2013年4月22日月曜日

20130422-01

気を使わせぬよう、バレないように影で尽力するやさしさのようなもの、死ぬまで気付かれなかったらふてくされるようなふるまい、みっともないからしてはいけない。

******************************************

温度や空間や肌触りまでがリアルな夢を見て起きた。起きてからしばらく夢だか現実だかわからなかったのだけどよく考えたらやっぱり夢だし、夢だとわかったらその内容が、あまりにもわたしに都合がいい出来事ばかりで恥ずかしくて死にたくなった。
夢占いもいらない程度のわたしのねがい、わたしの潜在意識。全然潜在できてない。

20130422-00


嫌いな人に嫌なことをされたときと、大好きな人に嫌なことをされたとき、後者の方がかなしいし、辛い。嫌いな人と大好きな人が等しく同じ嫌なことをわたしにしてきたとしても、後者の方が、つらい。
思いやりや優しさや、「だれかのため」の行動の基準は結局自分のものさしで、たとえその物差しが自分であろうと相手を想像し「そうしようとした」思いやりには感謝をしなければならないのかもしれないけれど、それがいい加減行きすぎた。わたしの名前を借りて自分の主張を叫ぶのは、思いやりでも優しさでもない。でもここまでこなければ、わたしモヤモヤはしていたけれど、怒ることができなかった。

例えばミスチルの桜井さんに(わたしはこういうとき、しばしばミスチルの桜井さんを例えに引っ張り出す、適切な気がするからだ)、「君のために曲を作ったよ」って言われたら嬉しいかもしれないけどクラスのダサいあの子にそんなことされたらさぶいぼ立つ。憧れのあのアイドルの私物のお洋服プレゼントは嬉しいけどクラスのダサいあの子のお古はお金もらったって受け取りたくない。すごく残酷だけどそういうことで、それは事実なのだからそう思ってしまったって何にも悪くないのに、「よかれと思って」を汲もうとすると自分に負担がものすごくかかる。どこからどこまでの善意は受けるべきで、どれ以上だったら「迷惑です」って言っていいのか。「迷惑です」ということにより相手を傷付けてしまうからって我慢をするとわたしがしんどいし、どこまで我慢して、どこから拒否してもいいのか。
やんわりの拒絶が伝わらない場合、どこまで強く言ってもいいのか。
最近このことをずっと考えている。すごく、むずかしい。


たとえば「あなたのことをダシにして自己満足に浸る人が許せない」と怒ってくれるのは嬉しいとしても、わたしの名前を使ってその人たちに「XXちゃんも嫌だと言っています」と表明されるようなこと、「めんどくさいな」や「巻きこまないでほしい」という感情よりも、ショックの方が大きかった。ダシにしたってなににしたってそんなもの、自分が他者にどのように消費されるかなんて口出せないのだから実害がなければ胸糞悪くても仕方ない、でもそこに一歩踏み込んで名前をかたるのは実害でしかなく、そんなことをやっている人が自覚もなく「わたしが、わたしだけが、あなたの一番の味方だよ」って言ってることに吐きそうになった。

例えば「好き」という気持ちを一つとっても、純粋な「好き」なんて誰も定義できない。
優しいから好き、おいしいから好き、一緒にいて特になるから好き、XXしてくれるから好き、その理由を突き詰めていけばひどく自己中心的な理由になる、それは「好き」って感情がエゴイスティックなものなのだから当然で、だから誰かの「好き」を、「そんな好きはまやかしだ、僕の気持ちこそが本当の好きだ」って言うのは、(わたしも時々思ってしまうことがあるけど)言えないものなのだと思う。


******************************************

生産性のない怒るという感情はひどく無駄、怒っても何にもならないし怒ったってすっきりすらしない、だからわたし怒りたくないなって思っていたけど多分あのとき、怒ったのだと思う。でもこれを、例えば相手に、「わたしはまだ、怒っています」と伝えても意味がないから、これはきっと、泥水が沈殿するのを待つみたいに、治まるまでじっと待つべきなのだと思う。




