2014年6月30日月曜日

20140630-01

わたしELIちゃんがなにか曲を投稿してるのは知ってたんだけど、家のパソコン音出せなくってずっと聞けなくて、最近「あっイヤホンをつなげばいいんだ」って当たり前のことに気付いてそれがさっきで、そしたらすごいキラーチューンが投稿されてたからいま夜更かししてる。

https://soundcloud.com/eli-y-1/you


わたしが文章に書くのは基本的には嘘か、なにかの感想か、夢とか、とにかく現実に起こったことではなくて、なんだけどELIちゃんのつくった何かに触れたときはこうやって文章書いているなって思った。いっこまえの日記で、夜の底にぶつかったときに思い出すひとのはなしをしたけど、まああれもぜんぶ嘘で残らず本当で紛うことなき偽物なんだけど、ELIちゃんのつくるものはぜんぶ、多摩川河川敷で見た神奈川県の光とか、羽田空港から飛び立つ飛行機の航行灯とか、一人で風邪で寝込んでいたら届いたリゾットとか、そういうものを思い出して正直つらい、つらいんだけどばかみたいにいとおしくて泣きたくなる。自分の幼さとか変わってしまった姿とか、もう思い出せないすきだったひとのかおとかそういうもの、いつのまにかなくなった白いカーディガンとか運動靴とか、目の粗いマフラーとか髪飾りとか、そういうものが洪水みたいに溢れて、つらくて、いとおしくなる。
多分、わたしにとっての多摩川や航空灯やカーディガン、誰かにとってのそういうものに、きっと姿かたちを変えて、いろんな人のもとに届いているのだろうなと思う。自分のためのものじゃないのにふたりぼっちみたいに思える、こういう感想を抱くときわたしはいつも、ひどく傲慢だなって思うし、なんだか自分のためだけにそれをわがままに消費しているみたいですごく申し訳ない気持ちになる、なるんだけど、思っちゃうんだからしょうがないよねって甘えたことを思ってる。

この世でたったふたりぼっちな気持ちになるのは、ひどく心細くて、なんて安心できるんだろう。

2014年6月29日日曜日

20140629-02

全然羽根木公園に行けてないからあそこは果たして実在したのかなって思ってる、グランドピアノとたくさんの遊具、みんなでカレーを作って遊んだり、あれが本当のことだったのか、もうわたしよくわからない。行きたい行きたいって言いながらもう10年近くたって、あのとき遊んだ小学生も多分いまはかなり大きくなっているだろう。秘密基地みたいな小屋の屋根に登る子供やたくさんのボールとか、ああいうの全部、本当にあったものなのか、わたしもう今は確信が持てない。



「あのね、わたし、君とどこそこへ行ったって言うのものすごく覚えているの、馬の銅像見たなとか、外人墓地の近くを通って、そのときわたしは助手席を倒して眠っていてでも日の出が見えてまぶしかったとか、空港の近くのどこかでひたすら海と飛行機の明かりを見たなとか、そういう、すごい観光スポットじゃない、ただの道端みたいな記憶、でもねたとえばディズニーランドとか海ほたるとか、そういうところに誰かと行った記憶、結構な観光スポットなんだけど誰と行ったか全然思い出せないの、それって心底本当に、どうでもいい人と行ったってことだよね」って言ったら「そうだね」って返ってきたからほっとした。なんてことない道端の記憶が残っているのはとても不思議、でもすごく残ってる。好きだよって言ってくれるのに絶対付き合ってはくれなかったわたしの好きな人に彼女ができて、その彼女と早々に別れてすぐさま次の彼女ができて、それを知ってもういやだ帰りたいと思って、でもここまで好きな人の車に乗せられて来たし駅も遠いし一人でなんて帰れないと思ったときに連れ出してくれたこと、人にからかわれても全部無視して一緒に逃げてくれたこととか、そういうの全部覚えていて、住宅街の細い道を歩きながら撮影スポットを探したなとか、わたしは車止めのコンクリートの上を飛び石みたいに歩いたなとか、そういうの全部覚えていて、わたしはただでさえ記憶力がないんだけど変な事ばかり覚えているなとか、そういうの、多分、どうでもよくないから覚えているんだなって思って、だから「そうだね」って返してくれて、わたしも「そうなんだな」って思った。



