を捧げたとしても救われなかった彼女、どうして僕は強大な、宇宙みたいな力を持たなかったのだろう?? どうして僕は彼女たちを救えなかったのかな、どうして彼女はまだ泣いてるのだろう、ねえそれって絶対許せない、だから僕は世界を救いたい、無敵のスーパーヒーローになりたい。




君の最期に「なんちゃって」をつけてフィクションにして自分だけ救われるような真似、僕はそんなことしてはいけなかった。最期の走馬燈の、そのわずかな一瞬暖かければ救われるわけじゃ絶対にない、ほかの誰がなんと言おうとも、君は優しくて穏やかな時間を、そんな一瞬じゃなくてきちんと生活としてすごさなければならない。君の身に起こった恐ろしいことやいやな思い出はタイムスリップして根本から断ち切りたいし、君がひとを憎んだりころしたりしないですむようにしたかったし、君が自分のことをきたないなんておもわないようにしたかったし、腐って落ちてドロドロになってなってほしくなかったけれど、君がひとを憎んでころして腐ってドロドロになったって汚くないしそれでも好きだし、僕は君がどんな姿で僕の前に現れたって、すきだよきれいだよって言って抱きしめたかったし、どうしてそれが、君が腐って落ちてドロドロになってからしか気付けなかったのかって思うと死にたくて仕方がないけれど、僕が死んでも君が救われるわけじゃなくてじゃあどうしたら君が救われるかというと僕が無敵のスーパーヒーローになって、君と君の世界を救うしかないんだ。

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女の子が「きたない」って言って自分の皮膚をこすって血が滲むような、そういうものにわたしは絶対耐えられない。そんな世界ならいらないと思うし、そんな世界をどうしてわたしは変えられないのだろう? でも真っ暗な部屋から爛れた皮膚を引き摺った血だらけの彼女が出てきた瞬間一瞬硬直したわたしに彼女はきっと気付いていて、ほかでもないわたし自身がこの世で一番彼女を傷付けたこと、わたしはきちんと、認めなければならない。




「しょうがなかったよ君はやるだけやった、彼女だってああいう最期を迎えられてきっとしあわせだったよ」なんて、絶対わたしは認めない。

2013年8月20日火曜日

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ずっと考えていることがあり、わたしはたぶん一生、それの答えをみつけられない。


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「えいえんの恋人」は終わってしまったから「えいえん」なのだろう。蜜月を過ごしてからの別れと思いが通じた直後の別れ、思いが通じる寸前での別れと出会う前の別れ、どれが一番ましなのかなんて、きっと誰にもわからない。18歳と19歳の境目がバッチリはっきりしているのと同じく、生者と死者の境目も、キッパリぱっちりわかれている。愛情の深さにかかわらず、握った手の強さは体温に比例する。わたしのことを世界一好きなきみでもかなわないものがあり、袖振り合った程度の他人のほうがここでは強い。人生における「その他大勢」にわたしを数えるひとたちに、わたしはひっぱられてきっと留まる、でもきっとそれが、この世の理。


それでもわたしは、だからわたしは、きみのことがえいえんに大好き。

2013年8月17日土曜日

20130817-01

出る答えは毎回同じで、わたしはいつも、後悔しかしていない。

2013年8月10日土曜日

20130803-01

わたしはこれを直接本人に言えないから穴熊みたいにここに篭ってここで書く、わたしやっぱりフィクションには、圧倒的ハッピーエンドをむかえてほしい。
それをそのままフラットに見られないわたしは、いろんなものに勝手に自分を重ねてぐっとくることが多々あるのだけれどそれがとても顕著、そうしてそういう感想はとても失礼なものだとは思うけれども琴線に触れて泣かされたのも、わたしがこれをとても好きだというのもすべて事実で仕方ない。
そのもの自体もすごく好きだし透かしてその奥を見てしまったり、個人的体験を重ねてしまってすごく心がざわざわする。人が泣いたり傷付くシーンがひどく辛くて、知ってたはずの台詞も予測できた結末も窒息寸前の酸素みたいに焦がれて待ち続けて与えられたみたいで、でもまだ酸欠だから完璧なハッピーエンドが、わたし、見たい。
生まれてしまったひよこを目の前にしての鶏が先か卵が先かの議論はとても意味のないもので、だから理由や因果やそういうものを考えても考えなくても解明されてもされなくてもわたしがこれをとても好きで電車の中で泣いてしまって慌てて顔を隠そうとするも文庫本が小さくて隠しきれなかったり、カバーを取って持ち歩き用にしている一冊のほかに保存用としてもう一冊購入したのも事実だから仕方ない、別に誰にも伝えなくてよいことだけれどこのブログにも何度も書いているように好きなものを大好きだと叫びたくなる衝動が訪れるときがありそれが今だから書いている。好きな人に好きなものを好きだと伝えるのは実はとてもハードルが高いことで、別にそんなこと言わなくても誰も不幸にならないし何より言えないのだけれどどうしても言いたくて、だからだらだら駄文を書いています。

ツイッターで書いたこれ
“わたしは物語をすべて自分自身のものとして捕らえすぎるきらいがあるかもしれない、だからこんなにすぐ泣くのだと思うし、それはそれでひとつの楽しみ方かもしれないけど人と物語の感想のいい合いがこれではうまくできないしそれはなんだかんだでちょっとつまらないし酷く浅い気がする”
“それをそのままにして感動するということもしかしたらわたしはできていなくてだから余白を想像できないし、Aというキャラに対しての気持ちではなくわたしに透かして見たA’というキャラひいては自分のA’’という状況への思いに瞬間で摩り替わっているのかなと思った”
“百人百通りの物語の鑑賞方法でよいのは勿論だけど、自分が自覚し ている限定された冷静に見られない作品だけではなくすべてのものに対してそうなのかもというか 摩り替えはいつか起こるのだけど瞬間過ぎないかなというか  物語自体の余白も余韻も1pxもないのはどうかとか”
 わたしの鑑賞方法はまさにこれ、すぐに思考が作品からそれる。とくにこれは「自分が自覚している限定された冷静に見られない作品」の最たるもので、でもそれはとても正しくないことだとおもう。それでもどうしても言いたかったから書きました。わたしはこれがすごくすき、心が動いたしなかされたし笑った、すごくおもしろかったしすごく痛かったし本当に最後まであえぐような気持ちで読み進めた。こんなところでばかみたいにばかみたいな文章書くくらいすごくよかったです。

2013年8月2日金曜日

20130802-00

新学期が始まる頃には体がすっかり怠惰モードに切り替わっており慣れた部屋の空気もベッドもわたしに絡み付いて離してくれず、つまり平たく言うとこの新学期の始業式早々、わたしは寝坊している。今日の時間割を見てみると朝一で国語の普通授業、次は4時間ぶっ通しでレクリエーション(今日は新学期で始業式で、もっと言うと新年度なのであり、クラス替え間もない生徒達を馴染ませようとする学校側のいきな計らいがコレ)、その次は二時間の合唱、その後は一時間ずつ社会と音楽、授業終了はなんと夜の8時である。時計を見ると今は昼0時10分、レクリエーションには途中参加で気まずいし合唱なんてやりたくないし、ああじゃあ夕方から登校しようかと思ったけれど今年度の新しい担任はわたしにとっては新しくなく去年と同じで、つまり怒りっぽく厳しく嫌みなカネコで、遅刻した挙げ句普通授業だけ出席するなどなんと言われるかわからない。あー面倒だけれど事前に連絡を入れておくかーと準備をしながら家を出ると雨が降っているしおまけに電車が人身事故、あっ事故のせいにしようかな遅刻を、でもそれだと寝坊して昼に起き人身に巻き込まれたのがバレバレで、ってなにをこんなに言い訳を考えるのに終始しているのかと言うとひたすら怒られるのが嫌だからだ。だってあの人ネチっこいんだもん怒り方が、「はぁ~ん? 寝坊したんですよねぇ?そんなのそこの窓から飛び降りて死ねばぁ?」とか言うんだもんたまんないよとか考えながらわたしはとりあえずホームに向かう。たらたらホームに滑り込みたらたらホームから発車した各駅停車は適度に空いており朝のラッシュとは大違い、運良く座れたわたしはめんどくさいめんどくさいと考えるばかりで肝心の学校への連絡をしていないことに気付き電話をするため隣の駅で降りる、降りてしまってから今電車の間隔が非常に長くなっていて次の電車がいつ来るかわからないことに思い当たりいったいわたしはなにをしているんだとひたすらイライラする。学校に電話をしたけど出たのは事務の男の人でさっぱり話が通じないし伝言も伝えられない有様で、このまま遅刻の連絡ができるまで電話をかけ続け電車を見送り続けたら本末転倒と判断したわたしは連絡を諦めまた電車を待つ。幸い程なくやってきた各駅は先ほどと同じくらい空いていて、でも座席の配置がおかしかった。わたしは車両のはしっこの、車窓を囲むように設置されたL字形の3人掛けのシートに座り、いつの間にか隣に立っていた名前しか知らない男の子もそこの逆端にちょこんと腰掛ける。「僕、ずっと君に会いたかったんだ」と話すその子にわたしも会いたくはあったけど今は教師への遅延連絡をなんとかメールでできないかと携帯のアドレス帳をポチポチ調べるのに忙しく、休み明けの記念すべき初・他人との会話(そしてずっと会いたかった男の子との初会話でもある)を鬱陶しく感じてしまうからおざなりな対応になってしまい、「ああ、うん」と答える自分の声が思った以上に冷たく響き覚えなくていい罪悪感がわたしを満たす。なんとか教師のメールアドレスを見つけ「せんせー、遅れます」とメールをするとすぐに「早く来い」と返信があり、取りあえず怒られることは決定したけど怒られれば遅刻は許されるだろうからオールライトということで、人心地ついたところでなにか大事なことを思い出す。
……あれ、わたし卒業論文を提出した記憶がある、たいしたものじゃないけどテーマもはっきり覚えている、友達がおらずつまらなかったから記憶がおぼろだけれど卒業式の記憶もある、それはつまりもう学校に通わなくていいと言うことで、でもただ単にわたしが自分が卒業したことをすっかり忘れていてこうしてしてもいない遅刻に怯えながらも電車に乗っているだけならわかるけどなぜ教師から「早く来い」と連絡がきたのだと頭がグルグルしたとたんわたしは病室にいた。無機質な天井と無機質なリノリウムの床――という表現をしたくなるけどそこはなんとも味のある古い天井、なにかを貼ってはがした跡や不気味なシミなどが目立つ病室はなんだか生々しく、こちらが本当の世界だとわたしは一瞬で悟ってしまった。新学期、クラスはバラバラになったものの一緒に進学したはずの級友の顔が卒業アルバムみたいに脳裏に浮かび、その一つ一つに大きな赤いばってんがつけられて、なにかのアニメの演出みたいだなと思いながらもわたし以外の級友がみんな死んでしまったことを思い出す。

2013年8月1日木曜日

じぶんメモ:7がつ本まとめ

漫画おおかった。というかほぼ漫画だった。
人と貸し借りするとたくさんよめてよいです。


2013年7月27日土曜日

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わたしは今蛍光灯が消されパソコンの画面だけがまぶしく光る部屋で一人でウイスキーのソーダ割りを飲みながらヘッドフォンを装着して、さて、と画面に向かっているところだけど、もうだめだと思ったので、さて、とはじめようとした作業を中断してこの日記を書いている(このブログはわたしの日記のようだけどもほとんどすべて何かの感想や妄想や夢で、実は日記を書くということはひどく珍しいことなのだけど、それはわたしだけの話だ)。

いつぞやELIちゃんの展示に行ったときの日記を書いたけれど(これ)、わたしはELIちゃんの絵が、漫画が、文章がとても好きで、ELIちゃんがELIちゃんをいろんなところにおいてきたときも(これらのシリーズ、うまくリンクがはれない)、ochitemashitaタンブラもすごくすきだったのだけど、もうだめだと思ったのでこの日記を書いている。
ELIちゃんのたんぶら(2013/07/27現在であれば、最新のものからズラリと続いているはずだけれど)を見て喉がグッと鳴った。瞬時にわたしは郵便ポストになりたいと思ってしまったけれどそれは多分間違いで、そうじゃなくて、なんて素敵なのだろうと思ったし、ELIちゃんは字が上手でかわいいなって全然関係のないことをぼんやりと思ったりしている。

生きていて、モヤモヤすることや穴のようにぽっかりと自分に空間が空くことがあり、でもそこばかりに注視しているわけもいかないのでわたしはそういうものをなおざりに処理して日々の経済活動に精を出すわけだけれどなおざりに処理されたそれらは存在し続けるわけで、でもそれらを無視して人生を幸せに終えることも可能、でも確かに存在するその穴やモヤモヤを、ELIちゃんの作品はふんわりと埋めてくれる。誰にもわかってもらえない、言葉にもできない、そういうことを、言葉にできないまんまにふわりと包んでくれるような気がする。せかいにわたしは一人ぼっちで、わたしの戦いはわたしのもので、だからひとりきりで戦わなければならないのだけど一人じゃない気がする、一人で戦わなければならないことには代わりはないのに一人じゃない気がしてしまう。

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わたしは最近「人生の主役とは」と考えていて、人はそれぞれの人生において主役というのはきれいごとで、絶対そんなことはないと思っている。誰かの人生の端役や裏方として全うする人生というものも確かにあって、逆張りみたいにその人にスポットライトを当てればその人が主役になるのかもしれないけれど性質として間違いなくそれは主役じゃないしとか、そういうこと。自分自身について考えたときに、もしかしたらわたしはそれになるのかなと思っていて、でも何が自分の幸いかと考えたときに、例えば、だいすきなひとやだいすきなともだちにものすごく愛されてかわいがられたとしても、自分がからっぽだとしたら、わたしは絶対不幸せだと思った。わたしを救えるのは自分だけで、つまりはそういうことだと思った。わたしの悪いところは、すぐにスーパーマンになりたいと思うことで、例えば誰かの裏方にもなりたいし自分のことも頑張りたければ二人分の働きをすればいいと単純に思ってしまい、その上自分にはそれが(精神力によって)可能だと思い込んでしまうことで、自分への過信でつぶれてしまいそうになることもあるのだけれど何度検討してもそういう結論に達する。

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例えば他人に「君は今どう思っているの?」と聞いたとして、その答えがAであってもBであっても疑うのは容易く、それならば真実は自分の中にしかないのだ、と最近とみに思うようになった。相手がAというならAである、それ以上のことはわからないし、もし相手が本当はBであるのにAだと答えたならばそれこそが相手の答えであり、つまりはすべて自分自身が納得できるかどうかだ。そもそも他人に何か答えを求めるということからして間違っていて、本当はそれは自分で読み取らなければならないもの、わたしが欲している答えはたいていそういう性質のもので、だから知らない誰かや知っている親しい人に背中を押してもらおうということ自体が間違っている。
でもそういうとき、ひとりきりで頑張るのはとてもしんどい。ひとりきりで頑張るものだし、ひとりきりで頑張らなければ意味がないけどやっぱりどうしてもしんどい、そういうときにふんわりつつまれたら、よくわからないけど喉の奥がグッとなってしまう。わたしの人生はわたしだけのもので、わたし一人だけのもので、だけど一人なことにしんどくなったとき、こうやって誰かの行動や絵や漫画や文章が救ってくれることがあって、それらがわたしを救うためのものじゃないってことにまで救われて、上手に言葉にできない分、わたしの喉が鳴る。




20130727-01

7月24日の誕生日の友達が3人いて、高校のときまでは4人いたのになって思っていて、わたしはそのせいで、車があんまり好きじゃない。7月24日の誕生日の友達のうち一人のプレゼントをレターパックでさっき投函した、あれは海を越えて彼女の元へ届くのだと思う。7月28日の誕生日の人へのおめでとうメールをさっき下書きして保存した、添付の写真の日時を見られたら事前に準備していたことがばれてしまうし、わたしが一番にメールを送れるように、今日の11時58分にアラームをかけていることは、この日記を見てしまったあなたとわたしだけの秘密にしておいてほしい。

