2013年11月25日月曜日

20131124-00

好きな場所には一人で行った方がいいのだと思う。好きな人と/好かれている人と/友達と/知人と、色んな人と一緒に訪れたことがあるけれど圧倒的に一人で来た記憶のほうが大きくて、多分それはこの先も変わらないのだろうと思う。


多摩動物公園に行った。


数ヶ月ぶりの多摩動物公園はすっかり紅葉で、適度に涼しい気温のせいかいつもより人が多かった。真っ先に動物園ラーメンを食べたけど、食堂にも注文待ちの列ができていた。そういえばわたしあちらには一度しか行ったことがないかもしれないと思いながら、右手の方角を見ながら左に曲がった。歩くことが目的で、道のりの途中で目に入った動物をただ見る程度の意識で反時計回りに園内を進む。猛禽類の檻の中、かなり高い位置から落ちる滝のその絶壁ギリギリの川の中に大きな鳥が二本の足を踏ん張って水流に逆らい立っていたけど、コンタクトを入れていても全てがぼやけて見えるわたしにはその鳥の種類がわからなかった。
わたしが一番好きな動物・シャモアは、動物園の一番奥にいる。花形レッサーパンダを越えたそこ、シャモアの檻は急斜面で、おまけに彼らはその斜面の遙か一番奥にいることが多く、あまり人気がないゾーンで、わたしはそこに陣取って、彼らがこちらへ降りてくるのを・もしくはお尻をこちらに向け必死に餌を食べてる彼らが振り返ってくれるのを、ジッと待つのが好きだった。
数分そこにたたずんだだけで、さっと振り返った彼と目があったのでわたしは満足して、きびすを返したら人気のなさにかまけたカップルが熱い抱擁をしてたから、足早に檻を後にした。
動物慰霊碑でお参りをしたあと出口まで歩くことに決めたのだけれど、以前までは1kmほど何もなかった遊歩道に狼とモウコノウマのゾーンが出来ていて、地響きみたいな音が聞こえて見てみたら、狼が集団で遠吠えをしていた。どういうつもりで遠吠えをしているのか気になって解説の板を見てみると、動物園では感情が高ぶったとき・もしくは同じ時間に遠吠えをする事が多いようですと書いてあり、今のこの遠吠えは何となく、時報の遠吠えのような気がした。よくよく聞いてみると遠吠えにも上手下手があり、へたくそな遠吠えを必死でしている狼を何匹かみつけることは、間違い探しのようで面白かった。わたしたちにはわからないタイミングで彼らは一斉に鳴き止んで、狭いスペースの中でバラバラに座ったり、じゃれたり、歩き回ったりし始めた。



遊びに来ているたくさんの子供連れやカップルを見ながら、恋人や友達や子供が欲しいと思う気持ちは、ひどく滑稽なことだなと思った。自分とそういう関係性になってくれる他者が欲しいと言うことなのかなとも思ったけれど、子供に関してはそうではなくて、なんていうか、存在しない存在を願うというのはふしぎだな、と思った。存在しない存在が、しかし誰かに望まれて存在し始めるとして、しかしそれは存在を始めた瞬間から一個の人間で、これについて考え続けたら頭がこんがらがるばかりだなと思い、なんだかアイスが食べたくなった。


なんにもいない草むらを指差し「ねえここ何がいるのー?」と聞いた子供に母親が「そこには、まっくらさんがいるよ」と言っていて、それを聞いた子供が恐ろしそうと言うよりはその「まっくらさん」を憎むような顔で「いやだ!」と叫び駆けだして行った。

2013年11月23日土曜日

20131123-01

ルーベンスの絵の下で眠るようにELIちゃんの絵の下で寝た。手足を(手、はいいか、足を)折り曲げないと体を横たえられないそこは一般的には床の間という場所で、なぜそんな場所で丸くなったかというとフローリングよりも畳のそこが幾分眠りやすそうに思えたからだ。50×130センチのそこに枕を持ち込んで、布団はなかったので布団カバーを頭までかぶって寝た。かぶっている布団カバーをちらっとめくり、上を見上げるとELIちゃんの絵がたしかにそこにあって、あ、ネロみたい、って思った。