例えばわたしにできることは何にもなくて、僅かな経験から得た知識とか、そういうものをつらつら話すしかできなくて、でもそれだって専門家じゃないし正しくないから君のためになるかはわからなくて、つまりはやっぱりわたしにできることは何もない、だけど毎日ご飯を食べてちゃんと眠って、健康的に過ごしてほしいなって思ってるし、でも幾らわたしが切実にそう思ったって何にもできないことには変わりがなくて、だからそう思っていることは、口にしないようにする。



例えばわたしたちの性別が違うとして、相手に抱いているのが恋愛感情じゃない場合、そういうときに一番近くで寄り添うってのはなんだか違う気がして、本当は違ってないのかもしれないけれどわたしたちの場合はなんだか違う気がして、すごく大切に思っているとか心配しているとかそういうのを表すのはわたしたち自身にも周りにも誤解を生む気がするから黙ってる、自分でも説明しづらい気持ちだなと思う。わたしにはいつも好きな人がいて、それは絶対君じゃない誰かだ。
わたしはわたしでうまくやるし、君は君でうまくやるんだと思う。人生の伴侶みたいなものでもないし、同性の友達でもないから、もっと若かったら同性の友達と変わらず付き合っていたけどもう大人だから色々考えたりして、その結果適度な距離感を持ってわたしたちは付き合うんだけど、 夜の底に突き当たって沈黙に耳が痛くなった時には、生クリームの入ったメロンパンをわたしは思い出すんだろう。何もできないししないけど、健やかに生きてほしいなとかそういうこと、わたしは滑稽なほど切実に思ってる。

20140629-01

どんなに頼れる恋人が傍らにいても、吊革に掴まらず彼の腕に縋りつき、ヒールをカツカツ鳴らしてふらつき回るような、そんな女にはなりたくないと思った。電車の揺れを全身で受け、彼の腕を支点にそれを足下に逃す、そうすると、自分がどれだけ恋人に頼っているか、恋人にも周囲の人にも目に見えてわかる、でもそれは、ひどくみっともなく見えた。そういう生き方はしたくないと思った。


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わたしには哲学があって、それまで哲学というものは、思考から発生するのだと思っていた。確かにそれに間違いはないのだけれど、わたしのこの哲学は、思考というより、欲望から発生している気がする。自分がしたことされたこと、して後悔したことやされて嬉しかったこと、そういうものを突き詰めてわたしは哲学を作り上げ、そしてそれを実行している。

2014年6月24日火曜日

20140624-01

彼が「あのこ元気かな」って数年ぶりに思い出してメールを送る、間を空けず「久し振り、元気だよ」って返信するのは下策も下策、あのひとがわたしを思い出した瞬間に隣にいるようでなければならず、だからわたしは毎日こうして気付かれないよう隣に潜む。


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周りのみんなが敵に思えるときがあって、それが久々に訪れて、みんな敵だと思いながらも冷静に、どうしてそう思うのかなって考える。『わたし以外の人のことを好きになってしまうなんていやだ』、そういうばかみたいな嫉妬から来てるのかなって恥ずかしいことを考える。わたしじゃない人が必要なら別にわたしはいらないんじゃない、わたしなんて1ミリも、そこに存在してないんじゃない。バカみたいだな、と思う。お箸もスプーンもフォークも使うしたまには素手でだって、ただそれだけの話だって知ってる。



「昔のほうがすきだったな」ってわたし死んでも言いたくなくて、万が一思っても言いたくなくて、だけど指先は過去を選ぶ。新しくなって打ち込みになったから、リズムが正確になってコーラスが増えたから、なにより本人がこっちが良いと思ってるから。だからわたしだって君のその選択を100パーセントで支持したい、支持したいのに昔のほうが好きだなって思うのは、単に聞きなれてるせいだと思う。