2013年7月24日水曜日

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「結婚しよ」って冗談みたいにいわれて、冗談みたいに「はい」って言って、気づいたらおなじおはかに入ってたらいいな。



20130724-01

強い音楽を聞きながら強い小説を読むと頭の中がぐちゃぐちゃする、耳と目とで脳を引き裂かれるようで、音楽にも文字にも集中できないけど、たれ流される音楽はそのままに流砂を泳ぐように無理矢理文章を読み進めていくと脳味噌と意識がぐちゃぐちゃ汚らしく混ぜたサラダみたいになる。音楽を聞く耳と文字を読む目がそれぞれあるのに処理をする脳味噌は一つなんだと切実に思い知らされる。

強いというのは激しいとか刺激的なという意味ではなく心がかき混ぜられるようなという意味で、最初から心がかき混ぜられるものだと覚悟ができていれば脳味噌もそれだけに集中するけれど名作や名曲や思い出が付随するものではなく聞き流せる・読み流せると思ったものから不意打ちで受けるミキサーみたいな衝撃は、感じた瞬間耐えきれずにブレーカーひとつ落としてどちらかに集中することもあるけれどこうして引き裂かれてどちらもきちんと頭に入ってこないまま消化不良で飲み下すこともあり、それはとても贅沢だけれど苦しい行為で、続けるうちに強い音楽や小説そのものよりもあたまのぐちゃぐちゃ具合にばかり意識が行くようになり、音楽を聴いて文章を追いながらなにが今わたしの琴線に触れていて、なにが今ミキサーの刃となってわたしをかき回しているのだろうとか考えてしまう。

音楽と文章には相性があるけどそれすら合わせない、出た目のものをぐちゃぐちゃ混ぜるみたいな行為は意識してできるものじゃなく、いろんな条件が重なって偶然発生し、その上でわたしの体力と気力があるときだけ楽しめるものだけどその苦行で無為な行為がわたしはほんのすこし好きで、だから今日わたしは中央線で26分間、ミキサーされていました。

2013年7月6日土曜日

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藁人形でかみさまを作りそれに毎日祈りをささげる、そうしたら藁人形にいつか命が吹き込まれ本当のわたしだけのかみさまになるかもしれない。本物なんて誰にも定義できなくて、もうそれはわたしが本物だと思ったら本物だというそれこそ宗教みたいなものなのだと思う。誰かが何かから救われた状態というのは何を指すかもわからなくて、もうすべて本人の心構えで、でもなにより間違ってはいけないのは、たとえそれがひどい状態だとしてもそれを選んだのはその人であって、決して藁人形のかみさまがわるいわけじゃないんだよ。

2013年7月2日火曜日

じぶんメモ:6がつ本まとめ

7月は意識的に読む量へらそうとおもってる。
6月は、25日の新刊ラッシュがやばかったです。

読書メーターで、なるべく感想をかくようにはしてるのだけど、
管理のためにはしかたないというかわかれてないとこまるけど、
文庫やハードカバーやキンドル版がそれぞれ別だと、
読書人数も、そして母数が違うゆえのみんなの感想がぜんぜんなかったりして、
たまにキンドルで読んだのに普通版で感想書いたりしちゃう。


2013年6月30日日曜日

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neko.

20130630-01

ひとが死ぬけど自由なせかいと、ひとが死なない不自由なせかい、どっちがしあわせなのだろう。





防音のおうちにすみたいな、と思った。実家は田舎なので隣の家まで100メートルあるし、その次に近い家は数キロ離れている。わたしにはやりたいことがあって、でも全部やるのはなかなか大変で時間は1日24時間しかなくて、考えてしまうと結局一歩も動けない。すべてのことを客観的に見られるとしたらそれはきっとただの勘違いで間違いで、でももしわたしが今のわたしを俯瞰し正当な判断を下すなら「その贖罪はまちがいだよ」と言う、でもこうするほかに術を知らない。

偽者の神様を創りそれを崇め奉るようなまね、自分の慰めにしかならないのはよくわかってる。



あなたは情が深いから、と言われたけれど本当はまったくそんなことなくて、その人がそう判断したわたしの情の深い行動も自分の利になるよう計算しつくした結果だし、打算は仕事の上では褒め言葉で、わたしが打算的に動かないのは、本当に好きな人のためにだけで、つまりそれ以外のすべての情ある行動は、本当はわたしの益になったり損を回避したり、もしくは何かに許してほしいが故の自分勝手な行動で、わたしはそれを、きちんと自覚し続けなければならない。


たぶんわたしはわたしが思うより、全然まったくいいひとだ。自分が特別に酷い存在だと勘違いすることは、とても傲慢なことだと思う。自分が特別に酷い存在に生まれついたと勘違いすることは、他者に対しての暴力でしかないし、 子供っぽくて滑稽だ。自分が善人だと信じてやまないひとも鬱陶しいけど、自分が特別の悪人だと誤認しているのも面倒で、わたしは良くも悪くもない、でも平凡なド真ん中ではなく、まったく特別でもないけれど標準でもない、だれもがそうであるように、正しい把握は難しい。




一人でパソコンに向かい合っているとすかさず猫がひざに乗ってくる。暑いのによくやるなと思うけど、自分を慕ってくれる生き物がいるのはすごくしあわせだ。
自分のものではない心臓の音を聞くと安心する。




かみさまになりたい人がいて、馬鹿じゃないのなれるわけないじゃないと思ったけれど、そこに到達するまでの階段を、一段一段組み立てられるから神様なのだと思った。到達したい地点と今を、むすびつけることはむずかしい。でもだれか一人の理想の世界が、他者にとっても理想かというとそうではない気もしてしまって、人間は勝手だな、と思う。
精神的肉体的に痛みを加えられず、安心して眠れてごはんが食べられる、それさえあれば幸せだと思うのに、誰かに管理された世界でのそれが無常の幸せだと思えないのはなぜだろう。じゃあ誰にも管理されない、人と人が自由のために殺しあう世界が正しいのかといわれたら黙るしかなくて、幸せになるための一番簡単で確かな方法は、視野を狭めてしまうことだなと思う。でもそれはイコール思考停止で、それは本当は間違っている気もするけれど、完璧な答えなんて本当はどこにもなくて、じゃあ自分で自分を納得させることだけが真実だとすると、どんどん世界が狭まって、そうするとだんだん眠たくなって、だからわたしは常に眠たい。

2013年6月13日木曜日

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 戦後間もなく廃止されたはずのO窪の赤線は裏に潜って現在まで健在だった、わたしはO窪に何年か住んでいたことさえあるのに裏町の気配を感じたことはなかった。摘発された女達は今時の化粧と髪型をしており、「裏町」や「赤線」から想起されるような典型的な昔の娼婦を思い浮かべていたわたしは驚くと同時に、ああ、これは今現在起こっている話なのだと少し背筋を寒くする。
 夕方のニュース番組、TV画面に大写しにされたわたしよりも数年遅く生まれたであろう女は根本が黒くなった茶髪を後ろで一つにまとめていた。両腕を捜査員に捕まれながらも振り返り娼館に一礼をした、おそらくすっぴんであそうその女の横顔と後れ毛が余りに美しく、わたしのチャンネルを変えようとしていた手が止まる。紺の豹柄の甚平に興醒めするが女にはどこにも爛れがなく、背筋を伸ばした青白い顔の女よりもむしろ捜査員の方が俗物に映った。

 女達が連行されたのは留置所でも取調室でもなくだだっ広いグランドのような場所だった。砂埃が今にも舞いそうな乾いた地面に、等間隔で紺の豹柄の女が並ぶ。わたしが先程見惚れた女は画面右下、そのほかに品の悪そうな女が三人、計四人の紺がグランドに正方形を形作った。一体何が起こるのだろうと画面を見つめていると、白い柔道着の、見るからに屈強な人間が八人現れ四人の紺色に暴行を加え始めた。頭を一発殴ると左に一人ずれ腹に一撃、左にずれて股裂きからの殴打、左にずれて顔面を殴打。四人の男が雪山で遭難し、ロッジの四隅をグルグル回るという怖い話、あれを思い出しながらわたしはテレビを見つめ続けた。
 そのうち不思議なことに気付いた。白い柔道着の人間達も暴行される側に回ることがあるのだ。わたしが(その体の大きさから)男だとばかり思っていた白い人間の柔道着がはだけ膨らんだ乳房が露わになり、わたしは白も紺も全員が女だと知る。女達は涙と血を流しながらも規則正しくローテーションを組み誰かを殴り、殴られる。拘束されているわけでもないのだから逃げればいいのにと思うがもしかするとカメラに映らぬ部分に恐ろしい見張りがいるのかもしれない、しかしそれを差し引いてもあれだけの暴行を加え加えられてまだなお一糸乱れぬ流れと動きで殴り殴られ抵抗さえしない。
 腫れ上がる頬やねじ曲がった指、流れる血からも女達が全力で暴行に取り組んでいることがわかるからわたしはますます混乱する。恐らく彼女らの誰かがそろそろ事切れる、それでも狂乱は終わるまい。私刑にしても残酷過ぎるこれは恐らく正当な法の下の所業でそれゆえTVで放映されている。悪趣味なわたしもそろそろ耐えきれない状態になった白と紺を纏った肉片は未だ規則正しくぐるぐる回り、なのにわたしは目を逸らせない。

2013年6月1日土曜日

じぶんメモ:5がつ本まとめ

なんか全然よめなかった。し、読んだのたくさんもれている。
わたし毎月「全然よめなかった」といっているな。
読み終わったらすぐ記録しないとすぐわすれるな。

2013年5月25日土曜日

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 気を逸らし続けるには24時間は長く、一人のひとを思い続けるにも24時間は長い。


 駅のホームに落ちていたロッカーの鍵を駅員さんに届ける時間もコーヒーを丁寧に炒れる時間も、(ときおりは)朝ごはんを食べる余裕すらないのに24時間は長すぎる。
 わたしの人生を平らにならせば時間の不公平が解消されるかなと今少し思い浮かべてみたけど灰色の退屈が24時間に隅々行き渡るだけの気もしてこれでいいのだと思い直した。

 満員電車の始発駅、前に並んだ女の人のセミロングの黒髪が雨でもないのに濡れていて、この人もきっと、不公平な24時間を過ごしている人だとこっそり思う。

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 真っ赤なコーヒーメーカー/天球儀/縦型の信号/知らない社名の入ったタオル/ちいさな公園の砂場と取り残された遊具/フライパンで料理を出してくれるスパゲッティ屋さん

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 文字にして伝えたらうそつき呼ばわりされるだろうな、というくらいの友達の不幸なはなしを聞いて、わたしにはその現実的な対処法を精一杯アドバイスするしかなくて、それは感謝はされたけどでももしかしたら多分その子がわたしに求めていたのはそんな現実的な解決法じゃなくて、事実を打ち明ける前にわたしが彼女のことを察して慮って「どうしたの?」って友人として声をかけることだったのだと思う。
 わたしにはそれができなかった、そうしてほしいのだろうなって、わかっていたけどできなかった。
 すぐにすり減る自分の、強度も容量も増やせないなら、制限をするしかないと思った。


 とりこんだ洗濯物を畳まずにおふとんの上に投げ出した。そのうえにゴロンと寝そべってみたら右頬にヒヤリと冷たい感触、洗われて干されずに投げ捨てられて乾いたものたちと混ざったピンクのTシャツの温度がわたしにうらめしそうに響いたから慌てて干した。今日朝起きた瞬間からものすごく元気だったから、調子に乗って半袖でいたらお部屋の中なのにひどくさむい。
 多分わたしは今この瞬間世界で一番幸せ、膝の上にねこがいたらもっと完璧に幸せだけど、でもそれも含めて、世界で一番幸せだ。遠足の前日がわたし一番好きだから、遠足の前日は眠れないだけじゃなく、このまま世界が滅びればいいのにな、と思う。そうしたら、楽しみな遠足が永遠に終わることなく、たのしみなままで世界が止まる気がするから。

2013年5月22日水曜日

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息ができない、息ができない。今わたしに必要なのは酸素じゃなくて本、本、本が読みたい。


自分の性格の悪さに10秒で文章を消した、伸ばした手が触れる範囲の物事全て慣れた手触りのものしか許さないのは横暴だ。ふわふわした綿菓子みたいな正体不明のものはなおざりに、身元がはっきりした敵から打ち倒すのは愚策と言えば愚策だけれど小心の露呈だと言えば少しは可愛く映るだろうか。完璧に一人で無音にならないと進まないわたしの諸々はだから最近沈みっぱなし、進めるための精神的自傷行為をする暇なんて経済活動をしていたらあるわけなくて、それはおそらくモラトリアムの特権、だから若いみなさん、どんどんどうぞ。



23歳の子が彼氏に振り回されており、「勿体ないよ~」と言ってはみたけど無駄なことたくさんしといたほうがいいのじゃないかなと今思った。


幽霊の正体見たりじゃあないけど可愛いあの子は現実世界でただの人間、可愛いあの子の愛しの彼氏も現実世界ではただの人間、もちろんわたしもそうだから、ここから出たいような、でもある方向には決して出たくないのだよ。



今日も一瞬冷やそうと冷凍庫に入れたコーヒーと水を忘れて家を出た。



ゲームや多忙や精神的余裕のなさ、で、本を読まなくなると酸欠になって死ぬ。死にたくないから無理やり本を開いてみるけど全然没頭できなくてあえぐ。月に読む冊数や速さは問題じゃあなくて、わたしにはわたしの適切な、摂取する本の量があって、それに足りないとつらいんだと思う。わたしは決してビブリオマニアじゃないし、読書の冊数も多くないし文学にも詳しくない、それでも本が読めなくなって読まなくなると、わたしがどんどんすり減って、息ができなくて苦しくて、しんでしまうような気持ちになる。

2013年5月6日月曜日

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 笑え、雑魚が。




 精神状態は体調に引き摺られ体調は気圧に引き摺られる、気圧は月まで関係するしつまり全ては宇宙のせいだ。
 吐いても今胃液しか出ないであろうことは自分がよく知っていて、胃液を吐くと食道が荒れる、せめて水分で緩和しようとミネラルウォーターを摂取する。スポーツドリンクを飲んでいた時期もあったのだけれどあの味は吐くときに強すぎていけない、それ以来わたしはもっぱら水だ。良いから笑え、笑えよ屑と、便器に向かって呟くも口角は一ミリも上がらない、これだから躾のなっていない愚者は困る。
 自分の肉体の隅々までコントロールせよなぞアスリートなことは要求していない、お前がすべきは笑うことだ、早く笑え、笑えよ雑魚が。





 タイミングこそ運命だと思う最近のわたしにとって「今!」という瞬間は多くない、多くはないしわたしの感じる「今!」を外しても世界は続く、わかっているけど外した瞬間確実に何かが死んでいる。手を離す瞬間の「ああ、所詮は他人」を味わいたくなくて目を瞑るけどそんなのが長続きするわけはなく、結果離別時の痛みが増すのみの、愚かな延命措置だということわかっているのに縋ってしまう。
 怒らない人がこの世で一番恐ろしいという仮定にわたしは完全同意でそういう人になりたかった。わたしの憧れのあの子はきっとそういう人で、わたしはつまり、そうなりたい。世界一やさしくて、世界一冷たいひと。



 久しぶりに名前を綴った。口に出さなかったのは、音にしたら零れてしまうから。
 わたしはもっと咀嚼して消化しないといけない、食事後すぐの吐瀉物は到底見られたものじゃない。
 世界は不幸に満ちていて、それと無関係に幸せは続く。
 どこかの誰かが四肢を飛ばされ泣きわめいていたとしても、
 わたしの口の中のチョコレートは甘くゆるやかにとろけるのをやめない。