2013年4月15日月曜日

20130415-00

ここ二日間、すごくたくさん泣いた。
来なかった未来とか果たせなかった約束とか、失われた明日とか、
それでもわたしが哀れんだりしちゃいけないものたちのことを、たくさん考えて泣いた。


すごく当たり前のことなのに、言葉にしたら泣いてしまうことがあって、
それは言葉にして再認識することによって、いろんなことを自覚するからで、
あえて言葉にしなくても、ふんわりとわたしがそう思っていたり、それを自覚していることにはかわりがないのに、
きちんと言葉にしなければならない気がしたから、思ったことを思ったときに話した。
何を言っているかわからないだろうにちゃんと聞いてくれたひとにわたしは今すごく感謝をしているし、わたしはまたここで、あのときあそこで思ったことを、思い出して再認識して、また少し泣いている。


たのしいことをたくさんした
すきなひとと手をつないで街を歩いたり、
いろんなものを食べたり見たりして、
すごく幸せだなあと思ったけど、
彼らが果たせなかったことを、いまわたしは、すきなひととしていて、
これが生きているということか、と、思ったし、
わたしはすごくしあわせだな、と思うと同時に、
なんであの子たちには、こういう時間がもっと与えられなかったのかなって、
考えても仕方がないことを考えた。


駅前からバスにのって、窓の外をぼおっと眺めていたら、
あたりまえにこういう日々が続くと思ってた、と言った女の子のことを思い出して、
正解のない、正しいともいえない、でもどうしようもない気持ちや行動や、
もしかしたら誰かの優しい行動は、誰かにとっては酷く残酷かもしれないなということや、
どういう気持ちであのとき、あの子は声をかけたのかなとか、
どういう顔で、おうちにかえっていったのかなとか、
色々思ってしまうことはあったのだけど、そんないろいろよりも、
彼女が語った「あると思っていた日々」が、わたしにとってはとてもリアルで、
例えばわたしもきっと今、無意識にそういう未来を思い描いていて、
そういうものが、って考えて、
どうしようもなくて一人で泣いた。

しあわせであればあるほど泣けてくるし、
右手が温かくて泣けてくるし、
ベンチや道路や路地や公衆電話を見ても泣けてくるし、
わたしとてもひどい顔をしていたとおもう。



わたしがこうしてすきなひとと、誰かの果たせなかったデートをして、
誰かが過ごせなかったしあわせな日々を送り、
もちろんわたしだって明日、死んでしまうかもしれないけれど、
好きな人と手をつないで歩きながら、
ああ、わたしいま、あの子ができなかったことをしているんだ、と思って泣いて、
わたし、ばかみたいなことで泣いているな、と思った。

わたしはあの子たちがしたかったこと、
思い描いていた未来、
そういうものを手に入れるかもしれない
特別じゃなくてあたりまえのこと、ごはんをたべて、ねむるような生活とか
それに罪悪感を覚えることはないけども、
これがいきているということだし、
つまりはそういうことだ。




******************************************


去年東京にいたわたしを思って、
去年東京にいたわたしが今のわたしを見たら、びっくりするかななんていうかなって想像して、
しみじみ感慨深かった。

わたし感慨深いことがここ最近毎日ある、
でもすぐ泣くやつだと思われたくないから、あんまり人前で泣くのはもうやめよう。

2013年4月12日金曜日

20130412-01

それでもわたしはわたしの経験を/踏みにじってきた尊厳を/後にした九つの住処を/庇護された24時間を/無視することは出来なくて、だからつまり君のヘルシーさはとても眩しくて目がつぶれそう、でも今までみたいに目を瞑るどころか顔面背けてシャットアウトはわたし多分もうしないと思う。
わたしの哲学はあの四文字から変わることなく揺るがなくて、でももし例えばわたしが明日死んでしまったら、わたしの哲学ときみの哲学は矛盾することなく共存する。つまりはそういう可能性だって無きにしも非ず、きみはこれを聞いて呆れそうだけど、わたしにとっては偉大な一歩だ。