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なにかしたくてもなにもできなくて、なにものかになりたいけどなんにもなれなくて、どこかへいきたいのにどこへもいけないの、わたし100年前からきっとわかってる。だけどその事実を定期的に再認識してもがく、水面でちゃぷちゃぷ遊ぶ程度でしかないんだろうけどわたしにできることってそれくらいしかなくて、だったらもうそれを、その程度だって認識しながらでも、楽しんだ方がいいんじゃないかなって思ってる。


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『わたしはもしかしたら充分にあいされてたのかな』って過去をいいように解釈するの、自分がそれで満足するなら、どんどんやったっていいと思う。


2014年6月23日月曜日

20140623-03


ここに触ったらどうなるんだろうなって好奇心を抑えられなかったのは小学生まで、
正確に言うと、ここ舐めてみたらどうなるんだろうなって好奇心を抑えられなかったのは小学生まで。

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一人乗りのリフトは直角に曲げられたスプーンみたいな単純な形で、朱色に塗られていたはずの表面の塗装はほぼ剥げていて鉄の色をしていた。わたしのひとつ前のリフトに乗った翔子ちゃんは遥か遠く、さっきまでこちらを振り向いて大声でおしゃべりをしていたけれど、もう今は前を向き、頂上に着くのを大人しく待っている。
何度リフトに乗ったってスキー板が外れて落ちてしまうという想像を止めることはできなくて、例え落ちたとしてもこんな田舎のスキー場の緩やかなコース、板なんてすぐに取りに行けるのだけれど、それはとても屈辱的で、絶望的なことに思える。
見下ろすと、こんもり積もったままの雪にスノーモービルの跡が見える。誰かがストックやスキー板を落として係の人が取りに行く場面もこうやってリフトに乗っていて見たことがある、だとしても、小学生のわたしにもプライドはあるし、そんなふうに目立ってしまうのはわたしが意図するところではないし、だからわたしは足の金具が万が一外れて落ちないことをひたすら祈る。祈りながらも左右の板をハの字にしたり逆ハの字にしたりして、こすりあわせて雪を落とす。これ以上強くぶつけると板がぽろりととれるかもしれない、どきどきするくらいならしなきゃいいのに、どうしてもやりたくなってしまう。

気温が例え一桁であっても散々厚着をさせられているから全然寒くもなんともなくて、なんとなく退屈になり体右側だけにある手すりに腕を組むようにして寄りかかる。親指だけが別になっているタイプの手袋は分厚くてガサガサしていて、ストックだって握りにくいけどしかたがない。翔子ちゃんの後頭部をぼおっと見ていたら頭の向こうに頂上が見えて、ああ、もう3/4くらいまできたな、と思う。

急に、寄りかかっている手すりの存在が気になった。鉄としか表現できないそれは、わたしのお尻に滑車の振動を直接ガタガタと伝える。多分今とても冷たくなっているであろうそれの温度をわたしのてのひらは感じることができなくて、だからわたしは、塗装が剥げむき出しになった鉄に舌を伸ばす。


20140623-02

自分はクズだから誰かと一緒にいてはいけないと思って、わたしがそう思ってるということを知った極僅かな優しい人たちは「そんなことないよ」と口々に言って、でもわたしがなぜどうしてクズなのか一番よく知っているのはわたしだしそれは選民意識みたいな自己卑下に見えないこともないんだろうけどこの自覚は確実に過去の経験や体験に基づいたもので、要するにわたしにとっては事実、だけどそのうち好きな人には好かれたくなって、『まぁわたしはクズだけどクズだという事実を踏まえ自覚し律し続けながらクズではないような生き方をすればよいよね』とか思っていて、自分をクズだクズだと言いながら閉じこもるのは変わるつもりはないという傲慢でしかないし、つまり今のその考え、それはそれで前向きで建設的な正しいものだ、かもしれない、と、いろんないいわけをしてそう思ってしまうことを自分に許しています、最近のわたしは。