2013年5月5日日曜日

20130505-ティアにっき

コミティア行ってきた。


わたしはものをつくる人間ではないので、コミティアへいくと、うまいへたとか、ジャンルとか、そういうのじゃなくて、ものをつくるのがすきなのだなって人がたくさんいて本当に素敵な空間だなと思う。
毎回素敵なものに出会えるのですけども今回もすげーよかったです
ロッキンオンみたいな感想がかけなくてすごくアレなのだけどすげーよかったよって伝えたいがためのつたない日記です
つたないつたない言って感想かかないままでもいつまでたっても書けないままなのでつたなくても囲うと思いました

以下買ったものたちすごくつたない感想


20130505-01

タイトルもないトラック13、AI噛ませてヘッドフォンで聞くと拙過ぎる打ち込みのインスト。
わたしがこのCDを手にしたことを作った人さえ知らなくて、後に喧嘩別れをし絶交した彼らの名前が&で繋がれ並んだプロパティ見ると非常に感慨深くなる。
SEで使用されていたそれはライブでは最後まで流れることはなく、その終わりをわたしは一人部屋で聞く。遠すぎる距離を思う、一言は、距離を、時間を、関係性を壊す。

もろいのだなあ、と、思う。


恒常的に37度を保つ生物になればわたしも何か変わるかもしれない、きっと動くに低すぎるのだ。

2013年5月4日土曜日

20130504-01

僕と君は両思いだけどもお互い片思いですらない、ある一点に於いては僕は確実に君に恋をしない、君も確実に僕に恋をしない。例えば「君の見た目が好きだ」と言われた女子がそれに絶望を覚えるような感覚が僕には酷く滑稽に思える、なぜなら見た目だって立派な彼女の一部だからだ。性格が好きなら嬉しいの、地位や名誉なら悲しいの、「好き」の対象を自らの構成要素のどこだと追及するからそんな愚かなことを考えるのだ。

だけどもしかし、自らの構成要素のあるひとつに「自分」が詰まっているかのような気持ちになるのはわかる、ほかならぬ僕だって、そうだ。でも僕が思う僕の構成要素は恋愛としての好意的感情には不必要むしろ排除すべき要素、だから恋人である彼女に僕のこれを好きになって愛して愛でてと要求するのはおかしいし要求すること自体が誤り、だけどもたまに考える、僕も君も、お互いの核たる構成要素はなかったものとして触れ合う、これが健全かというと健全も健全1000%健全、だけどもどこか若干の、虚しさみたいなものを覚えるのは、多分僕の、甘え。

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ねえわたしは死んじゃったものが好きだ、死んじゃったものが好きだよ。例えばビデオテープにあの瞬間を残しておけば今こんなに寂しくなかったのかな、やっぱり同じように寂しいのかな。わたしの好きなものは全部死んじゃったんだってこの間まで思っていたけどおそらくそれは誤りで、わたしは、好きなものが死んじゃわないとそれが好きだったって自覚できないのかもしれない。死んじゃったものを好きなのは憐憫に浸りたいわけでも対象に干渉したくないわけでもなく、死んじゃったものならば僕がそれに嫌われることがないからだ。

2013年5月3日金曜日

20130412-02

きみが気軽に呟く「うらやましい」には一体どんな感情が含まれてるのか裏の裏まで読めば納得、そう「できる」性質こそが羨望の対象なのかもしれないけどわたしはそれに脊髄反射してしまう。本人が認識していないとしてもあの子の日々の行動や積み重ね、方向定めての堅実な努力(最もそれを努力と本人は認識していないとしても)、何にも知らないくせに黙れ、と。辛いです苦しいです大変と、誰かが不幸アピールする横でニコニコ笑って前向きに対処、そういう人が「ずるい」という言葉の対象にされるのわたし本当に我慢がならない。もしかしたらわたしもそういうこと言ってしまっているかも知れないけどこの世の誰かがあの子に対して運がいいとかずるいとか投げかけるのが許せない。分不相応な嫉妬はわたしもかつて持っていて、だから偉そうなこといえないんだけど、すごく腹が立つしどうしようもない。


わたしがいまここにいるのもわたしが行動してきたせい、あの子がかわいい男の子と仲良くしてるのもあの子が毎日生きてる結果、あの子の漫画が泣くほど素晴らしいのもあの子の毎日の結果だしあの子がいまあそこに立っているのもあの子の毎日の結果だよ、人間だから理不尽に人を羨みたくなることはあるけどどうしてもかちんときてしまう、たぶんあの子なら「いいでしょうー」って、ヘラヘラ笑ってかわすのに。



「なんにも知らないくせに黙れ」は言ってはいけないブーメラン、そんなことわかってるけどどうしても。わたしだけがわかればいいとか本人がよければいいとかそういう問題じゃなく理性じゃない部分でその人の口にケーキでも突っ込んで黙らせたくなる、わたしはまだまだ色々だめだ。

2013年5月1日水曜日

じぶんメモ:4がつ本まとめ

マンガばかりであった。
立川まんがぱーくいったんですよ。おもしろかったです。また行きたい。

マンガばっかりだから冊数は多いけど、本自体は全然読めなかったかんじする。

2013年4月22日月曜日

20130422-01

気を使わせぬよう、バレないように影で尽力するやさしさのようなもの、死ぬまで気付かれなかったらふてくされるようなふるまい、みっともないからしてはいけない。

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温度や空間や肌触りまでがリアルな夢を見て起きた。起きてからしばらく夢だか現実だかわからなかったのだけどよく考えたらやっぱり夢だし、夢だとわかったらその内容が、あまりにもわたしに都合がいい出来事ばかりで恥ずかしくて死にたくなった。
夢占いもいらない程度のわたしのねがい、わたしの潜在意識。全然潜在できてない。

20130422-00


嫌いな人に嫌なことをされたときと、大好きな人に嫌なことをされたとき、後者の方がかなしいし、辛い。嫌いな人と大好きな人が等しく同じ嫌なことをわたしにしてきたとしても、後者の方が、つらい。
思いやりや優しさや、「だれかのため」の行動の基準は結局自分のものさしで、たとえその物差しが自分であろうと相手を想像し「そうしようとした」思いやりには感謝をしなければならないのかもしれないけれど、それがいい加減行きすぎた。わたしの名前を借りて自分の主張を叫ぶのは、思いやりでも優しさでもない。でもここまでこなければ、わたしモヤモヤはしていたけれど、怒ることができなかった。

例えばミスチルの桜井さんに(わたしはこういうとき、しばしばミスチルの桜井さんを例えに引っ張り出す、適切な気がするからだ)、「君のために曲を作ったよ」って言われたら嬉しいかもしれないけどクラスのダサいあの子にそんなことされたらさぶいぼ立つ。憧れのあのアイドルの私物のお洋服プレゼントは嬉しいけどクラスのダサいあの子のお古はお金もらったって受け取りたくない。すごく残酷だけどそういうことで、それは事実なのだからそう思ってしまったって何にも悪くないのに、「よかれと思って」を汲もうとすると自分に負担がものすごくかかる。どこからどこまでの善意は受けるべきで、どれ以上だったら「迷惑です」って言っていいのか。「迷惑です」ということにより相手を傷付けてしまうからって我慢をするとわたしがしんどいし、どこまで我慢して、どこから拒否してもいいのか。
やんわりの拒絶が伝わらない場合、どこまで強く言ってもいいのか。
最近このことをずっと考えている。すごく、むずかしい。


たとえば「あなたのことをダシにして自己満足に浸る人が許せない」と怒ってくれるのは嬉しいとしても、わたしの名前を使ってその人たちに「XXちゃんも嫌だと言っています」と表明されるようなこと、「めんどくさいな」や「巻きこまないでほしい」という感情よりも、ショックの方が大きかった。ダシにしたってなににしたってそんなもの、自分が他者にどのように消費されるかなんて口出せないのだから実害がなければ胸糞悪くても仕方ない、でもそこに一歩踏み込んで名前をかたるのは実害でしかなく、そんなことをやっている人が自覚もなく「わたしが、わたしだけが、あなたの一番の味方だよ」って言ってることに吐きそうになった。

例えば「好き」という気持ちを一つとっても、純粋な「好き」なんて誰も定義できない。
優しいから好き、おいしいから好き、一緒にいて特になるから好き、XXしてくれるから好き、その理由を突き詰めていけばひどく自己中心的な理由になる、それは「好き」って感情がエゴイスティックなものなのだから当然で、だから誰かの「好き」を、「そんな好きはまやかしだ、僕の気持ちこそが本当の好きだ」って言うのは、(わたしも時々思ってしまうことがあるけど)言えないものなのだと思う。


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生産性のない怒るという感情はひどく無駄、怒っても何にもならないし怒ったってすっきりすらしない、だからわたし怒りたくないなって思っていたけど多分あのとき、怒ったのだと思う。でもこれを、例えば相手に、「わたしはまだ、怒っています」と伝えても意味がないから、これはきっと、泥水が沈殿するのを待つみたいに、治まるまでじっと待つべきなのだと思う。




2013年4月15日月曜日

20130415-00

ここ二日間、すごくたくさん泣いた。
来なかった未来とか果たせなかった約束とか、失われた明日とか、
それでもわたしが哀れんだりしちゃいけないものたちのことを、たくさん考えて泣いた。


すごく当たり前のことなのに、言葉にしたら泣いてしまうことがあって、
それは言葉にして再認識することによって、いろんなことを自覚するからで、
あえて言葉にしなくても、ふんわりとわたしがそう思っていたり、それを自覚していることにはかわりがないのに、
きちんと言葉にしなければならない気がしたから、思ったことを思ったときに話した。
何を言っているかわからないだろうにちゃんと聞いてくれたひとにわたしは今すごく感謝をしているし、わたしはまたここで、あのときあそこで思ったことを、思い出して再認識して、また少し泣いている。


たのしいことをたくさんした
すきなひとと手をつないで街を歩いたり、
いろんなものを食べたり見たりして、
すごく幸せだなあと思ったけど、
彼らが果たせなかったことを、いまわたしは、すきなひととしていて、
これが生きているということか、と、思ったし、
わたしはすごくしあわせだな、と思うと同時に、
なんであの子たちには、こういう時間がもっと与えられなかったのかなって、
考えても仕方がないことを考えた。


駅前からバスにのって、窓の外をぼおっと眺めていたら、
あたりまえにこういう日々が続くと思ってた、と言った女の子のことを思い出して、
正解のない、正しいともいえない、でもどうしようもない気持ちや行動や、
もしかしたら誰かの優しい行動は、誰かにとっては酷く残酷かもしれないなということや、
どういう気持ちであのとき、あの子は声をかけたのかなとか、
どういう顔で、おうちにかえっていったのかなとか、
色々思ってしまうことはあったのだけど、そんないろいろよりも、
彼女が語った「あると思っていた日々」が、わたしにとってはとてもリアルで、
例えばわたしもきっと今、無意識にそういう未来を思い描いていて、
そういうものが、って考えて、
どうしようもなくて一人で泣いた。

しあわせであればあるほど泣けてくるし、
右手が温かくて泣けてくるし、
ベンチや道路や路地や公衆電話を見ても泣けてくるし、
わたしとてもひどい顔をしていたとおもう。



わたしがこうしてすきなひとと、誰かの果たせなかったデートをして、
誰かが過ごせなかったしあわせな日々を送り、
もちろんわたしだって明日、死んでしまうかもしれないけれど、
好きな人と手をつないで歩きながら、
ああ、わたしいま、あの子ができなかったことをしているんだ、と思って泣いて、
わたし、ばかみたいなことで泣いているな、と思った。

わたしはあの子たちがしたかったこと、
思い描いていた未来、
そういうものを手に入れるかもしれない
特別じゃなくてあたりまえのこと、ごはんをたべて、ねむるような生活とか
それに罪悪感を覚えることはないけども、
これがいきているということだし、
つまりはそういうことだ。




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去年東京にいたわたしを思って、
去年東京にいたわたしが今のわたしを見たら、びっくりするかななんていうかなって想像して、
しみじみ感慨深かった。

わたし感慨深いことがここ最近毎日ある、
でもすぐ泣くやつだと思われたくないから、あんまり人前で泣くのはもうやめよう。

2013年4月12日金曜日

20130412-01

それでもわたしはわたしの経験を/踏みにじってきた尊厳を/後にした九つの住処を/庇護された24時間を/無視することは出来なくて、だからつまり君のヘルシーさはとても眩しくて目がつぶれそう、でも今までみたいに目を瞑るどころか顔面背けてシャットアウトはわたし多分もうしないと思う。
わたしの哲学はあの四文字から変わることなく揺るがなくて、でももし例えばわたしが明日死んでしまったら、わたしの哲学ときみの哲学は矛盾することなく共存する。つまりはそういう可能性だって無きにしも非ず、きみはこれを聞いて呆れそうだけど、わたしにとっては偉大な一歩だ。


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打算と計算で生きているわたしにあの子はちょっと眩しすぎる。無垢な無邪気さに傷付くとき、一番ダメージ食らうのは「無垢さに傷付いている自分を認識すること」だ。傷付くわたしが悪くて汚い、でもこんなにしんどいならばいっそ離れたほうがいいのでは、そう思った次の瞬間に邪気ゼロの笑ってしまうようなメールが来たりして、ああ、と思う。
自分の汚さや計算や甘えや感傷や期待やそういうの、全部ぶっとばしたら多分わたし、普通に「ねえねえ」って話しかけてしまう、だから多分わたしはあの子と、間違いなく友達なのだと思う。
 

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わたしが表立ってできないものがあるとすればそれはわたしが「わたし」であることのマイナスが大きいと判断したからで、例えばきみとわたしが友達であるということを前面に押し出したらきみはわたしなんかと友達でいるような人間だと判断されてしまい非常にマイナス、これは自己卑下でもなんでもなく純粋にそう思うからわたしはいろいろ鑑みるけどなんだかかくしごとのようだなとも思う。だいすきなものはだいすきとわたしは比較的叫ぶほうだけどそれでも自粛することはあってそれは前述の理由の通りなのだけど、それはいくら考えても考え直しても揺るがないからもう絶対そうなんだけど、それでも、ううん、って思うことがある。人にはいろんなスタンスがあってそれぞれの環境や性格や諸々があるから正解なんてないけれど今わたしが思うわたしの正解はこれでありほかがうらやましくなったとしても詮無いことなのだけど、ああ、って思うことはある。
ほかの子みたいに全世界に向けてきみのこと、「大好きな誇れる存在です」とわたしいえないから、閉ざされた狭い空間で虚空に向かってそれを毎日叫んでる。本当は、って思うことあるけど、自分で出した結論だし、わたしはこれが一番賢いと思うからそうなのだ。
本当はこんなこというのだって、ルール違反で賢くない行動だ。
 
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考えたいことが山ほどあってでもそれには時間と空間と騒音の排除が必要で、だからわたしはまだ全然それに向き合えていない。平坦なわたし、平坦な感情、動かない指。胃液でもいいから何か吐きたいと思うけど何も出てこない、そんなのはきっと嘘だ。


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ここのところなにかを思い出して感慨深くなることが多々ある。それは後悔などでは決してなくて、例えば数年前、どこかですれ違ったかもしれない、顔も名前も知らなかったひとと今仲良くしていることや、あの時遠くから見ていた未来にわたしが登場することや、そういう類のこと。毎日明日死んでもいいかなあと思って生きていて、正確にはそれはすっごく困るからいやなんだけど、でもまあ明日死んだとしても結構色々伝えているからいいかなとは思ってる。




 ひどくねむたくてまとまらない。おやすみなさい。

2013年4月11日木曜日

20130411-01

大事にしたいたいせつなものを、嫉妬や虚栄で守れるわけがない。
空中に吐いた呪詛の言葉はいつか自分を蝕むし、口にするたび顔面が腐る。
これは比喩じゃなくて、ほんとうのおはなし。