******************************************


打算と計算で生きているわたしにあの子はちょっと眩しすぎる。無垢な無邪気さに傷付くとき、一番ダメージ食らうのは「無垢さに傷付いている自分を認識すること」だ。傷付くわたしが悪くて汚い、でもこんなにしんどいならばいっそ離れたほうがいいのでは、そう思った次の瞬間に邪気ゼロの笑ってしまうようなメールが来たりして、ああ、と思う。
自分の汚さや計算や甘えや感傷や期待やそういうの、全部ぶっとばしたら多分わたし、普通に「ねえねえ」って話しかけてしまう、だから多分わたしはあの子と、間違いなく友達なのだと思う。
 

******************************************

わたしが表立ってできないものがあるとすればそれはわたしが「わたし」であることのマイナスが大きいと判断したからで、例えばきみとわたしが友達であるということを前面に押し出したらきみはわたしなんかと友達でいるような人間だと判断されてしまい非常にマイナス、これは自己卑下でもなんでもなく純粋にそう思うからわたしはいろいろ鑑みるけどなんだかかくしごとのようだなとも思う。だいすきなものはだいすきとわたしは比較的叫ぶほうだけどそれでも自粛することはあってそれは前述の理由の通りなのだけど、それはいくら考えても考え直しても揺るがないからもう絶対そうなんだけど、それでも、ううん、って思うことがある。人にはいろんなスタンスがあってそれぞれの環境や性格や諸々があるから正解なんてないけれど今わたしが思うわたしの正解はこれでありほかがうらやましくなったとしても詮無いことなのだけど、ああ、って思うことはある。
ほかの子みたいに全世界に向けてきみのこと、「大好きな誇れる存在です」とわたしいえないから、閉ざされた狭い空間で虚空に向かってそれを毎日叫んでる。本当は、って思うことあるけど、自分で出した結論だし、わたしはこれが一番賢いと思うからそうなのだ。
本当はこんなこというのだって、ルール違反で賢くない行動だ。
 
******************************************


考えたいことが山ほどあってでもそれには時間と空間と騒音の排除が必要で、だからわたしはまだ全然それに向き合えていない。平坦なわたし、平坦な感情、動かない指。胃液でもいいから何か吐きたいと思うけど何も出てこない、そんなのはきっと嘘だ。


******************************************

ここのところなにかを思い出して感慨深くなることが多々ある。それは後悔などでは決してなくて、例えば数年前、どこかですれ違ったかもしれない、顔も名前も知らなかったひとと今仲良くしていることや、あの時遠くから見ていた未来にわたしが登場することや、そういう類のこと。毎日明日死んでもいいかなあと思って生きていて、正確にはそれはすっごく困るからいやなんだけど、でもまあ明日死んだとしても結構色々伝えているからいいかなとは思ってる。




 ひどくねむたくてまとまらない。おやすみなさい。

2013年4月11日木曜日

20130411-01

大事にしたいたいせつなものを、嫉妬や虚栄で守れるわけがない。
空中に吐いた呪詛の言葉はいつか自分を蝕むし、口にするたび顔面が腐る。
これは比喩じゃなくて、ほんとうのおはなし。

腐臭と崩壊に気付いていないなら、今すぐ新しい鏡をどうぞ。

*************************************

悲しくなくても泣くことがあり、たとえばわたしは今年に入って何度も泣いているけれど、それは全て悲しいや痛いが原因じゃない。
今日も今日とて感極まって泣いた、どっちの方向に極まってるのかは不明だけれど、わたしの感情を極まらせるのはいつだってだいすきなひとたちだ。

事実の当然の帰結について/耐性と二度目の登壇について/平坦なわたしと動かないキーボードについて/全ての唾棄すべき賞賛と吐いた二酸化炭素の再吸収について/白色ワセリンでぼかされた不可侵の領域について/共有、もしくは共作した世界の閉ざされた扉と比例する閉鎖性について/物理的隔たりと精神的それの相関について/それらに巡る無意味な思索について。