20140623-01

『人に笑えないことを言われてでも空気を壊さないように頑張って笑う』、周りの人にどう思われてもよくなったわたしには二度と訪れない状況だと思ったら違った。そういうの馬鹿らしいって思ってたしそうなっても絶対愛想笑いなんてしない、思っててもやっぱりうまくは行かないみたいだ。例えばその「わたしの笑えないこと」が、本当に1ミリの悪意もなく、初対面の人とうまく話せないわたしを和ませようとした相手の気遣いだって痛いほどわかる場合とかあって、とりあえず俯いて口角上げて、でも追従の言葉はうまく出なかった。
認めると諦めるは同義なのかなと思う瞬間がある。例えば自分と違う考えの人、差異はまぁ差異だよねって思うのは認めることでもあるけど諦めると言い換えられる場合があって、その区別はとても難しい。絶対の正解とか正義なんてないからつまり自分が心地よいのが正義で、だから見つけたその差異を「わたしが正しいと思う」ように強制しようとするのはただの思い上がりで、でも「正しいと強制」しなくても「相手がどうしてそう思っていてわたしはなぜそう思わないのか」を伝え合うのを放り投げ差異の片鱗が見えたらダッシュで逃げて人生に関わりのない人とするの、「これだけ大人になっちゃったらもう人のことは変えられないし合わないなら逃げようね」ってことで、その合わない部分を認め合ってうまくつき合える人もいるけどそうじゃない人もいて、「変える」とか「変えない」とか言ってる時点で不遜なんだけど、つまりその違いってわたしが相手を好きかどうかだけだよなって思う。
別にそんな大したことじゃなくて例えば店員さんに横柄な口をきくとかそういうこと。この人はそうだよなって単に思える人もいればそれだけで嫌いになる人もいるし「わたしはそれはあんまり好きじゃないな」って伝えようと思える人もいて、すごく単純なそういうこと。
峰なゆかさんが何かの雑誌で、セクハラされても笑ってかわすのが一番楽だしスムーズだって知ってる、だけど今は自分自身とほかの女の子のためにもちゃんと怒ることにした、みたいなことを言っていて、わたしもそうなりたいのに、まだ全然だめだ、と思った。めんどくさいことから逃げたいし、めんどくさい人はヘラヘラ笑って無難に逃げてわたしの人生から閉め出したい。それって全然優しくない、自分にもほかの同じような目に遭う人にも、でも頑張るのは磨耗するからわたしは笑ってダッシュで逃げて、それでも次はちゃんと怒れるようになりたいなって思ってる。

2014年6月7日土曜日

20140607-どうしたらおばけに対抗できるのメモ(答え出ず)

どうやったらお化けに勝てるのか
お化けっていうか幽霊なんだけど幽霊っていうと怖いからお化けって言うことにする。

 そもそもお化けって何なのとかお化けとか本当にはいないでしょとかそういうのは置いておいて、例えばホラー映画みたいな目にあったときにどうしたらよいか
多分思いついたらどんどん追記する。