腐臭と崩壊に気付いていないなら、今すぐ新しい鏡をどうぞ。

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悲しくなくても泣くことがあり、たとえばわたしは今年に入って何度も泣いているけれど、それは全て悲しいや痛いが原因じゃない。
今日も今日とて感極まって泣いた、どっちの方向に極まってるのかは不明だけれど、わたしの感情を極まらせるのはいつだってだいすきなひとたちだ。

事実の当然の帰結について/耐性と二度目の登壇について/平坦なわたしと動かないキーボードについて/全ての唾棄すべき賞賛と吐いた二酸化炭素の再吸収について/白色ワセリンでぼかされた不可侵の領域について/共有、もしくは共作した世界の閉ざされた扉と比例する閉鎖性について/物理的隔たりと精神的それの相関について/それらに巡る無意味な思索について。


説諭はそのままブーメラン、切れ味の鋭さにおののいている。


ここまで読んでくれたあなたへ。
「感極まる」をグーグルで検索すると、「感極まるダスティ・ホフマンさん」という記事が出てきて、
すこしほっこりします。おためしあれ(2013/4/11 15:47現在)。


20130411-00

わたし以外の他者と関わらざるを得ないという事実は彼女が生まれた瞬間に決定、それを避けたいならわたしはあの子を生まれた瞬間に監禁・秘匿しなければならなかったしもう少し正確に言うとあの子を身籠ったという事実すら露呈してはいけなかった。あの子がこの世に産み落とされる予定だということが他人に知れた時点であの子がわたし以外の他者に傷付けられる運命は決定した。『晒せば皮膚は硬くなり精神は強固に』なぞ結果論にしか過ぎなくてあの子が1gの重量にすら耐えられないこの世で最弱の生物になったとしてもわたしあの子に傷一つつけたくなかった。わたしがあの子を孕んだことがわたしの母に知られたあの時こうなることは決定していてだからわたしの後悔も全ては詮無いことなのだけれど後悔せずにはいられない、たとえそれがあなたの不幸でもわたしはあなたのこと、死ぬまで真綿で包んでいたかった。

2013年4月9日火曜日

20130404-02

季節を意識したことわたしここ数年なかったように思う、いまいち自信がないのはここ数年の記憶がスポンとないせいで、そう告げると「いいんじゃない?」と彼女は薄く笑う。彼女には(もしかすると、大部分の人がそうかもしれないのだけど)今までの記憶がそこそこあり、そこそこというのは当然人として忘却する程度のもの(中三の時の体育教師の名前とか、昔の職場の先輩の顔とか)は忘却していて印象深いものは覚えている(高一の時の親友の名前や、前の職場の仲の良かった後輩の顔)という程度のものだけど、わたしはそれがひどく羨ましい。わたしにも28年くらいの歴史があって、そこそこ楽しくやってきたつもりなのに学校に通った記憶も友人と遊んだ記憶もなくて、それはわたしが学校に通っていなかったり友人と遊んでいなかったわけではなくただ忘れているだけで、その証拠に昔の同級生と偶然どこかで会えば声をかけられ実家には卒業アルバムもある、親しげに声をかけ思いで話をしようとする元親友の話が全くピンと来ず曖昧に笑うのも、卒業アルバムの中で知らない人たちに囲まれ楽しそうに笑う自分の写真と向き合うのにも疲れてわたしは彼女の部屋に転がり込んだ。3ヶ月前に知り合った彼女はわたしに思い出話をたくさん聞かせてくれる、同年代という彼女の話す「当時の流行」にわたしは全く共感を覚えず、例えばみんな聴いていた曲や見ていたTV、読んでいた漫画がわたしの記憶には全くなくて、それは過ごした環境の違いと言うより純粋にわたしの忘却のためで、だから彼女の思い出話はわたしにとってまるで異国のお伽噺のようだったし、彼女もそれを承知していたのでわたしと思い出を共有できなくてもただただ笑ってくれたから、わたしは時々相槌の代わりに「いいな、XXは」って呟いてしまう。「なにが?」とその都度聞かれるのでわたしも律儀にその都度「楽しそうな思い出がたくさんあって」って答えるけれど彼女は決まって薄く笑って「どっちがいいかはわからないな」って答える。彼女の言う「どっち」とは過去の記憶があるかないかでつまりはわたしと彼女のことで、彼女は自分のことを不幸だとは決して思っていなかったけれどわたしのことはわたしのことでそれもありかなって思っている部分があるみたいで、わたしは変なの、とこっそり思った。

物事は、終わってしまうと小さな箱にしまわれる。空気を抜かれ圧縮されたそれは圧縮時に細かい部分がポロポロ削れ荒くなり、おまけにその箱は一方通行、わたしは箱の鍵を持っていないからしまうと二度と取り出せなくて、かと言って圧縮→収納の流れは決定事項で手を出せないから物事が完結するたびわたしは端からそれが圧縮され閉じ込められるのを見ていることしかできなくて、多分その箱の中にはキラキラした大切なもの、友達や恋人や兄弟や両親、そういうものとの思い出もつまっているはずだけど触れられないからわたしはそれを思い出せない。箱は質量を持たなくて、せめて重さがあれば触れられなくてもその大切さを感じることが出来たのになと少し残念に思うけど、わたしはこの仕組みをどうこうすることなどはじめから出来ないので、残念に思っても仕方がない。ただ「忘れた」と思えるのはきっと救いで、「なかった」よりも桁違いに幸せなことで、そうは思うけどこれに関してわたしは「どっちがいいかな」と思う。

彼女の言う「どっちがいいかな」にわたしは「きみの方がいい」って即答するようにわたしの思う「どっちがいいかな」に多分彼女は「あなたのほうがいい」って言うと思う、だけどわたしはううん、と思う、多分これはないものねだりだ。

20130407-01

たんぽぽの花に巣を張る蜘蛛の糸は特別、ただそれだけが赤い糸を編むことができる。蜘蛛は任意の場所に巣を張るので偶然たんぽぽの花にたどり着く可能性は 低く、ましてや蜘蛛は早朝にしか巣を張らないし蜘蛛の糸を回収するのは朝露が滴る張られたばかりのそれでなければならないのでわたしたちの捜索は困難を極めた。

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わたしはひどく「正しさ」に捉えられているのだなとふと気付く。正しく・正確に・偏りなく・俯瞰で、立ち位置や重さや密度を測る。それはただひたすらに現状把握という名のいじましい行動でそんなに足を踏ん張って何に耐えてるの、と思うけど、確かに日々は激震激動両足の裏に力を入れて上下左右全てからの衝撃に耐えねばならぬから無理もない。

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無意識の刃ほど恐ろしいものはないなと思う一番の理由はその無垢さではなく傷付けられる自分自身に原因があると思ってしまうところだ。聖水に火傷を負う悪魔みたいにそれが痛いのは自分が汚いせいであるからあの子は微塵も悪くない、そう思わされるのは、酷く、つらい。




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冷静に考えて、わたしと知り合いであること/友達であること/何らかの関係性があること、が、マイナスにしかならないなと思うことがあり、それは決して卑下でも被害妄想でもなくて本当に冷静にそう判断して、つまりその場合わたしは「黙る」という選択肢を選ぶのが一番正しいのにそれでもなにかをしたくなるときがあって、それが今。

20130331-01

好きな人がいるからほかにはなんにもいらないわと思えない程度には強欲で、だからわたしはコンビニの新作プリンに手を伸ばす。肩につく程度に伸びてきた髪の毛を切るか伸ばすか二択の悩みはこの世でわたし以外にはどうでもいい性質のもの、わたしだけの切実な問題。必要条件であり十分ではないものたちを必死でかき集めて防御するけど所詮ハリボテの悲しさで君の体重10g、預けられたら倒れてしまう。



Y太先生の九想図見てきた。


何かの境目について考えるといつでも頭が混乱する。境目というのは物理的・概念的なもの両方。概念的な境目がグレーではっきり出来ないのはわかるけど物理的なそれも絶対はっきりさせられないのだと思う、例えばわたしの肉体の一番外側は皮膚だけど、毛穴から出てる汗や顔につけた化粧水や一番外側の剥がれかけた皮膚やどこまでがわたし?って考えたら物理的な境目もわからなくなる。産毛はわたしの肉体に含まれる、産毛の間に含まれた空気はわたしじゃない、産毛の間に含まれた水分はわたしじゃないけどそれが吸収されたらわたしになるの、ほら物理的なものですらこんなにもあいまいだからやっぱり頭が混乱する。
「あの子が好き」のあの子の、方言が抜けたら/趣味が変わったら/性格が変わったら/髪型が変わったら/太ったら/片腕が無くなったら/四肢がなくなったら、それでも好き?って考えて、この疑問自体が前提から間違っていることは百も承知だけどそういうことをわたしは時々考える、 九想図見てそれをぼおっと考えていた。好きな人を取り込みたいのは愛なのか、そこには相手の意思はなくてもいいのか、自己中心的過ぎる一方的な愛情は愛と呼ぶのかそれは果たして本当に相手のことを「愛している」と言えるのか、でもあんなにグチャグチャになった屍体をあんなに愛おしそうに含めるなんて愛があればこそではないのか、彼女は彼女の肉体を愛していて物理的に取り込みたかったのか、でももしそうだとすれば投げ出された四肢をバックに頭蓋を抱いていたのはなぜか、人間の象徴が頭蓋なのはどうしてだろうおそらくそこが一番表情豊かで言葉を発しものを見聞きする部分だからだと思う、でも彼女は彼女の意思を無視して彼女を殺し食んだ、つまり彼女の意思より肉体を取ったのでは。黒か白かにできない話題に白黒つけようとすること自体が誤り、全て根底から問題提起の時点で誤り、なのはわかっているけど、考える。

2013年4月4日木曜日

20130404-01

I・M・D.
(いいから・みんな・だまれ)


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わたしにはわたしだけの呪われたフレーズがある。「わたしだけの」とは「わたしだけの特別なフレーズ」という意味ではなく「わたしだけがそれをわたしに使用することを適切だと支持するようなわたしだけのフレーズ」という意味で、つまりその意味でわたしはわたしのことを、特別いいともわるいとも思っていない、客観的にどのように見られているかなぞは分からないけれど人間のクズでもなければ聖人でもない十二分にありふれた人間だということは自覚していて、でもそういうものとは全く別の次元でわたしにはわたしだけの呪われたフレーズがある。それはポップかつキャッチーな響き、でもあまりにも端的にわたし自身をあらわしているから例えばわたしがなにか分不相応な望みを抱きそうになったとき・わたし以外の世の中に絶望しそうになったとき・報われない気持ちになったとき・人をうらやみそうになったとき、に、わたしはそれを唱えて自戒する。そのポップかつキャッチーなフレーズにわたしが芯まで捕らえられていることは自明すぎて逆に埋没、だからわたしはまさか、こんな真正面度直球から、ストレートで吹っ飛ばされると思っていなかった。

拳は予想外の方向から飛んできて、でも確実にまっすぐにわたしの心中抉っていった。背後からどころか頭上から突然「ねえ」と呼びかけられて何もないはずの空を仰ぎ見た瞬間わたしの脳天どかんと直撃、涙が出ないタイプの泣き方、鼻と喉の奥がグッと詰まって苦しくて息ができなくなるような泣き方、涙をこぼしたいのにこぼしてしまえば楽になれるのに涙腺に誰かがやわらかい栓をしてしまってどうしてもそれがこぼれださない泣き方、そういう泣き方をしてわたしは、体育座りで声にならない嗚咽をあげた。

「救い」は、自分自身によってしかもたらされない。 それは多分事実で、だからわたしの問題を解決できるのはわたしだけで、絶対そうだしそうだったはずなのに突然叩きつけられた救いにわたし頭がくらくらしたし、今でも、くらくらしている。


わたしの文章は何を書いているか自分でも分からないくらい支離滅裂で、多分今日はそれがいっそうだと思うのだけど、だから誰にも伝わってほしくないし分かってほしくないしありていに言えば「ばれたくない」のだけど、でも多分わたしのよくわからない文章やいろいろ全部、多分伝わるのだろうなともなんとなく思う。だいすき、ありがとう、すごく感謝をしている。感謝すべきところではないかもしれないけど、すごく。

じぶんメモ:3がつ本まとめ

花粉症で本読めなかった。
びっくりするくらい何にも読んでいない。
そうしたらいろいろと絶不調だった、本を読まないと、人生に詰まる。


2013年3月23日土曜日

20130323-01

ELIちゃんの展示を見に行った。


わたしの携帯はT003ピンク、二つ折りのガラパゴス携帯略してガラケーだ。スマートフォンと比べて遙かに小さいわたしの携帯待ち受けはELIちゃんの絵で、わたしは心細くなったとき、この携帯をぱかっと開く。ELIちゃんの描く絵や漫画を見ていると、心がぎゅっとしてくるしくなったり、うれしい気持ちになったり、一人じゃない感じがしてほっとしたりする、そういうときのきもちをわたしはうまく言葉にすることができなくて歯がゆいのだけど、とにかくわたしはELIちゃんのつくる世界が大好きである。


3月4月はわたしの鬼門で毎日瀕死、杉や檜や桜の花が肉体的精神的に襲いかかってくるから腰を落として姿勢を低くしなるべく声を出さぬよう、頭を抱えて季節が過ぎるのを待っているのだけどELIちゃんのおふとんシェルターにくるまったらきっといろんなことが大丈夫になるだろうなって思ったし、ELIちゃんのまねしておふとんシェルターをわたし心の中に1人と1匹用のものつくったから、この春はそれでやり過ごそうと思う。


これは前にも書いた気がするのだけど、人にはきっと例えば実の両親や粘膜で交わった恋人ですら入り込めない場所があって、知らない誰かの作ったものが砂漠に水がしみこむようにそこにすうっと入っていってなにかでいっぱいにすることがあり、つまらないわたしのたくさんの穴ぼこにはそういうものがたくさんつまっていて、だからきっと今立っていられるのだろうと思う。完璧じゃないわたしからは毎日何かがぼろぼろ剥離、村上春樹風に言うとわたしは毎日損なわれていてそして多分きっとこれはわたしだけじゃなく、そういうときの心の支えは人によって様々だけれどわたしにとってはだれかの作った歌だったりお話だったり絵だったりして、その一つであるELIちゃんの作ったものをモニタ越しじゃなく見られたことは、多分とても奇跡のようなことだと思う。


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わたしのなかの、乏しい死の記憶が、時空を歪めてまで春に収束する。正しい命日を確認することは簡単で、数年前の手帳を手繰ればすぐなのだけど色んなものの死に具体的な数字を結びつけるのが怖いから、あの子の命日は桜の季節ということにする。桜の下には死体が埋まっていて、でもわたしたちがあの子を埋葬したささやかな庭には桜の木は無く、だから東京の桜は白い。


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あらゆるものに苛立つときはきっと自分自身にいらだっているせいで、だからわたしは最近何も考えまいと努めている。カラーコード、6桁で表されるそれのきれいな組み合わせを考えたり、画像で作るより美しく軽いメニューボタンなんかについて考える。プライベートのメールボックスも最近仕事のメールで埋もれてきたからちゃんとフォルダを作って適切に仕訳、そういうことを熱心にしている。花粉症のせいで本が全く読めなくなって文章も書けないし音楽も聴けない、だからわたし今死んだも同然でだけど経済活動だけはできるから、仕事のことだけ考える。仕事があってよかったなと思う、わたし忙殺されないと、春はとくに、いけない。


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「文章が打ちにくいからスマートフォンにしたくない」と言うと「そんなにメールを打つのだね」と言われたけどわたしが打つのはこういう駄文で、それが恥ずかしかったから何もいえなかった。吐きそうになるほど甘いコーヒーが飲みたいのに目の前にあるのは適度な甘みのキャラメルラテで、ガムシロップを100個くらい足してやろうかと思ったけれどグラスから溢れてしまいそうなのでやめておく。


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昨日髪の毛黒くして、爪をピンクと灰色に塗った。何をしたって醜さが軽減しなくてげんなりする、これはわたし自身の問題だ。