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2013年11月21日木曜日

20131121-01

足を一歩踏み出すたびに自分は本当に屑だ、と自覚する。貸し出された長靴を履いても砂はどこからか入ってくる、もしかしたらわたしの足の指の股あたりからわいて出てきているのかもしれない。
踏みしめた足元からキュッと砂の鳴る音がする。グッと足を踏み込むと力が足の裏から抜けていってしまうようで疲れるばかりで、一向に前に進まない。目の前に広がる砂はサラサラしているのに長靴に進入してきたそれらは確かに粒で、海風で舞い上がり顔に頭に降り注ぐそれらも粒で、右手で 必死にフタをするビールのプラカップに入り込むそれらも粒、どこもかしこも口内さえも、今のわたしはジャリジャリしている。

屑、とまた思う。

屑が砂にまみれて砂丘を登る。足を踏み出すたび長靴がズルリと数センチ滑り落ち、その数センチが積もり積もって壁になる。登り切ったと思えども視界に広がるのは次の山で、海風は確かに強くなり潮の匂いもするけれど、海にたどり着ける気は全くしなくなっている。

2013年11月20日水曜日

20131120-にっき

downyの新譜を聞いてる。

downy、前からもちろん知っていたけれど、きちんと聞いて好きになったのはとっくに解散したあとだった。なぜかというと、あんまり好きじゃない女の子が、downyのファンだったから。なんとなく敬遠してて、でもきいたらすごく好きで、いつかの誕生日、自分へのプレゼントとして、出てたCDを全部買った。その年の誕生日プレゼントで、カセットテープももらった。
わたしのすきなバンドは、やっているときにライブをみたものもそうじゃないものも、今でも聞くバンドは休止・解散・脱退しているものばかりで、だからdownyのライブを見られるなんて、見られるかもとは思ってはいたけど思いもしなかったし(自分がチケットを手に入れられるわけがない・ライブというものに足を運べない)、だから来月だけれどもライブにいけるということに、すごくびっくりしている。
「downyのライブに行けた人生」と「downyのライブに行けなかった人生」、紙一重だし、正直多分そんなに変わらないのだと思う。変わらないのだけれど、わたしにとってはいろいろと、いろいろとものすごく違っていて、だから嬉しいは嬉しいんだけど、びっくりしているっていうほうがまだ強い。諦めてしまったというか、最初から望まないように諦めていたものが叶った感じがする。だから難しいんだけど、切望していたものが叶ってうれしいとかじゃなくて、死んでしまった人が生き返ったような、最初から望んでもいない望みが叶ったような。
あの子の脱退ライブ、 あのバンドの解散ライブ、一応解散はしていないけれど、事実上最後になってしまったあのバンドのあのライブ。物理的・時間的に行くことが不可能じゃなかった(のに行かなかった)それらについて考えるとどうしようもない気持ちになってしまうけど、そういうdownyとは全く関係のない、私のごく個人的な感情なんかが、ちょっと救われた気持ちがしている。

20131120-02

自分が絶対やらなさそうなことをやる女の子って無条件でかわいい気がする。コンビニの、いろんなお菓子が並ぶ棚からホワイトチョコやラムレーズンを選ぶ女の子、レモンティじゃなくてミルクティを選ぶ女の子、かばんにディズニーのちいさなぬいぐるみをつける女の子。それらを選ぶという行為がひどく女の子らしく感じて、日常的に目にするそれらの行為にわたしは不思議な眩しさを感じる。ネイルサロンに行ったり下地を丁寧に塗り込んだり、髪を巻いたり香水をつけたり、そういうことのほうがより「自分のしない女の子らしいこと」の気がするけれどそれらはなんだか違っていて、可愛らしいなとは思うけれど眩しくは感じないのは、直接的すぎるからなのかもしれない。