<前提の前提>
心霊スポットにふざけて行ったりお墓とかをひどく扱ったりして罰が当たる的な祟りみたいなのは納得できるっていうか仕方ないよなって思う、怖い話でよく、心霊スポット遊びに行って何か持ち帰ったりとかそれはふざける人が悪いじゃん、わたしだって自分のこと馬鹿にされたら腹が立つもん。そうじゃなくて、例えば買った家に何かがついてたとかそういうのめちゃくちゃ腹立つ。人の理と人間以外ののそれは違うし、例えば地球上の土地だって人間が勝手に区分けして所有して金銭のやり取りをして、虫とか動物には悪いなって思うから家に侵入するそれらのこと、排除するしすごくイヤだけどどこかで勝手にごめんねとは思う。でも相手がお化けでそれが幽霊でつまりもとは人間だとしたら腹しか立たない。だって頑張って働いてお金貯めておうち買ったり敷金礼金貯めて引っ越しして家借りたりするじゃん。賃貸だって働き続けて家賃払って維持しているわけじゃん。なんなの。嫌なお客さんとか仕事とか頑張って耐えて堪えて生活送ってるわけじゃん。どの面下げて祟ってくるわけ? 死んだら成仏しろって感じじゃん。わたし、家に元人間の幽霊が出たらめちゃんこムカつくと思う、怖いけどムカつく。例え昔になにがここであったとしても今はわたしが!働いてお金払って契約して掃除して!ここ借りてるんですけど!!!! だから対抗して勝ちたいし勝ちたいって言うか当然の権利を行使したい。


 <前提>
(個人的に、わたしは)お化けと生者であれば生者のほうが強いと思ってる。でも、生者は物理的に破壊されたら死ぬけど、お化けはどうやったら死ぬ(?滅す?)のかわからない。
ポルターガイストなどを起こして生者への攻撃が容易だとしたらそれに対抗しても相手に物理的損傷を与えることはできなくて、 映画や小説なんかでは何らかのお祓いや儀式で除霊してるよね。

 ・悪魔祓いとかお祓いとか
キリスト教を信仰していない場合でもやって意味があるのか、悪魔って何、そのお化けや悪霊と同じ信仰を持っていないと対抗できないんじゃないの、とすると無宗教のわたしはどうしたらいいの?
でもこないだ読んだ「ただし少女はレベル99」の、断食っていうか体を清めてなんたらとかそういうのはすごく納得できたんだよね。なぜだ。相手が幽霊(=もとは人間)とかじゃなかったからかな。


・物理的障壁とか攻撃とか
 扉を叩いたり開けたりするってことは物理的に鍵をかけたり窓のない密室は閉じ込められるのか、人体を乗っ取るってことはやっぱり人間の力を借りないと物理的攻撃が難しいってこと?
人を殺そうとするときに、車をつっこませたりタンスを倒したり、そういう物理的干渉は物にできるのに直接攻撃をしてこないのは(してもアザだったり、間接的なものだったりが多い気がする)、人間に直接攻撃するのはハードルが高いの? だったらなんで鳥とか動物は即殺せるんだろう。


・てか悪魔とか神様とか幽霊って
 元が人間だったらすごく腹立つし同じ土俵にいるんだからなんなのって思うんだよね。それが神様とか妖怪とか、人間じゃないものだったらなんか仕方ないなって思う、仕方ないっていうか、こちらの理屈とか道理で対抗できなくてもそうだよねって。そういう時は確かに専門家みたいな力を頼るしかないのも道理だよなって思う。たとえるなら羆に襲われて、まああれは物理的攻撃を仕掛けてくるからこっちも物理的に対抗すればいいだけなんだけど、しかるべき力や力量がないと対抗できないじゃん銃とか、それにプラス、熊の生体をわかっていた方が戦いに有利になるでしょう? そういう感じで、それぞれに対抗できる知識と力がないと無理だよねーって思う。
(でもそれにしても、じゃあ日本の悪霊にキリスト教の神父さんが対抗できるのかとか謎が多すぎるけど。もしそれなりに同じ文脈を持つ人しか対抗できないなら、海外旅行でやってきた悪霊みたいなものに対抗するの無理じゃん。地球の裏側から来た未知の宗教上の伝説の悪魔とかが東京観光に来たついでにわたしのこと殺そうとしても対抗できないじゃん。羆なら、羆見たことなくてもライオンとかトラとか、すごく強い人間とかに対抗する術の応用が多分効きそうだけど「お前らの土地によく出てくる妖怪に対抗できる、お祓いとか聖水とか祝詞とか俺には無意味だぜ!」って言われたら無理じゃん、わたし英語話せないし。)
でももし元が人間同士なら、まあ確かに生者同士でも肉体的能力の高さで「とうてい勝てない」とか出てくるけど、死んだからって人間を超えられるかっていうと絶対そうじゃないと思うんだよね。というか死んだ方が絶対弱くなるとおもうの。だってわたしがもし死んでお化けになって、そしたら人間のときはなしえなかった圧倒的なことができるようになりましたー!って絶対無理だと思うもん、幽霊に幻想抱きすぎ、子供のころ、「大人になったら立派な大人になるんだろうなー」って思ってたのと同じくらいの幻想だと思う。だから絶対生者のほうが強いし、でもこちらは物理的損傷を受けたら死ぬのに対して相手には物理的損傷を与えられないとしたらどうやって対抗したらいいかわかんないじゃん。どうすればいいわけ?