2013年3月22日金曜日

20130322-01


「言っちゃいけないこと」が山ほどあって、つまりぼくらは毎日地雷原を歩いているようなものだ。

 

自意識過剰なわけでも他人のせいでもなく自分で自分が醜いから外に出たくない。化粧はおろかマスクとメガネを装着しても隠せない醜さでデロデロに溶けて死にそうになるのに実際は溶けないし死ねないし救われない。


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知らない誰かの顔を潰さぬようわたしはそっと手を伸ばす。 考えても詮無いことばかり考える。わたしのすきなひとは、インターネット/モニター/美化された過去の中にしかいなくて、つまりわたしとわたしのすきなひとは、同じ世界には存在しない。



インターネットの女の子、インターネットの女の子。
インターネットの女の子が一番可愛いのはモニターの中で、それが現実世界に出てくるのは、テレビから悪霊がズルズル這い出るのとほぼ同義だけれど、モニターの向こうにはインターネットの女の子がわたしと地続きの世界でご飯を食べ眠り性交して呼吸をし生きていたりする、それはとても、奇跡のようなものだとおもう。


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もし通り魔に刺されても被害が最小限で済むよう小銭だけをポッケに突っ込み家を出た、「被害が最小限てなんだよ、命が一番だろ」と頭の中で呟いてみたけど それでもやっぱり強盗にカードや万札奪われるのは悔しいのでやっぱりそのまま家を出た。ポッケに入れた小銭はほおっておくとかちゃかちゃ鳴るからポッケに手を突っ込み小銭を抑えてするする歩く、耳に捻じ込んだイヤホンからは音楽は流れない。


2013年3月20日水曜日

20130320-05

わたしが黒いタイツ、もしくは色の濃いそれしかはけないのは自業自得で、そのことについて考えると六本木の植え込みに頭から突っ込んだことを思い出す。「本当は誰にやられたの、警察に言わないから先生に教えて」と、付添い人を廊下に出して真剣な顔でわたしに問いかけた医者の顔はもう忘れてしまったけれど、とんちんかんな質問に笑いそうになったのは覚えている。



ものごとを検討するとき、もしくは検討してもらうときは、そのメリットデメリットを箇条書きにしてどっちが大きいかを考えなさいと指導するし、わたし自身もそうしている。そうしたときに浮かび上がるさまざまな事象はわたしの優位を明確にする。100%の人には当てはまらない、でもおそらく20%の人には当てはまる程度のわたしの優位。わたしのアドバンテージ。 



本当に体が泥のように重くて、これをわたしはなにかのせいにしたい。
飲んだ薬や月の満ち欠け、そういったもののせいに。

20130320-04

わたしはたとえば君が、蛋白質と水分の塊で、 腐臭を撒き散らして崩れる存在だとしても、きっと変わらずすきだと思う。

20130320-03

「わたしはもう、だめかもしれない」と丁寧に発音する。「わたしは」の「わ」、「もう」の「も」、ダブリューとエムの発音。

どうして嘘の約束しかできないのだろう、と思う。もうわたしおとななのに、こんなのいやだなと相談をする。褒め言葉が、本当に皮肉にしか聞こえないことがあって、悲しいことにそれは多分事実で、頭の中でソロバンはじいてわたしは耐える。どうでもいいひとに陰口を言われることにすっかり慣れて、たとえば直接的に暴力を振るわれたり嫌がらせをされる、そういうことがなければ別にもういいかなって思ったりもするけどボディーブローのようにきくそれの、威力にわたし気付いてなかった。

やりたいことがあって、自分できめたやらなきゃいけないことがあって、でもそれは明日とか生きるとかそういうものに直結してしまうもので、だからわたしは動けない。生産的な行動、生産的行動を効率的に行うための精神状態に自分を持っていくのは簡単で、でもわたしそれはお給金の発生する仕事に対してじゃないとしたくない。きみのつくったものがとてもすきだよ、と、言い続けるのは酷なのかもしれないとふと思う。きみのつくったものがとてもすきだよ、と、今になって呪詛のように言い続けてみたってじゃあきみが生きている間、わたしはそれをきちんと伝え好きなりの行動をしたかと問われれば否で、じゃあわたしはきみのつくったものがとてもすきだよと、今言い続ける権利があるかとすると多分否、それになによりきみのつくったものは多分きみの過去でもあって、きみが望む望まないに関わらずきみはもうそれを作れないし作らないし、なぞりもしない。だからわたしは口に出さない、だからわたしは自室で一人、きみのつくったものをなぞって泣く。


わたしがいま好きだと伝えるべきものや人は多分目の前にあって、それらは生きていて、だから生きているうちにわたしははやくそれを好きだと伝えたり、好きなりの行動をしなければならないのにどうしてもだめで、そうするときっと、こないだした(そして一生引きずるであろう)後悔みたいなものが、どんどん増えて積もるのだとおもう。それを知っているのにわたしはどうしても行動できないから、ほんとうにほんとうの、ばかなのだ。




20130320-02

死んでしまった人間が、唐突にグロテスクに映る。なんとなく髪の毛を切りたくなって、じゃあこの子の髪型にしたいなって思って、それからこの子がすでに死んでしまっていることに気付いて、酷く醜いことをしている気持ちになる。ビデオの中のあの子は顎を上げてこちらを無表情に見つめる、わずかに震える髪先だけがリズムを刻んでいてどんなに声を張り上げてもギターをかき鳴らしてもあの子の表情は変わらない。グロテスクな想像ばかりする、あの子の死因は「アレ」で片付けられた、それは「アレ」で共有できるものであったし、「アレ」以外の具体的な言葉で表すと何かとてつもない不幸が世界に降り注ぐ気がしたからだ。わたしの四肢は相変わらず重い、あの子の真似をして顎を上げると少しだけ呼吸が楽になる。ねえなんで、なんでだろうねって思うけど、世界中の人に愛されて必要とされてもたった一人に拒絶されただけで人は死ぬ、例外は多分、ない。

わたしたちは等しく取替えのきく人材で、等しくなにものにも変え難い。

20130320-01

蛋白質水炭素錫、錫。


朝起きて寝ぼけ眼で覗き込んだ鏡に映った醜い姿に驚嘆/発狂/ショック死した。嘘、わたしはまだ死んでいないしいい加減いろんなものに慣れている。剥離した皮/血清/頭髪が散乱して足の踏み場もないからわたしは宙に浮く。朝起きたら重力が100倍になったのかと思った、そんなわけはないからつまりはわたしが昨日(正確に言えば、眠る前)と比べて100倍の重さになったのだろう。少しでも軽く動けるように剥離、剥離、剥離しても全然変わらないし重いままで腕を水平に上げるのさえも億劫だ。わたしどうなってしまうのだろう、このまま沈んでしまうのかな、ゼリー状の液体の中をズルズル動くような不自由さで呼吸する、重たい、重たいな。

2013年3月9日土曜日

20130309-02

世界で一番可愛くていとおしくてすばらしいと思っているものについて考える。この世にあんなに可愛くいとおしくすばらしい生き物が存在しているということの、奇跡について考える。


ものごとに永遠はなくて、だからたとえばこのわたしの「世界一可愛くていとおしくてすばらしい」という感情だっていつかは変質して消滅、それが明後日か三年後かわたしが死ぬときかはわからないけれど確実にいつかなくなるし、でもそういうめんどうくさいことじゃなくて大事なのは、いまわたしがそれを奇跡のようにすばらしいと思っていることと、一緒にお花見がしたいなって思っているということ。

20130309-01

自分の極端さにいい加減慣れてきて、だからこの感情が瞬間的なものなのかそれとも今後とも持続されるようなものなのかはそれとなく肌でわかっていて、でもたとえそれが瞬間的なものであるとしてもプラスの感情ならば積極的に表に出すべきで、その波が引き好意が無関心に変わったとしてもそれはわたしの心の中に秘めるべき、つまりわたしには表面上、すきな人しか、いない。



「覚悟」について考える。全否定したそれ、それの本当の意図と意味と、わたしの「覚悟」について。


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調子が悪いのを客観的に分析するとつまりそれは春のせい、温い空気は精神を蝕み肉体を滅ぼす、ただでさえそうなのに花粉がプラスされてわたしの白目が赤く爛れる。世界平和を願った10秒後にみんな死んじゃえばいいと思うときがあり、でも多分その感情はわたしの本当の気持ちではなくて多分春の凶暴性のせい。くしゃみと寒気と微熱を覚えて条件反射的に暖を取り果物を食べる、熱を測るも35.6度、多分そのうちわたしの体温に気温が易々到達する。

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「頑張って」や「死ね」よりも、「笑って」が一番刺さるときがあって、それが今。

  
生みの母や血を分けた家族、粘膜でまぐわった恋人や心中吐露しあった大親友、そういうものでさえ届かない心の奥について考える。「どれだけの時間と精神をつぎ込んでそれを作った」かはすでに問題じゃなくて、でも確実に芯を捕らえるそれ、人間じゃ到達できないそれ。あの子のそこにわたしが届かないのがどうしようもなく切ないけれどわたしにだってその領域はあって、不可侵のそれ、だれにも不可侵のそこ。きみのギターロック、あのこの描いたマンガ、彼が放ったひとこと、そういうもので死にそうにもなるし、泣くときもあるし、どうしたって生きていけるきもちになることもあって、うん、って思う。スマイルをロストしましたが枕元ですぐに発見、そうしてわたしは3月をすごす。


2013年3月4日月曜日

20130304-01

3月は鬼門、4月は地獄。



春のこと考えると死にたくなる、上履きで踏みしめた公園の土や、まっくろに見えるアスファルトの荒い道肌、そういうものが呪いのように染み着いて離れない。上着を羽織っても肌寒い大通り、昼間はあんなに色付き綺麗だった桜は死人のように真っ白だ。無惨に砕けて道路に散った死んだ貝殻や頭蓋をわざと踏みしめて歩く、ジャリっとこもった音がする。にぎやかなバス通りを覆う桜のアーチは夜になると地獄へ続くトンネルのようで、どこまで行っても閉塞感。

どの男の子の思い出も、どの恋愛も付随しないのに切なくなる曲があって、その切なさはかなわない恋をしているときのそれととてもよく似ていて、だけど確かにその曲はわたしひとりのものでしかなくて、だからこの悲しさとか切なさはわたし自身に対してのもので、なにかを悼んでいるのだとすればそれは死んでしまったわたし自身だ。

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カウントダウンが始まって、桜の蕾が膨らんで気温がだんだんぬるくなり、わたしの寿命が一つ縮まる。生きながらにして死ぬのは酷く辛くて、どうせならいっそどうにかしてくれたらいいのにと思う。


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わたしもう何年もメールアドレスも電話番号も変えていないのだけど、何度もトイレに流したり落としたりしたから、アドレス帳は何度もまっさらになっていて、つまり今わたしの携帯電話には、頻繁に連絡を取る人の連絡先しか入っていないのだけど、たまに、アドレス帳に登録されていない人から、連絡先変更メールが来る。
ああこの子はバイト先で数ヶ月一緒になったPAの子、この子は昔のアパートのおとなりさん、この子は大学の同級生。「ケータイ変えました、登録変更お願いします♪」の文面を無視してメールを放置、そのたびに複雑な気持ちになる。


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ヒョウ柄のリュック、真っ白な上履き、真っ白なカーディガン、温泉の名前の入ったタオル、小さな公園、誰にも乗られることのない遊具、桜の花びら、桜の花びら、桜の花びら、桜の花びら、玉川上水、桜の花びら、桜の花びら、桜の花びら、桜の花びら、

2013年3月2日土曜日

じぶんメモ:2がつ本まとめ

漫画おおかったな。
メフィストと幽、意図せず読んでいること多い気がする。
読書メーターの献本はまだよめてません。


2013年2月26日火曜日

20130226-02


わたしたちの机はもう端の方にまとめて積み上げられておりがらんとした教室は冷ややかで、昨日までここで授業を受けていたはずのわたしたちにとってここはもう無関係な場所で、卒業式という数時間の儀式を経ただけで今まで親しく接していた場所やものがこんなに冷ややかになるのかと、わたしは無性に怖くなる。
机の山に近づくとわたしたち5人のそれだけが積まれず並んで置かれているのがわかる。5つの机の天板にそれぞれ鉛筆で書かれた文字、それは明らかに一人の教師の筆跡だけれどこのいたずら書きはわたしたち5人のせいにされた。大きな扉が閉じられ話し声くらいなら漏れ聞こえないはずの体育館から5人の教師の争うような声が聞こえてわたしたちはそっと様子を窺う。
5人の教師は全員男で美術と音楽と数学とあと二人は見覚えはあるけど不明(多分物理と3年の数学)。一番派手に暴力を振るっているのは美術、振るわれているのが音楽。両手で頭を抱えて丸まり同僚にボコボコにされている大人の男性を見るのは愉快なものでは決してないし、ここに明日丸まるのは他ならぬわたしたちのはずで、いやいや「明日暴力をふるいますふるっちゃいます君らをボコボコにしちゃいます」と美術から宣言されたのであればもう今日でわたしたち卒業しちゃったのだし呼び出しに応じる必要なんて皆無なのにこの子等はまるでそれが絶対の命令であるかのように大人しく明日ここへくるつもりで、いくらわたしがその異常性や理不尽さを説いても「だって、ねぇ?」「あぁ~イヤだなあ」とかなんとか言いつつ「教師の命令に背く」ことはハナから考えにないらしく、わたしはひどくヤキモキする。
「教師の命令に背く」ようなことを考えてしまうのは正しい生徒の思考回路じゃないとしてもわたしはどうしても我慢できない、教師によって書かれた机の落書きはわたしたちの手によるものにされておりそのためわたしたちは明日暴力を受けねばならず、いや何度考えたってさっぱり意味が分からない、そもそも机に鉛筆で(カッターナイフや彫刻刀じゃなく消しゴムで消せる鉛筆だ)文章を(罵倒や卑猥な言葉ではなく国語の教科書に載っていた昔の詩人の詩だ)書いたくらいでなぜ5人の成人男性に暴力をふるわれボコボコにされなければならないのか。ましてや今日は卒業式で明日から学校は春休み、大声出しても恐らく誰も助けてくれない。
わたしだけ明日ここにこないのは簡単だ、だけどわたし以外の子はきっと明日律儀にここに来て暴力をふるわれもしかしたら死ぬ、わたしはそれが理不尽で、納得できないしなんとかしたい。
ぐるぐる考えていると美術と目があった。男のくせに陶器のように色白な美術の頬はいつだってほんのりリンゴ色、銀縁の丸眼鏡と白のセーターとグレイのチェックのスラックスはいつもと変わらないけどよく見ると頬がいつもよりも赤いし髪の毛も乱れ、白いセーターには音楽のものであろう血痕が飛び散っていて気持ちが悪い。美術の目は爬虫類のようでああまさにわたしたち蛇に睨まれた蛙みたいだ、と思う。君たちは明日なのだから今日は大人しく帰りなさい、そう言われわたしたちは校門に向かう。ねぇおかしいでしょう警察に通報しようよ今のこと、それに明日も行く必要ないよと必死で訴えるけどみんな聞いてくれなくて、神様どうか、明日この子たちが納得して学校に行かないような出来事が起こりますように、と祈る。