説諭はそのままブーメラン、切れ味の鋭さにおののいている。


ここまで読んでくれたあなたへ。
「感極まる」をグーグルで検索すると、「感極まるダスティ・ホフマンさん」という記事が出てきて、
すこしほっこりします。おためしあれ(2013/4/11 15:47現在)。


20130411-00

わたし以外の他者と関わらざるを得ないという事実は彼女が生まれた瞬間に決定、それを避けたいならわたしはあの子を生まれた瞬間に監禁・秘匿しなければならなかったしもう少し正確に言うとあの子を身籠ったという事実すら露呈してはいけなかった。あの子がこの世に産み落とされる予定だということが他人に知れた時点であの子がわたし以外の他者に傷付けられる運命は決定した。『晒せば皮膚は硬くなり精神は強固に』なぞ結果論にしか過ぎなくてあの子が1gの重量にすら耐えられないこの世で最弱の生物になったとしてもわたしあの子に傷一つつけたくなかった。わたしがあの子を孕んだことがわたしの母に知られたあの時こうなることは決定していてだからわたしの後悔も全ては詮無いことなのだけれど後悔せずにはいられない、たとえそれがあなたの不幸でもわたしはあなたのこと、死ぬまで真綿で包んでいたかった。

2013年4月9日火曜日

20130404-02

季節を意識したことわたしここ数年なかったように思う、いまいち自信がないのはここ数年の記憶がスポンとないせいで、そう告げると「いいんじゃない?」と彼女は薄く笑う。彼女には(もしかすると、大部分の人がそうかもしれないのだけど)今までの記憶がそこそこあり、そこそこというのは当然人として忘却する程度のもの(中三の時の体育教師の名前とか、昔の職場の先輩の顔とか)は忘却していて印象深いものは覚えている(高一の時の親友の名前や、前の職場の仲の良かった後輩の顔)という程度のものだけど、わたしはそれがひどく羨ましい。わたしにも28年くらいの歴史があって、そこそこ楽しくやってきたつもりなのに学校に通った記憶も友人と遊んだ記憶もなくて、それはわたしが学校に通っていなかったり友人と遊んでいなかったわけではなくただ忘れているだけで、その証拠に昔の同級生と偶然どこかで会えば声をかけられ実家には卒業アルバムもある、親しげに声をかけ思いで話をしようとする元親友の話が全くピンと来ず曖昧に笑うのも、卒業アルバムの中で知らない人たちに囲まれ楽しそうに笑う自分の写真と向き合うのにも疲れてわたしは彼女の部屋に転がり込んだ。3ヶ月前に知り合った彼女はわたしに思い出話をたくさん聞かせてくれる、同年代という彼女の話す「当時の流行」にわたしは全く共感を覚えず、例えばみんな聴いていた曲や見ていたTV、読んでいた漫画がわたしの記憶には全くなくて、それは過ごした環境の違いと言うより純粋にわたしの忘却のためで、だから彼女の思い出話はわたしにとってまるで異国のお伽噺のようだったし、彼女もそれを承知していたのでわたしと思い出を共有できなくてもただただ笑ってくれたから、わたしは時々相槌の代わりに「いいな、XXは」って呟いてしまう。「なにが?」とその都度聞かれるのでわたしも律儀にその都度「楽しそうな思い出がたくさんあって」って答えるけれど彼女は決まって薄く笑って「どっちがいいかはわからないな」って答える。彼女の言う「どっち」とは過去の記憶があるかないかでつまりはわたしと彼女のことで、彼女は自分のことを不幸だとは決して思っていなかったけれどわたしのことはわたしのことでそれもありかなって思っている部分があるみたいで、わたしは変なの、とこっそり思った。