よく、彼または彼女の未練とかをくみ取って解決してあげて成仏したりしてるけど、生者同士だって絶対分かり合えない人沢山いるしそんなの理想で幻想だと思う。だってサイコパス殺人鬼のお化けだったら無理じゃない? 分かり合うとか無理じゃない? だったら殲滅するしかないじゃん、でも物理的殲滅は無理じゃん、あーだったらいったいどうすればいいの…



20140607-00

直径100メートルくらいの円形の広間は岩場と言って良かった。それが左右に二つ、そしてその二つが50メートル程の廊下でつながれたもの、それだけがわたしたちの新居だった。
二つの広間には屋根がなかった。廊下は160センチのわたしが手を広げれば左右の壁につくくらいの幅で、すのこのような壁で挟まれていた。廊下にだけは屋根がついているが、それもまるで藤棚から藤がなくなったような頼りないもので、果たして雨が降った日にはこの新居はいったいどうなってしまうのだろう、と不安になる。
新居は大きな沼(あるいは湖、もしかすると海)に面していて、池と広間の間には壁がなく、断崖絶壁というには少し低い2メートル。80度くらいの傾斜のそれは、足を滑らせれば容易く落ちてしまいそうで怖かった。
沼は黒く濁っており何も見えず、水面には遥か向こうの高台にある大きな誰かのお屋敷の光がうっすらうつっていて、そこだけ見れば夜のディズニーランドのようで綺麗であった。
沼を背にして新居を見ると、沼ではない方向――高台に面した側――だけに壁がある。壁は白い塗り壁で高さ約2メートル、屋根がないから高台がよく見える。歪んだ円形に広がった岩場(正確には広間)を歪んだ半円状に囲んでおり、そして左右の岩場があの廊下でつながっている。
廊下と広間には階段にして3段くらいの段差があり、廊下の方が低くなっている。この、円形が二つ廊下でつながったメガネのような形は意図的に作ったものではなくただ沼に面した土地がそのような形になっていたというだけで、本当であれば、あんな狭くて段差のある、不便な廊下は作りたくなかったのかな、と設計者の気持ちになって勝手に思う。

雄の孔雀が取り巻きを引き連れわたしたちの新居を襲ってきたのは午前1時過ぎだった。前述のとおり新居には屋根がなくただ壁が(不完全な形で)あるのみで、一応玄関となる扉はありそれはきちんと施錠されていたけれど、侵入者にはなんの障害にもならない。
一応鳥なのだから、2メートルくらいの壁なぞやすやすと跳んで越せるのかもしれないと、沼を背にして向かって左側の広間で侵入した彼らと鉢合わせたわたしは思ったが、なんのことはない、彼らは踏み台を作って壁を乗り越えて侵入してきたらしい。この家は翼を持たないものにも安易に侵入される作りをしていること、つくづく家というものは密閉し得る作りであったほうが安全なのだなあと思う。
左側の広間には孔雀の目指す標的がいなかったため、彼らは廊下を走り抜け右側の通路へと急ぐ。わたしには彼らの標的が何かわかっており、そしてそれを阻止したいから、慌てて彼らの後を追う。たった3段の階段も飛び越えるには少し怖く、その上電燈もなく真っ暗な廊下内に猫が無数にゴロンと寝転がっていて、走り抜けると彼らの柔らかい腹を踏み抜いてしまいそうで、いきおいわたしのスピードは落ちる。「どいて、今すぐそこどいて、踏むよ!?」と怒鳴っても猫たちはうるさそうに顔を持ち上げこちらの様子をうかがうだけで一向にどきやしないから、わたしはすり足で器用に走り、足で邪魔な猫を廊下の左右に避ける。わたしにそんな扱いをされても眠気のなかにいる猫は一向に介せずスーっと廊下を滑るように移動させられ、また眠る。