学校は急な坂の下にあり、それがどれだけ急かというと住宅街から学校に降りる階段が途中でぷっつり切れていて手すりとなるロープが垂らしてあるただの急勾配の坂になり、それを手繰って上り下りしなければならない程度で、つまり段を付けられない程度の急勾配具合、だから雨が降るととてもじゃないがその坂を上ることが出来ないためしばしば学校は休校になり、あっそうか豪雨、豪雨になれば明日の学校行きをみんな諦めてくれるかなと思ったらまさにぽつりと雨が、僕らが坂を上りきる頃には既に学校は冠水、これじゃあ無理だなと明日の学校行きをみんなが諦めてくれたようでわたしは心底ほっとする。何気なく「わたしたち」の数を数えてみると3人、つまりは2人足りなくて、それは山岸君と美咲で、慌てて2人に電話をしたら山岸君は今山形にいるという。なんでそんなところにと問い詰めたら山形は美術の出身地、あいつの秘密を暴いてやるんだと鼻息荒くてわたしの「いいから今すぐ帰ってきて」も彼には全く届かない。美咲はというと何ともう家に帰り着き自室で寝ていたということで、みんなはその答えに安心し美咲らしいと笑うけどわたしはなんだかそれが嘘のような気がして、いいから今すぐこっちで合流しようと提案するも彼女はふにゃふにゃ笑うばかりで全く取り合ってくれなくて、暴力に怯えているのも助かりたいのも疑うのも全部わたし一人ですごくばからしい気持ちになるのだけれど、多分この「すごくばからしくなって思考を停止し先生方の言うとおりにする」が美術の狙いのような気がするから馬鹿らしくてもわたしは一人で奔走することに決める。

20130226-01

ひみつの組織の襲来でわたしはプールにまっさかさまで、カナヅチじゃないからいいでしょうというあの子のセリフにいやいやそう言う問題じゃなくわたし制服だし胸ポケットには携帯がなんて突っ込むまもなくプールにドボン、携帯電話は一月前にトイレに流してしまって買い換えたばかりの新品で制服だって新調したて、いくらひみつの組織でも時と場合を選んで欲しい。

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すごくねむたい。
びっくりするほどおうちにかえりたくなってしまって、だけど帰れないから板チョコバリバリかじって食べた。チョコレートのお菓子、例えばチョコパイとか抹茶味のチョコとかドライフルーツが入っていたり、そういうのであれば「お菓子」って感じがするけど、ただの板チョコをかじっていると「摂取」って感じがする。
板チョコはいくら食べても太らないと思ってる、チョコ菓子は太る、ポテトチップはもちろん太る。
板チョコの切実さがわたし好き、遊びの無さが好き。でもココアも好き、あまいものならたいてい好きです。

農作業をする上ではやる気よりも天候が重要だったりする。それはもう頑張りや根性じゃあ何ともしがたい要因で、わたしはわたしの仕事において、天候に準ずるものが自分の精神状態だと思ってて、つまり今日はわたし、チョコレート齧って過ごす。

2013年2月24日日曜日

20130224-02

7本1500円の色鉛筆と4本400円のそれ、どちらかが普通の色鉛筆でどちらかが水彩色鉛筆。わたしがほしいのは水彩で、それはおそらく高いほうなのだけど、「そんなのどっちだって同じだよ」と誰かに言い張られわたしは水彩色鉛筆を手に入れることができない。



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誰かの一言で死んでしまうこともあるし、誰かの一言で生き返ることもある。そのたび自分の単純さに驚くけれどそうなのだから仕方ない。

久しぶりに気持ちだけあせっている。今唐突にノートパソコンがほしくなって、衝動買いしてしまいそう。2万円台のパソコンがあって、比喩でも大げさでもなく今本当に購入ボタンを押しそうになっているのだけれど、いやいや外出先でやることほかにあるでしょう、本を読んだりとか、って自分と何とかしてなだめてる。そもそも文章はわたし、ひとりきりでなければ書けない。


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お風呂はいった。


自分の部屋の混沌さがいよいよ極まってきてピンチ。
いまだに4年前の夢を見る。

わたしが一番好きなわたしを肯定してくれるひとはごくわずかで、その真実に安心する。ごくわずか、「いる」ということ。
わたしのこと一番好きじゃなくても、顔も名前も知らなくても、だれかに肯定されるたびすごく心強くなる。何気なく発される「良い」や「気持ち悪い」や「好き」で人生救われることがあって、これは大げさだろうなあと思うので言わないけれど事実そうで、だからわたしはいまから、きちんと髪の毛を乾かして下着をつけ服を着て、スーパーにお買い物にまいります。

20130224-01

バスはどんどん進み、見覚えのある駅前ロータリーに出た。見覚えがすごくあるのだけれど、ここがどこだか思い出せない、山形か富山の気がするけれどどこだろう、行ったことのあるお店がいくつか見えるし、わたしことあるごとにこの風景を夢にも見ている。
どこかなあって思っていたら通りと通りの間に雷門が見えて、あっ浅草かってわかった。
バスは満席だったのだけれど隣に座ったおばさんグループがわたしたちを肘で押してきて本当に不快で、だからわたしと妹は、停車するなり一目散にバスを後にする。

雷門をくぐるとそこは水族館になっていて、空気を入れて膨らませたボートのようなものでプールに漕ぎ出し、イルカを近くで見て触ることができる。わたしと妹はそれに乗り込む。
観光客が一気に押し寄せたからプールは一面ボートだらけで、イルカに触るどころか前に進むことすらできなくて難儀、そうこうしているうちに男の子が2人乗ったボートと接触してボートに水が入ってしまった。
慌てて水を掻き出しながらなんとかプールサイドまで移動、完全沈没は免れたのだけど結局イルカに触るどころか姿を見ることすらできなくて、わたしと妹はもう完全に不機嫌。

水族館の出口の横に小さなかまくらのような部屋があって、そこをのぞいてみると17段くらいの立派なお雛様があり、やることもないのでわたしたちはそれをぼおっと眺めた。
実家のお雛様は7段で、わたしはその大きさをわずかに誇りに思っていたのだけれど、ああやっぱり水族館の中のかまくらで飾られるようなお雛様は大きさもケタ違いだなあ、でもなんとなくお雛様の人形がわら人形っぽくて不思議だなって思いつつ同じように雛人形を見つめる人たちに視線をうつす、人間はわたしと妹だけでほかはみんな猫だった。
漫画じゃないんだから猫が二本足で立って雛人形を観察しているわけはなく、猫たちはそれぞれ思い思いの場所にデロンとだらしなく寝転んで、雛人形を見たり毛づくろいをしたりと忙しそうだった。
猫たちの鑑賞ペースに合わせると永遠にこのかまくらから出られないような気がしたので、わたしは妹を促して部屋を退出、バスのトランクにつめっぱなしだったボストンバッグを取りに急いだ。
意地悪なおばさんたちはまだバスの傍らで誰かの悪口に忙しい。わたしたちはできるだけそれを見ないよう、急いで母と祖母のもとへ。もう死んだはずの祖母はきちんと自分の両足で立っている。

2013年2月19日火曜日

20130219-01

ヴォリュームについて考える。ヴォリューム。質量、積み重ね、わたしの吐露の積み重ね。
柔らかな雪が音も立てずに降り積もり、気付けば窓すら塞いでしまうような、そういう静かな重み。
きっとそういうものに何重にもくるまれて、わたしは生きている。
繭みたいに。


2013年2月18日月曜日

20130218-01

毎日毎日飽きもせず本ばかり読んでいたらふいに投げかけられた疑問文でこめかみ撃たれてわたしは死んだ。決定的な違いを無邪気に指摘されて傷付くのはわたしがそこに分不相応の劣等感を抱いているから、相手に感じる僅かな蔑視は自分の内なる意識のせいで、つまりは全てそういうことだ。


目にうつるものはすべて自分の心情なのだなあとしみじみ思う。あの子の笑顔がかわいく見えるのはわたしがしあわせなせい、あの子の笑顔がおそろしく見えるのはわたしが不幸な気分でいるためで、あの子の笑顔に裏があるのはわたしの心に秘密があるから。


とおい未来のことを考えると、みんな骨になって死んでしまうのだし、人類の素晴らしい功績だってたとえば絶滅してしまった恐竜にはあんまり関係がなくて、つまりはすべて諸行無常で、だから未来のことや生きている意味、そんなものを考えるということ自体がおろかだな、と思う。誰かの成し遂げた偉業に対してきみが劣等感を覚えるのはなんでだろうね、ぼくから見たらきみだって十分、恵まれているしうつくしい。ぼくはきみがきみ自身のことを、ダメだと卑下して苦しむことが、理解できないから同情できない。
すべての価値は心の問題で、つまりは生産性や費用対効果や経済的アドバンテージ、人類の明るい未来に寄与するような目に見える結果が出なくとも、わたしはきみの体温を、かけがえのないものとして評価する。

2013年2月17日日曜日

20130217-02

わたしの恋愛は普遍化され万物の中に潜り込む、そう理解すればあらゆるものとの相似を偶然あるいは当然の必然と考えられるから運命なんて思わなくてすむ。
あらゆるものとわたしとの相似は運命じゃなくて当然で、そこにロマンチックな何かを期待するのは酷く滑稽なことである。具体性を抽象化しさらに極端を抽出、本質は細部にこそ宿るという本当を無視したその行為でわたしはあらゆるものに奇跡を見出す。
一縷の希望的観測は当然の帰結であるのに結果だけ見るとそれはケチの付けようのない奇跡でその輝きは本物に劣らない、見つめ続けるとイミテーションから本物になるそれを飽きることなく見つめてしまうとわたしはきっと色々過剰、だから慌てて目を逸らす。

詐欺師みたいだな、と思う。詐欺師あるいは占い師か予言者。あらゆるものに当てはまるような抽象的な言葉を吐いて無理矢理現実という型に嵌めほら見たことかと優越感、それは詐欺行為でなくてなんなのか。

全ての事象は運命論で綺麗に結ばれ星座のように名前が付けられその時点でそれはほんものになるのだ。



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過剰でも卑屈にもならない正しい結論をわたしは既に知っていて、そのつまらなさと希望のなさに絶望するからいっそのことゼロだと思いたい。『わたしはきみに影響しますかしませんか』、「当然ある程度、する」に納得行かなくてそれなら全く他人が良かった。

あらゆるものの干渉を等しく受けて歪む僕らの前ではあらゆるものが等しい、その大小は問題にならない程度の差であってその問題にならなさにわたしはきっと絶望してる。


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正しく自分を評価する、特別では決してなくど真ん中の平凡でもなく、多数派ではないがただ少数ではない。正しい評価や目はいつだってわたしを苦しめて、でも認めなければやっていけない。
わたしは自分のわずかな牙と爪を丹念に研ぎ隠し、半径数メートルに及ぼす影響をコントロールする。

『わたしは誰にも致命傷を負わせることは出来ないけれど不快な思いをさせることはできる』

つまりは一瞬の影響力しかなくてでも彼に対する僅かな塵も払い除けたいわたしは指先にまで慎重を求める、1秒は1秒でしかないけどわたしは1秒だって、彼に不快さを味あわせたくない。
わたしのできることといったらその程度のことで、それは決して愚かではないが読み上げられない程度の矜持だ。

20120217-01

ゾンビの子供は卵大で、いやむしろまさに卵だった。ころんとした真っ白でザラザラした球体には二つの大きな目が、まっくろくろすけやスライムみたいな可愛らしい目がついていて、それは愛らしいを2周くらい通り越して薄気味が悪い。彼らは5体真横に並び前線を狭めるように攻めてくる、わたしはフライ返しでそれを上からぽこんと叩く。叩かれたそれらは卵のようには割れないし血だって出ないのだけれど代わりに瞬時に真っ赤になって、しかし歩みは止まらない。第一形態が白で第二が赤、変形はせず色だけ変わったけどじゃあ第三はどうかというと空恐ろしいものに変質しそうでわたしはそれらを叩けない。


セーブをするには特定のポイントを通過する必要がある、この世界はゾンビの世界だから町や村ですら安心してくつろげるところではないしつまりは24時間気が休まらない。本当ならばセーブポイントかつ回復の拠点である町や村までもが敵に侵されているなんてRPGとしての難易度が高すぎる、エンカウントに次ぐエンカウントでわたしの画面は真っ赤になった。実家から送られてきたプレイステーションはラジカセみたいな形でクリーム色、これどこが壊れているの?と母に電話で聞くと「ビデオが取り出せなくなったの」と言う。まずCDの収納部分を見てみるとCDが重ねて2枚入っていて、一つは何かのゲーム、もう一はメタリカのCDで、わたしはメタリカのほうを取り出す。肝心のビデオ部分のイジェクトボタンを押してみるとビデオの頭が2mmほど飛び出てきたのでわたしはそれを爪を使って慎重に引き抜く、確かに2mmという長さはビデオを引き抜くとっかかりとしては短過ぎる、でも引き抜けないこともないのでこれは故障ではなく仕様だと結論付け母にそう伝えたが電話越しに聞く溜め息で彼女がそれに納得いっていないことが手に取るようにわかる。受話器越しの溜め息は質量を持ってこちらに漏れ伝わりわたしの右手を重くする、でもそんなこと言ったってさ人は、近代的便利さや洗練されたスタイリッシュさの為にある程度の犠牲は誰しも払っているんだよとわたしは心の中でだけ言う。便利な機械は手間を省くためにありそれを使用するには操作が必要、ワンタッチのそれだってワンタッチが必要でそれさえ疎むくらいなら思い描いただけで実行されなければならないがつまり心を読まれるということでわたしはそれは気持ちが悪い。

家電量販店は賑やかで、一時期増えたボタンが少なくつるんとしたデザインのシンプルな家電は昔のものになっており指先で慎重に選ばなければ複数個押してしまいそうな小さなボタンがどの機械の前面にも所狭しと並んでおり店員はそのボタンの多さとそれに比例した機能の多さをアピールしてきてわたしは苦笑いしかできない。

2013年2月14日木曜日

20130214-01

春になると柔らかくなるのはチョコレートも猫も人間も同じ、つまりわたしも御多分に洩れずそろそろとろとろ柔らかくなる。やわらかくてフワフワしたものをわたしは確かに好きだけれども、自分がそうなることはあまり好きではない。炊き損ねたごはんみたいにまわりがベチャっとしているのに不快な芯が残った感じ、あの感じが一番好きだ。くにゃりと溶けだすわたしの芯は頼りないけど抗えない、重力に抗えない。

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「アンダーグラウンドと地下鉄」のC3出口がどこに繋がっていたのか今では全く思い出せない。高いものではなく、珍しいウイスキーばかり好んで飲んだ田中さんは技術職の人間で、仕事の話はさっぱり分からなかったけれど、仕事と奥さんが大好きだということが言葉の端々からにじみ出ていた。必ず部下か友達を連れてくる安田さんは、いつもよっぱらうとその部下や友達との出会いを熱く語った。わたしが好感を覚えたおじさんたちはみんなそれぞれに仕事と家族を愛していて、女の子に会いにくるのではなくお酒を飲んで話をしに来ている人ばかりで、そういう人は大抵郊外に住んでいた。一日をリセットするのだろうなあと思いながら、わたしは口を挟まず無言で相槌だけを打った。

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春について考えている、わたしにとって憂鬱な季節が今年もひたひたやってくる、とても怖い。
桜の木の下には死体が埋まっていて、わたしは上履きでそれを踏みしめる。
今年の春は怖くないとよいな、と思う。多分きっと、怖くない。

2013年2月10日日曜日

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手のひらに乗るくらいの小さな箱、100均で売ってそうなそれに入っていたのはたくさんの名刺と、数十個の2×1×10センチくらいの透明なプラスチックに入った写真。
そんな箱が4つ、バーカウンターやわたしが今左手を置いているサイドテーブル、ソファーの前のローテーブルにぽつりぽつりと置いてある。
ソファーにどかりと腰を沈め偉そうに座る女の子に「これ、何?」と訊くと彼女はつまらなそうに「ああ、あれだよ、わたしのセフレ、1軍から4軍まで」と答えた。胸まで伸ばした髪の毛はきれいに巻かれた栗色で、前髪を斜めに流した彼女は大人びて見えるけど19だ。
わたしは「ああ、あの、例の」と独り合点して、1軍の入った箱を探す。

「ねえそれはさ、寂しいとき誰でも良いからセックスしたいの、それともみんな好きなの?」と純粋に質問すると彼女は呆れた顔でわたしを見返した。その顔には『そんなこともわからないの?』って書いてあったから、わたしは『19のくせに、』と思う。
「みんな好きとかじゃないし寂しくもないよ、4軍の子なんてどうでもいいよ」と彼女が言うからわたしは4軍の名刺を束ねて一気に破り捨てる。
小さな紙は束ねると破りづらく、まるで「どうでもいい4軍」達に抵抗されているような気持ちになる。