物事は、終わってしまうと小さな箱にしまわれる。空気を抜かれ圧縮されたそれは圧縮時に細かい部分がポロポロ削れ荒くなり、おまけにその箱は一方通行、わたしは箱の鍵を持っていないからしまうと二度と取り出せなくて、かと言って圧縮→収納の流れは決定事項で手を出せないから物事が完結するたびわたしは端からそれが圧縮され閉じ込められるのを見ていることしかできなくて、多分その箱の中にはキラキラした大切なもの、友達や恋人や兄弟や両親、そういうものとの思い出もつまっているはずだけど触れられないからわたしはそれを思い出せない。箱は質量を持たなくて、せめて重さがあれば触れられなくてもその大切さを感じることが出来たのになと少し残念に思うけど、わたしはこの仕組みをどうこうすることなどはじめから出来ないので、残念に思っても仕方がない。ただ「忘れた」と思えるのはきっと救いで、「なかった」よりも桁違いに幸せなことで、そうは思うけどこれに関してわたしは「どっちがいいかな」と思う。

彼女の言う「どっちがいいかな」にわたしは「きみの方がいい」って即答するようにわたしの思う「どっちがいいかな」に多分彼女は「あなたのほうがいい」って言うと思う、だけどわたしはううん、と思う、多分これはないものねだりだ。

20130407-01

たんぽぽの花に巣を張る蜘蛛の糸は特別、ただそれだけが赤い糸を編むことができる。蜘蛛は任意の場所に巣を張るので偶然たんぽぽの花にたどり着く可能性は 低く、ましてや蜘蛛は早朝にしか巣を張らないし蜘蛛の糸を回収するのは朝露が滴る張られたばかりのそれでなければならないのでわたしたちの捜索は困難を極めた。

******************************************

わたしはひどく「正しさ」に捉えられているのだなとふと気付く。正しく・正確に・偏りなく・俯瞰で、立ち位置や重さや密度を測る。それはただひたすらに現状把握という名のいじましい行動でそんなに足を踏ん張って何に耐えてるの、と思うけど、確かに日々は激震激動両足の裏に力を入れて上下左右全てからの衝撃に耐えねばならぬから無理もない。

******************************************

無意識の刃ほど恐ろしいものはないなと思う一番の理由はその無垢さではなく傷付けられる自分自身に原因があると思ってしまうところだ。聖水に火傷を負う悪魔みたいにそれが痛いのは自分が汚いせいであるからあの子は微塵も悪くない、そう思わされるのは、酷く、つらい。




******************************************


冷静に考えて、わたしと知り合いであること/友達であること/何らかの関係性があること、が、マイナスにしかならないなと思うことがあり、それは決して卑下でも被害妄想でもなくて本当に冷静にそう判断して、つまりその場合わたしは「黙る」という選択肢を選ぶのが一番正しいのにそれでもなにかをしたくなるときがあって、それが今。

20130331-01

好きな人がいるからほかにはなんにもいらないわと思えない程度には強欲で、だからわたしはコンビニの新作プリンに手を伸ばす。肩につく程度に伸びてきた髪の毛を切るか伸ばすか二択の悩みはこの世でわたし以外にはどうでもいい性質のもの、わたしだけの切実な問題。必要条件であり十分ではないものたちを必死でかき集めて防御するけど所詮ハリボテの悲しさで君の体重10g、預けられたら倒れてしまう。