わたしが右の広間に辿り着き孔雀に追いついた時にはもう、孔雀は標的を捕まえていた。彼はずっと、体毛のカットをわたしの飼い猫である白猫に依頼していて、でも白猫はそれを嫌がっており、痺れを切らした孔雀が今日、取り巻きを連れて新居に襲来してきたというわけだ。銀色の鋏を押し付けカットをしてくれと迫る孔雀に白猫は相変わらず迷惑そうな顔をしていたが、わたしが「もうしてあげなよ、そうしたら帰ってくれるよ」と思わず言ってしまったのを受け、「じゃあ終わったらさっさと帰ってね」と、白猫は孔雀のカットをすることを決めた。
孔雀は左足に長い靴下を穿いていた。太いストライプというよりはイタリア国旗のようなそれは、しかし色はイタリア国旗の配色ではなく、クリームがかった滑らかな水色、真ん中はこれも滑らかな卵の黄身の色、そしてこちらも滑らかな桃色だった。それは人間で言うとハイソックスよりももっと長い、ニーソやサイハイを通り越して伸ばして穿けば孔雀の顔までも覆ってしまいそうな長さで、彼はそれをたゆんとゆるませゆったりと足に穿いていた。
孔雀の左足はまるで黒猫のように、ビロードの黒毛でおおわれていた。人間のわたしが見る限り黒猫であれば通常の短毛種の程度の長さの毛だし、人様の家を襲来する程切羽詰ってカットせねばならないようには見えなかったのだけれど、孔雀にはおそらく孔雀の価値観と都合があるのだろうな、と推測した。白猫は彼の長い靴下をいったん伸ばし顔まで覆い、それからゆっくり踝まで下げた。右手に銀の鋏、左手に銀の櫛を持ち、そして孔雀のカットを始める。



2014年6月1日日曜日

じぶんメモ:5がつ本まとめ

ぴったりだったのと、全部ちゃんと(一行でも)感想書いてたので満足している。
冊数ってより今回すごくよい小説ばっか読めて本当に満足!
今までの日記読み返したら同じくらいの冊数読んでるときあるのだけれど、続き物の漫画で単に数が増えてるだけだったりしたから、今月ボリューム感があるものをたくさん読めて本当に満足。

天地明察とのぼうの城すごくおもしろかったから、もうちょっと(ゆるくないとダメだけど)時代物よみたい。光圀公は近々読みます。
あと感想にも書いたけど、十角館と探偵サイトを同時並行で読み始めて、どちらの登場人物もポウやらカーやらあだ名とHNが推理作家だったから混ざってしょうがなかったし、僕らのごはんはと100回泣くことを連続してよんだら悪性腫瘍で(だから比べてしまって申し訳なかった)中身知らずに読み始めた本が同じような内容で、ってのが多くて個人的に面白かった。どうしても、通勤中に読むのとお風呂で(きんどるで)読むのが別にあると同時並行で複数冊になるんだけど、登場人物名が推理作家なミステリを複数冊同時に読むのはもう二度と辞めようと思った。

ただでさえカタカナ名覚えられないのに、これはない。
今までやったことはないけれど、時代物のものを複数冊同時もヤバい気がする。

来月はちょっと本読むの控えてゆっくりする、でもよいシリーズやよい作家さんに出会えたので読みたい本がたくさんだよ。幸せ。