「わたし、あなたにどうでもいいような人とセックスしてほしくないな」と言いながら、わたしは1軍の箱を探す。4軍にはそれなりに社会的地位が高そうな人たちがたくさんいて、そうしてわたしは彼女がセフレと呼ぶ男の子達が彼女のことを本当に好きなことを知っていて、じゃあ果たして彼女の1軍には、一体どんな人たちがいるのだろうと興味を覚える。
1軍の箱がどうしても見つからず、名刺と、変な写真プレートの入った箱を見つける、「あっそれ2軍だよ」と彼女が嬉しそうに言う。
この写真は?と訊くと、「それ、中学の頃の好きだったXX君」と嬉しそうに答える。
体育祭や修学旅行や終業式のクラスの集合写真から、黒髪でおさげの眼鏡をかけた彼女をわたしは見つける。4月の写真の彼女のスカートはバカみたいに長かったのに、3月の彼女はミニにしている。

2013年2月4日月曜日

20130204-01

笑ってるし、ごめんねって思ってるし、いいよって思ってるし、今バンホーテンのココア飲んでるし、今月献本2冊も当たった。
買った本と借りた本とこれから借りる本と貰った本、しばらくこれでやっていけそう。今日は図書館に本3冊返して、また2冊予約本を借りる。
人が理不尽な目にあう小説が最近すごくダメになっていたのだけど、今読んでるのが1100人くらい死ぬ予定の本だから、いちいち感情移入しないことにする。荒療治みたいだ。


ねこにひっかかれたりえさぶちまけられてもかわいいからしかたないし、かわいいは正義だし、つまりはそういうことで、それなら苦笑しながらわたしその正義のもとに跪くよ。
買ったばかりのタイツのあなを出先で発見して、しみじみそう思う。
かわいいとすきにはかなわない。




だれかに言われたひとことで悩みの重力が1/10になる、ほんとうに、すごい。




おととい読んだ本がほんとうによかった。瀬尾まいこさんの、僕の明日を照らして。
引用するので、つづきをよむにします。

2013年2月1日金曜日

じぶんメモ:1がつ本まとめ

漫画ばっかりよんだ、全然活字読めなかった。
お正月、テレビ見なかった。
2月は読書スピード落として、小説読む。

2013年1月29日火曜日

20130129-02

わたしのことはわたししか救えないしわたしが動かさないとわたしの手も足も動かない。わたしの起伏のすべてはわたしに原因があってつまりはそういうこと、おなかが痛いせいで、昔やってしまったひどいことや言ってしまったひどい言葉ばかり思い出して電車が酷く辛かった。みんな死ねばいいのにって思ってしまう夜があるけどそんなの不可能だし悲しすぎるしなにより非効率的で、つまりは効率的な方法を考えて、ああ、って思ったりする。わたしはわたしをなんとかしないとまったくもってだめになる、いままで考えも想像もしなかった方向で、ほんとうにだめになる。
なんでわたしあのときあんなこと言ったのかな、言うべきではなかった。いまこうなるのが運命だったとしても、あんなこと言うべきじゃなかった。泣きそうな顔で笑ってくれたいろんな人の顔ばかり思い出す、ごめんねって思うけどそんなこと言う資格はなくて、もっと言えばごめんねなんて思う資格もない。



なにものもわたしを損なうことはできない、今わたしがそう感じているとするならば、それはわたし自信の責任だ。もし本当にそれに身を任せてそうなってしまってそんなことを望んでしまったならば、わたしはもう一生救われないし、本当にみじめになってしまう。



いま思い出して心強い、顔も名前もしらないひとのことを考える。
ぜんぜんだめだ、わたしぜんぜんだめだ。

20130129-01

わたしはきみを壊せない、
わたしはきみを損なえない、
きみはきっと多分、他者に損なわれることはない。


溢れるどろどろに対応するためにラベルを付ける、一気に陳腐に平凡化する。方向性はわかっているのにそっちのほうに頑張れない、嘘ついた今わたし、なんにも頑張れない。

よくわかるのはわたしが同類だからで、嫉ましいのは同類なのに同等じゃあないからだ。


529200秒の休息が必要、
おやすみなさい。

2013年1月28日月曜日

20120128-01


駅までの道をバターになりながら歩く。路肩の雪はもうあらかた溶けてしまって注ぐ日差しはまるで春のよう、雀が植え込みから時折飛び出してくるのにびっくりする、わたしのパンプスがそのたび右側に傾く。近隣諸国、って口に出す、きんりんしょこくー。意味はないので一度で満足する、どこでもドアがあればいいのにな、と思う。

「忘れないで」にどうしても共感できなくて、「忘れない」にもどうしても共感できない。今日の予定を頭の中で組み立てる、放置できかつ放置したほうがよいものは先に、そうでないものは後に。何をするにも時間は足りないし腐るほどあって途方に暮れる。

わたしが自分で言った言葉に痛いほど共感する、適当なことを言うと特定の誰かが傷付く。嘘や妄想や感想しかという欺瞞はわたしが一番わかってる、それでも全部フィクションだ。

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ねえなんのためにさくらちゃんはしんだの、しんださくらちゃんがほんとうにしんだのにわたしはなんにもできていない、しんださくらちゃんに使われるはずだった酸素や労力ただただ腐らせて終わっている。頑張ろうとは思うけどどっちに頑張ったらいいかわからなくて、覚悟が決まらずぐじぐじしている。「こっちの方向に全速力で頑張ったらきみ正解だよ」って誰かにいわれたらわたしきっと、血反吐吐きながら全力尽くすって思うけど、でも多分その「だれか」が神様であっても、「えーそうかなあ」って言ってやっぱり納得できないのだと思う。


走り出したい方向には壁しかなくて、行くべき道には行きたくない。
穴を開けるか不本意でも道を走るか二つに一つ、さてどっちにがんばろう?

2013年1月25日金曜日

20121218-01

「明日隕石が落ちて、地球が滅亡するかもしれない」は、わたしのなかでの基本理念で、これはおおげさじゃなく結構な真実だと思う。優しかったおばあちゃんは妹が生まれる前に死に、幼稚園からの友達だったあの子は中学生であっさり死んだ。ずっと仲良しだよねって言ってた翔子ちゃんとは別々の高校に行って完全に縁が切れ、ずっと一緒にいようと言った昔の恋人は今年わたしじゃない女の子と結婚した。なにもわたしの周りが変わってしまったわけじゃなくて、「明日隕石が落ちて地球が滅亡する」のと同じレベルでわたしが変わってしまうこともある。この子の面倒一生見ようと思ってた男の子のことがうっとおしくなったり、大親友だった女の子と連絡とるのがめんどくさくなったり、一生続けようと思った仕事に嫌気がさしたり。「明日隕石が落ちて、地球が滅亡するかもしれない」が、自分以外の他者だけに当てはまることであればわたしこんなに疑っていない、それがほかならぬ自分自身に起こりうることだって、わかっているから怖いのだ。

20121114-02


あなたは無理しなくていいし頑張らなくていいんだよ、眠たかったら眠っていいし、学校だっていかなくていいよ。働かなくたっていいし甘いお菓子もたくさん食べていい。そのままのあなたでいいし、作らなくてもいいんだよ。だってわたしとあなたは他人だから。


って歌を作ろうと思ったのですがメロディがうまく作れませんでした。

20121114-01

走るのがめんどくさいから死にたいとか救われないにも程がある

20121019-01

君のこと盲目的に好きでいたいし、平等にあいされるのはいやだなあ。

2013年1月23日水曜日

20130123-01


ヘリコプターから見下ろすと30haの畑なんてとても小さい。上から見て右から順に大きい動物、一番左は兎。ライオンや虎よりも左側にトリケラトプスとプテラノドンがいるのが解せないけどそうなっているのだからそれでいいのだ。各畑は防風林で区切られていて、それは普通の防風林(2~3列)だから、そこ突破して肉食獣が左側へ突っ込み乱獲状態に陥らないのか心配するけどどうやら平気、そして一番左の兎の隣、そこに私たち人間の教室がある。
等間隔に並んだ机は一日の終わりに後ろに下げられ担当の生徒による清掃が始まる。最近赴任した若い音楽の女教師に思い切って話しかけてみる、「どうして動物たちは防風林を越えてこないのですか?」先生は慌てて上層部に質問、返ってきた答えは「兎は一人で森を超えられないのよ」だった。
曰く、私たちの教室と同じように兎も(机はないが)一体一体行動をしているから、防風林を一人で超えることが、性質として出来ないらしい。そもそも隣が透けて見えるような2列の防風林のどこが森だ、兎はそれでよしとしても凶暴な肉食獣たちはどうなるのか、疑問は更にわくばかりだけど先生があんまりにも嬉しそうな顔をしているので言い出せない。


そしてわたしはまた、犬に腕を噛まれる。

2013年1月22日火曜日

20130101-03




「自分の感情がすべて一般的にふさわしくない」

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築いた友情と結んだ赤い糸、積み上げた経験と人脈と思い出。そういうものが人間の本当の財産だと思うけど、そういうものこそが煩わしくて、全部めんどくさくて捨てたくなるときわたしは携帯電話を想像する。
携帯電話を赤いポストにするりと投函する。そんなことしたって困るばかりで、むしろ実際の人間関係なんて携帯の外でつながっているものの方が多いのに、どうしてもそれを想像してしまう。わたしの持ってる携帯電話は未だに二つ折りのものだから、それを逆パカして放り投げてお金だけ持って鈍行に乗って、そんなこと考えるけど実際は、電話がないと不便だし、明日会社だし飼い猫も家で待ってるし、だから想像するしかない。

携帯電話をポストに入れて、わたしはひとりで旅に出る。


いろんなことが煩わしいのは、それらがどうでもよくないからだ。どうでもいいことならばきっと全部簡単に切り捨てられる。すてられないしがらみがこんがらがって絡まるから、解くのに疲れてしまってもういいやって、全部放り投げてダッシュで逃走、どうしたってその誘惑強い。

わたしが今まで人生で失敗したことたくさんある、多分あそこでああしなければ自分を含めた誰もかも一人残らず傷つかなかった、それならきっとその行動がそれに対する正解だったのに。もしその正解を、当時若かったり混乱していたりなんらかの理由で導けなくて間違っていたならわたしはきっと、あのころに戻ってやり直したいって思っただろう。でもわたし当時からそれが正解だってわかっていたし、わかっていたけどどうしても不正解な行動ををしたかったわけだし、正解よりも人を傷つけないことよりも自分の感情を選んだわけだし、だったら多分今私が当時に戻れたからといって、今度は正解を選べるとは到底どうしても思えなくて(結果もそれに至る病も、わたしは当時から十二分に想像できていて、そして現実はその想像通りに進んだので、この結末を知った上でも多分わたしはどうしても無理なのだと思う)、だからわたしは自分が間違っていたとはあんまり思ったことがなくて、だってわたしなんだから、それ選んじゃっても仕方ないよね、って思う。

わたしのなかでは多分「しかたない」がすごく大きくて、それは諦念のようだけど、諦めじゃなくて認めているだけだ。


自分に関することや自分が主体で進んでいく物事に関しては多分正解があるのだろうけど、そうじゃない、ましてや自分の好きな人でもない、第三者がからんだ問題だと、わたしも正解はわからないかもしれない。
そこに対して正解を探したりはもちろんするんだけど、間違ってもあんまり悔やまないのは、わたしがそこのことを心底では、どうでもいいと思ってるかかもしれない。




20130112-01


贖罪のためにわたしは産まれ、贖罪のために生かされる。人の命は地球より重いなぞたいそうなことを言う気はないが、じゃあわたしはどうすればいいの。わたしをつくり産み育てそこにあなたたちが贖罪を見い出すの、否定はしないけどだったらわたしはなんのためにわたしの人生歩めばいいの。贖罪のために存在する子供、贖罪のために育てられる子供、贖罪のために愛される子供。あの人たちが愛しているのはわたしじゃなくてその向こう、わたしから透けて見える誰かでわたしは罪の象徴で、あの人たちは許しのためにわたしを愛して慈しむ。「そうじゃなくなる未来」、わたしがあの人たちに救いを与えて与えられる未来、そういうものが想像できないわけじゃないけどどうしても、この愛情の本質を、考えずにはいられない。ただのわたしという存在を生物を、バックグラウンドなしに愛してくれる存在はない。存在を望まれたわけではなくて、罪の象徴と許しのために、わたしはこの世に産み落とされた。大事にされたし優しくされた、適切な愛情を適切に注いでもらい、理想的な環境ですくすく育った。なのにこの空虚は何だ、言動や行動じゃなく現実に/生活に/日々に、じわじわ滲み出るこれが空虚で、多分それはあの人たちからじゃなく、わたしの存在そのものから、染み出し続けている空虚だ。

わたしは死ぬまで愛されない、わたしは死んでも愛されない。わたしはわたしじゃなく、わたしはあなたたちの贖罪だから。


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携帯じゃなくSNSで誕生日おめでとうのメッセージがきて、ああ、って思った。
これは無意識の選択で、そこにはぼくらの距離感が、端的に集約されている。

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泥棒に感謝をしたことはないし今でも捕まって死ねばいいのにと思うけど、無理矢理物質を奪われたことで、自分で捨てられないものたちを捨ててしまったことになるならば、結果よかったのかなって少しだけ考える。
わたしの記憶はすぐなくなるから、だから例えば18きっぷや空港までの電車内、そういうところも本当は、一人の思い出だけじゃないのに見事に一人の記憶しかなくて救われる。

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本筋と関係のないお話にばかり惹かれる。みんなさらっとながすそこに、だれかの人生がかかっている。


20130122-01

手を叩いた合図で一斉にそれらは牙をむく、小さな体躯からは想像がつかないほど鋭い犬歯(文字通り、犬歯)を威嚇するように見せつけ喉の奥から低い音を出す。動物(人間含む)に例えば腕を噛まれたら逃げるのではなく寧ろ敢えて腕を押しつけるように喉にめり込ませ、そうすると相手は苦しくて口を放すと聞いたことがあるのに全く効かずそれどころか押しつけられた肉や筋を噛み千切ろうとしてくるからたちが悪い。もうこうなったらと噛まれた右腕はそのままに、左手をそいつの口に横から突っ込み上顎と下顎を(文字通り、上下に)まっぷたつに裂いてしまおうとするのに唾液で滑ってうまく行かない。なりふり構わず足掻いていたらなんとか腕が抜けたから、背中を見せないようにして超絶ダッシュで逃げ出した。引き戸とドアノブに手が掛かるタイプの扉(押す)はあいつら安易に開けられる、幸いなことにその部屋は仏壇のような観音開きだったからピタリと閉めて次の部屋へ急ぐ。
猫かー、と、声が出る。チワワに雑種犬に次は猫かー。わたしが部屋に入ってから誰かがパチンと手を鳴らすまで数十秒、それまで動物は正常でいるから本当ならばその隙に、彼らを“倒して”おくべきなのだけどまだわたしは動物虐待を平気でできるほどの精神状態ではなく、つまりまだ自分の危機を正しく認識できていなくて、そこまで自分でわかっているけどだって猫でしょう、可愛いんだもん。双方にとって最善の「この何十畳もあるだだっ広いお城のような畳の部屋を、数十秒で走り抜ける」をわたしは選択、アキレス腱にだけはなんとなく触れないで欲しい怖いからと祈りつつ思いっきり背中を見せて逃げ出した。そういえば今の部屋には兎もいたなあ、灰色のもこもこのおとなしそうなやつが何体も、あの子ら凶暴化したら仲間割れしないのかしらとか思いつつ、いやあこれ全部あの人が仕組んでいることだものそんな粗相はないのだろうなとか考えるうちに次の部屋。仏壇を大きくしたようなそこにはどんな大型生物が出てくるのかしらと思っていたらなんとゾンビで、ゾンビっていうともう字面からギャグ臭が若干漂い始めてくるのだけど要するに腐った/凶暴な/成人男性が左右からわらわら沸いてきて、いやぁこれは洒落ならん寧ろ触れただけでゲームオーバー案件だしそりゃもう必死で逃げたよね。指一本触れたら死ぬわたし間違いなく死ぬ、多分もう一間抜けたら逃げられる、建物の外に逃げたらもうセーフ、「神様!」って祈りたいとこだけどなんてったってここ仏壇だし、こんなとこでこんな目に遭ってるってことは神様仏様がもし存在してもそれはわたしを助けてなんて絶対くれない。
知能指数が低そうな敵/外に出れば勝ち逃げって条件/散乱する人が中に隠れられそうな家具/割れそうな窓、全部引っかけだ。あと一間、多分仏像のその奥の壁を壊して外に出る、それ以外は全部バッドエンド。