Y太先生の九想図見てきた。


何かの境目について考えるといつでも頭が混乱する。境目というのは物理的・概念的なもの両方。概念的な境目がグレーではっきり出来ないのはわかるけど物理的なそれも絶対はっきりさせられないのだと思う、例えばわたしの肉体の一番外側は皮膚だけど、毛穴から出てる汗や顔につけた化粧水や一番外側の剥がれかけた皮膚やどこまでがわたし?って考えたら物理的な境目もわからなくなる。産毛はわたしの肉体に含まれる、産毛の間に含まれた空気はわたしじゃない、産毛の間に含まれた水分はわたしじゃないけどそれが吸収されたらわたしになるの、ほら物理的なものですらこんなにもあいまいだからやっぱり頭が混乱する。
「あの子が好き」のあの子の、方言が抜けたら/趣味が変わったら/性格が変わったら/髪型が変わったら/太ったら/片腕が無くなったら/四肢がなくなったら、それでも好き?って考えて、この疑問自体が前提から間違っていることは百も承知だけどそういうことをわたしは時々考える、 九想図見てそれをぼおっと考えていた。好きな人を取り込みたいのは愛なのか、そこには相手の意思はなくてもいいのか、自己中心的過ぎる一方的な愛情は愛と呼ぶのかそれは果たして本当に相手のことを「愛している」と言えるのか、でもあんなにグチャグチャになった屍体をあんなに愛おしそうに含めるなんて愛があればこそではないのか、彼女は彼女の肉体を愛していて物理的に取り込みたかったのか、でももしそうだとすれば投げ出された四肢をバックに頭蓋を抱いていたのはなぜか、人間の象徴が頭蓋なのはどうしてだろうおそらくそこが一番表情豊かで言葉を発しものを見聞きする部分だからだと思う、でも彼女は彼女の意思を無視して彼女を殺し食んだ、つまり彼女の意思より肉体を取ったのでは。黒か白かにできない話題に白黒つけようとすること自体が誤り、全て根底から問題提起の時点で誤り、なのはわかっているけど、考える。

2013年4月4日木曜日

20130404-01

I・M・D.
(いいから・みんな・だまれ)


******************************************


わたしにはわたしだけの呪われたフレーズがある。「わたしだけの」とは「わたしだけの特別なフレーズ」という意味ではなく「わたしだけがそれをわたしに使用することを適切だと支持するようなわたしだけのフレーズ」という意味で、つまりその意味でわたしはわたしのことを、特別いいともわるいとも思っていない、客観的にどのように見られているかなぞは分からないけれど人間のクズでもなければ聖人でもない十二分にありふれた人間だということは自覚していて、でもそういうものとは全く別の次元でわたしにはわたしだけの呪われたフレーズがある。それはポップかつキャッチーな響き、でもあまりにも端的にわたし自身をあらわしているから例えばわたしがなにか分不相応な望みを抱きそうになったとき・わたし以外の世の中に絶望しそうになったとき・報われない気持ちになったとき・人をうらやみそうになったとき、に、わたしはそれを唱えて自戒する。そのポップかつキャッチーなフレーズにわたしが芯まで捕らえられていることは自明すぎて逆に埋没、だからわたしはまさか、こんな真正面度直球から、ストレートで吹っ飛ばされると思っていなかった。

拳は予想外の方向から飛んできて、でも確実にまっすぐにわたしの心中抉っていった。背後からどころか頭上から突然「ねえ」と呼びかけられて何もないはずの空を仰ぎ見た瞬間わたしの脳天どかんと直撃、涙が出ないタイプの泣き方、鼻と喉の奥がグッと詰まって苦しくて息ができなくなるような泣き方、涙をこぼしたいのにこぼしてしまえば楽になれるのに涙腺に誰かがやわらかい栓をしてしまってどうしてもそれがこぼれださない泣き方、そういう泣き方をしてわたしは、体育座りで声にならない嗚咽をあげた。

「救い」は、自分自身によってしかもたらされない。 それは多分事実で、だからわたしの問題を解決できるのはわたしだけで、絶対そうだしそうだったはずなのに突然叩きつけられた救いにわたし頭がくらくらしたし、今でも、くらくらしている。


わたしの文章は何を書いているか自分でも分からないくらい支離滅裂で、多分今日はそれがいっそうだと思うのだけど、だから誰にも伝わってほしくないし分かってほしくないしありていに言えば「ばれたくない」のだけど、でも多分わたしのよくわからない文章やいろいろ全部、多分伝わるのだろうなともなんとなく思う。だいすき、ありがとう、すごく感謝をしている。感謝すべきところではないかもしれないけど、すごく。

じぶんメモ:3がつ本まとめ

花粉症で本読めなかった。
びっくりするくらい何にも読んでいない。
そうしたらいろいろと絶不調だった、本を読まないと、人生に詰まる。