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死にたくなる朝目覚ましをかけ直す必要なんてわたしになくて、明日もまた目覚めなきゃいけない口実を作るためにわたしは社会に参加している。誰からも求められなくなったら自由に死ねるのにいざその自由を手に入れてもわたし何にも出来ないから、それならいっそ他の誰かに下らない理由で縛られよう。
「対価:金銭」以外の精神的な部分での必要性は全部嘘だしただの欺瞞で、つまりは今わたし満足だけど、わたしはわたしの全部を商品にするつもりはないし、つまりはそういうことだ。
勉強も仕事もコスプレをしてゲームしているみたいなもので、だからそれ自体が辛かったこと一度もないし、でもそれは多分防衛本能と効率化のための計算で、だからそれが今癖付いちゃって24時間息ができない。
嫌いじゃないし苦痛じゃないし何にもしんどいことはない、ただ息がしづらくて苦しくて、ベタな言い方すると閉じこめた本当の自分みたいなものが、世界中どこにもだれにも存在を認めてもらえないのが、しんどいっていう幼すぎるわがままだ。


わたし可哀想わたしえらいね、そう思わないとやってられないけどそう思えば思うほどまた「可哀想だけどえらい」状態を我慢して続けなきゃならないのだろうなと、思えてよけい死にたくなる。だからってこれを解放したらどうなるかわたし散々知っているから、多分一生共存は出来なくて、こうして押さえ込むしかない。


分裂したい分裂したい、多分わたしならわたしのこと上手にあやせるし甘やかして誉められる、二人で交互にそれ続けたら永久機関で頑張れる。



お兄ちゃん家からは自分で去った。お兄ちゃんの実家は地域的には被災地域ど真ん中で、縁側や干し柿思い出したら泣けてくる。希望的観測って10回唱える、見てないものはなかったことにする、連絡取れない人はどこかで元気に生きてるし、わたしがひどいことしたあの子も元気で生きてるし、わたしのしらないところでみんなきっと幸せになってるし、だけどわたしはまだ償ってないしその人たちには償えないから、ああまたこの話、いい加減飽きたしどうにかして。


誰かへの償いとかそういう問題じゃないってこと、自覚しつつあるからやりきれない。原因がわたしにあるにしてもいなくなったら死にたくなるほど大切だった人たちへの贖罪であって欲しかったのにそれですらなくて、じゃあ原因は徹頭徹尾わたしの中で、なんてやりきれないのだろ。


羨ましいと思わない、人のことも昔の自分のことも。わたしはわたしでしかないしどうあがいてもわたしだから、多分誰かに成り代わっても、絶対これから逃げられない。

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何のためかはわからないけど多分確認のためにそれをする。色んな立場がわたしにはあって、適切な振る舞いを全部やる。限界は多分こないと思う、わたし結局たくましくて、絶望で死ねなくて、それがとても、つらい。

2013年1月8日火曜日

20130108-01

「お願いだからわたしのこと忘れないで」って歌い上げる曲聴きながら思う、わたしのことはすぐ忘れてほしいな。忘れてほしくてもそうでなくても、多分きみはわたしのこと忘れない。もしきみが100歳までいきてもその数パーセント、単純に計算してももらった初めての出来事数十パーセント。君は絶対わたしのこと、毎度思い出しはしないだろうけど忘れない。だからきみにはわたしのこと、早く忘れてほしいと思う。わたしはきみのこと、もうわたしのものとして、自然に取り込んでしまったから、忘れる忘れないじゃなくなって、せめてきみがわたしのこと忘れないのだとしたら、このくらい穏やかなものになってほしい。



牛乳がないからオムレツじゃなくて、目玉焼き作ってトーストに乗せた。ぼおっとしていて卵を一個、床に落として割ってしまった。怠ける、が、どこか遠くへ行ってしまって、「ああわたし、若干戻りつつある」と思うけど、いいか悪いかわからない。でもたとえばその気になれば、精神的崖っぷちになんていつでも立てる、多分10秒で立てる。だから別に今は眠たいし寒いし、これでいいのだと思う。


出口が出来たから排出をするような真似、現実世界ではしたくなくって、でも多分それも全部、「いいよ」と言われる気がしてる。わたしそれに納得はできないけど、1mmほっとする。



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彼女の新居は立派なマンション、だのにロビーは騒々しくて荒れ果てて、あまり品のよろしくない方で溢れていてわたしは言葉を失う。これから頼りない彼氏と猫とで踏み出す少し不安な生活に、彼女を笑顔で送り出す役目出来そうになくて目を逸らす。靴を適当な靴箱に入れて知らない男の人に怒られる、立ち尽くしてたらソフトボール大の木の玉を男の子たちにぶつけられた。わたしはこのまま逃げ出せるけど彼女はこれからここに住む、だからわたしは泣けないし、「すごくいいところだね?」って言わなきゃいけない。わたしの背中の鈍痛は、彼女のそれに比べたら多分驚くほど軽い。


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世の中のありとあらゆるラブソング、それの全てにきみがわたしを、重ねて切なくなればいい。

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さむくてねむくておなかが痛い。自分の思考をコントロールできたらいいのになと思う。理屈と正解はわかるのに気持ちの持って行き方がわからない。もっと単純でいいのに。


今日二十歳の時にもらったネックレス初めてつけてみた。勿体なくてつけられなかったやつ、ゴールドだからあんまり似合わないやつ。多少なにかに大事にされている気持ちになるから、これはこれで、いいかなと思う。

2013年1月4日金曜日

20130104-01



好きじゃないけど好きでいて、救えないけどそばにいて。


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モーニングセットのホットサンドが、クロワッサンでびっくりした。コーヒーだとなんだか強いから、ホットのカフェオレ飲んでいる。携帯電話は30分で電池が切れていやになる、10月を引きずっていたら緩やかに12月、そして1月。

夢の中でしか泣けなくて、いつでも喉だけ痛かった。無理矢理ダイブしなければ、後退することなくなった。「わたし不幸にならなくちゃ」、そんなにわるい子じゃなくなった。あの子が幸せになってくれたからってすべてが赦されたように感じるの、わたし絶対間違ってるけど、多分あの子はいいよ、って言う。多分猫も、にゃあと鳴く。
(ほんとはぜんぜん赦されてないし、ほんとはぜんぜんいい子じゃない。やさしいひとにあまえてるだけで、わたしほんとはそんな権利なくて、わたしほんとはもっと、ほんとはわたし、って考えると泣きそうになるからひどく醜い。何で泣くんだろ、自分がかわいそうなのかな、ばかみたい、自分がわるいのに。だからきみは救われないんだよ)



わたしやっぱり冬が好きだな、寒いけどぴりっとしていて、おふとんが幸せで、ココアとチョコレートがおいしい。チョコレート、わたし今年に入って食べてない。初チョコレートは北海道で食べようと思う。
自分が温くなったの感じたら、今までずっとイライラして焦ってしまっていたのだけど、いま温くなるべくして温いなって思っているから悲しくならずにねむたくなる。絶望的なまでの差異、絶望する暇もないほど絶望的で、わたしようやく理解した。いろいろ殺してしまった、でもまあいいのかなって思う。多分「よくないよ」ってそのうちなりそうだけど、それはそれでそのときに考える。


届かないから何度でも、ごめんねとおめでとうをきみに言う。


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誤解されたくない、で、文章重ねるのやめにする。
ほんとのことは行間か、もしくは直接口で言う。


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わたしの一番ほしいもの、多分いつかもらえるから、今は内緒にしておくね。


2013年1月3日木曜日

20130103-01

電車のドアのそばでぼおっと立っていたら、大学時代の同級生に声をかけられた。大学時代は5人組で、そのうちの一人はわたしで、残りの4人がそこにいた。確か一人は結婚して子供もできて、あーでもほかの子はなにしてるんだっけな、超がつくほどまじめな女の子しかいなかった中で、わたしたちすごく浮いていて、でもすごくたのしく過ごしたのに、そのなかでもわたしはやっぱりまじめじゃなくて、だから卒業あたりから、わたしだけふわふわ浮いてずれてしまった。あんなに毎日一緒にいたのになにを話していいかわからなくて、「あー、」って声しか出なかった。
車両の奥には今までの同級生、それも女子だけ、がずらり揃ってて、あーもしかしてこれが、「飲食店入ったら偶然同級生が勢ぞろいしてた」ってシチュエーションかー、まあ話すことないから呼ばれなくっていいんだけど、って思ったりした。ふと気づいたらバスは、隣の市じゃなくわたしの町の駅行きになっていて、運転手さんにどうしても降りたいと伝え、よくわからないところで下ろしてもらった。なめていたのど飴はいつの間にかガムになっていてわたしは自分のコートにそれをペッと吐く。後ろから中学のころもそして今ものんびりした顔と声としゃべり方の女の子がわたしを追いかけてきて、下半身裸になったからびっくりした。紫色のレースのショーツは「ショーツ」って感じのパンツで、え、え、なにしてるのって言う暇も与えず彼女は普通に喋るから、わたしは自分の目線をそこからバリっと剥がしてまた走った。電車はバスになるし、のど飴はガムになるし、わたし全然ついてない。地面を蹴って、力を前進の方向にかけているはずなのに真上にふわりと浮かぶばかりで全然前に進まない。体を限りなく前傾姿勢にして、つま先で蹴って踵で着地して、必死で走るのに進まない。泥の中を蹴りながらびゅうびゅうの向かい風の中を走っているようで、力だけ無駄に消費されていって酷く焦る。わたしいまこれものすごく、早く走らなきゃ間に合わない。間に合わないのに進まない、走り方を忘れてしまったようだ。踵で着地し爪先で蹴る、浮いてる間はなるべく足を伸ばして長く跳躍、踵で捕らえて爪先で蹴る、なんで上にしか行かないの。
バスの中にわずかに乗っていた男の子に、お前あいつと付き合えよと声をかけられたこと思い出す。ねえ元気、また遊ぼうねって、女の子に声をかけられたこと思い出す。いやだなどうしてわたしのいろいろ、思うとおりに進まないんだろう。もう逃げるしかない、バスも電車もなにもかも、信用できないから走るしかない。走るしかないのにどうして進まないのかな、向かい風が悪いのかな。お正月の町ではワゴンセールがそこらかしこで行われていて、わたしはそのワゴンを手すりのようにして、体を引っ張り上げるように前に進む。やだなもう逃げたいな、なんで全然進まないのかな。


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おもちたべたいな。もちもちいいながら食べたい。すごく恥ずかしいから内緒にしたいことなんだけど、おもちを「もちもち」って声に出して言いながら食べたらすっごくおいしいの。でもお行儀が悪いしなんだかなって思うから、一人でこっそりやるとよい。
ココアもちというものがあるらしいから、わたし調べて食べてみよ。

今年はおいしいものたくさんたべたい、おいしいものたべたい。たかいものじゃなくて、おいしいもの。



王様の耳はロバの耳、しないとわたし生きていけない。だから穴にされちゃった場所や、そこに住んでる人たちには、ちょっとごめんねって思ってる。

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ことしお正月、ずっとしたかったことできたから嬉しい。なんとなく勝手に願をかけて、おみくじ引いたら大吉だった。おみくじでこんなによろこんだことない、おみくじが嬉しかったんじゃなくて、おみくじも嬉しかったんだけど、そういうのじゃなくて、全部上手にいえないから、だまる。

達観した気持ちになったりしたくは決してないんだけど、やっぱりそう思ってしまうことがあって、でも全部喋ってしまったら、酷く居心地が悪いから、だまる。



おうちに帰ってきたら、たべるものお豆腐三連パックのうちの二丁と冷凍カレーと、お弁当のための冷凍おかずしかなくて笑った。ねこのえさはたくさんある、いつものカリカリに、にぼしに、クリスマスプレゼントであげたやわいえさに、歯にいいというソーセージをねじったみたいなやつ。お正月テレビもネットも全然みないでいろいろ考えたり本読んでたら、一番悩んでたことがすっきりした。自分の中の一番いやだった部分、あっさり解決したからすごい。





わたしはただの人間で、狭量だしわがままだし全然だめなひとだけど、それでもわたしが許しているから、だいじょうぶだよとよく思う。 クズみたいな人間にでも、だれか一人に許されてさえいれば、ちょっとは救われるんじゃないかなって思ってる。毒にも薬にもならないタイプの愛情、わたしジャンジャン注ぐから、あーあそんなもんもらっても仕方ないんだけどなって、ちょっとあきれながら笑ってほしい。



頑張ってお風呂はいっておでかけする。もう晩御飯のこと考えてる。今日なにたべようかな。

2013年1月1日火曜日

20130101-01





ああこれが、狭量で我儘だったわたしへの罰だ。



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「改札で、
 待ち受ける僕らの、
 敵はきっと 泣いてる
 知ってるんだ、」

ああ、そうだよね
そうだよね、
そうだな。



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死んでもお詫びしきれないことを、もしもしたなら死ねばいい。悔やんで生きる君のそばに「もう苦しまなくていいんだよ」って囁いてくれる優しい女神が現れてわたしに悔いながらも前向きに新しい人生を歩み出す、そんなの絶対許さない。取りあえず死ぬほど申し訳ないなら今すぐ死ねよ、そしたらわたしゲラゲラ笑って「死んで許されると思ったのバカじゃない」って吐き捨てる。犬死にで無駄死にな誰にも悲しまれず喜びさえもされない君の死、なんて哀れなことだろう。でもそれだって一瞬で、わたしあなたが死んだこと、1分後には忘れると思う。

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【贖罪】善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。罪滅ぼし。
【贖う】罪のつぐないをする。

金銭にすら変えられない何かで、わたしは贖罪する。埋め合わせは確かにできても罪が消えるわけではないからわたしの歪はそのまま残るししあわせになっても許されるわけではない。不幸でいなくてもよくはなるけどしあわせになんてなれないし、きっと一生許されない。わたしあのとき生まれて初めて「たすけて」って 口に出したけど、あれはやっぱり出すべきじゃなかった。わたしには助けなんかこないし、来てはいけないし、くるべきじゃないし、なぜなら他ならぬ私自身が、助けを殺してしまったからだ。



過去の自分への贖罪を、違う誰かであがなうということ。



「がんばったから見返りをください」は、お給料かテストの点にしか求めてはいけないし求められなくて、友達にも恋人にも家族にも、そういうことは言ってはいけない。いけないんだけどどうしても、一人で頑張って辛くなるからわたし神様にお願いした。かみさまわたし優しくなるし、がんばるし我慢するしいい子になるよ、だからかみさま頑張っただけ、わたししあわせになりたいです。



ポパイのほうれんそうみたいになりたいって、わたしずっと思ってる。


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あけましておめでとう、
世界中の女の子がしあわせになりますように。


https://www.youtube.com/watch?v=sYXzLrE5YF0

じぶんメモ:12がつ本まとめ

びっくりするほど記録できてない。
ちゃんと携帯とかに、なに読んだか都度メモろう。