わたしは、わたしが言う「いつか~しようね」が、永遠に実行されないことを知っている。
いつか二人で写真を撮ろう、いつか温泉行きたいな、いつかあそこの中華料理屋行こう。何ひとつ実行されないまま死んでも後悔はしないと思うからそれでいいのだと思うし、そういうものだと思ってる。果たされない、約束未満の約束を、たくさん抱えていると一人になっても例えば死んじゃっても、寂しくないんだと思う。一緒に何かをしたいと思う人がいて、その人もとりあえず「うん」って頷いてくれたという事実、そういうのを両手に抱えて眠れたら、ほんの少し寂しくなくなるんだと思う。

20131120-01

息の仕方がわからなくなるときがある。鼻と口、それぞれからどれくらいずつ吸って吐いてをしていたか/一度にどれくらい吸い込みどれくらい吐くのか/肺にまで入れたという感覚はないけれど空気を飲み込むようにしなくてもいいのか/どのくらいのペースで吸って吐いてを繰り返せばいいのか。意識すればするほど呼吸は浅くなり、地上にいるのに溺れてるみたいに息ができなくて苦しくなる。「呼吸」を意識しないようにすればスムーズに息ができる、それがわかるから次から次へと浮かぶ「呼吸」に対する疑問を無理矢理封じ込めてわたしは無理矢理意識を逸らす。『昨日(すー)テレビでやってた(はー)炊き込みご飯あれすごく(すー)おいし(はー)そ(すー)うだったな(はー)、今度家(すー)でもつく(はー)ろうかな(すー、はー)』。いっそ酸欠で倒れてしまえればいいのにと思う、気絶したり眠ったりして意識がなくなれば、自然と呼吸ができる気がするから。わたしは果たして本当にちゃんと、酸素を吸って二酸化炭素を吐けてるの、わたしはちゃんと肺に空気を送り込めているの、これを24時間365日意識しないと生きていけないなんて辛すぎる、
だったらいっそ、



夜、お布団に入り眠りにつくときには呼吸のことはあまり意識しない、呼吸のことで辛くなるのは人混みにいるときだけだ。夜寝るときに気になるのは呼吸ではなくて、目の位置。瞼を閉じて真っ暗になったときどこに焦点を合わせていいかわからなくて目の奥がツンと痛くなりどうしていいかわからなくなる。瞼を閉じてもわたしの目は瞼の裏を確実に見ていて、でも瞼の裏って言っても案外大きくて、それの中心なのか端っこなのかどこを見ていれば眠りに落ちることができるのかわからなくてキョロキョロして、目の奥が痛くなって途方に暮れる。光化学スモッグで濁った都会の夜空みたいなわたしの瞼の裏をずっと眺めているのは拷問に等しく、こんなに辛いならいっそ起きてようと目をカッと開くけれどそしたら目に飛び込むは壁掛け時計の文字盤で明日の起床時間を考えるともうそこには絶望しかなく、やっぱり眠ってしまわないと死だよ、死、とか思うけど目を瞑ると瞼の裏が襲いかかってくるし、わたしの目は死ぬまで何かを目撃し続けていてどこにも休まる場所なんてなくて、そう考えていつも絶望する。こういう時も呼吸と同じで意識を逸らすことだけが唯一の問題の解決方法だとわたしは知っているから、だからわたしはまたしても、必死で意識を逸らし続ける。意識を逸らすために脳裏に浮かべる今日あった楽しかった思い出と、目の前の瞼の裏の暗闇は重なることはなく同居して、脳内の映像と目に映る映像の、再生場所って本当に違うのだなって思う。

2013年11月18日月曜日

20131118-01

こちらの世界の人は相手を殺さずに和解をするらしい、基地に帰ってきた先生のグループに見慣れない人がいたから間違って頭を撃ってしまって、でも咎められなかったからホッとした。
ていうか敵じゃないのに見慣れないってだけで殺しちゃってごめんね先生って思ったけれど(でもフード付きパーカーのフードを被った色黒の大男なんて、反射的に撃ってしまっても仕方ないと思う)、先生は足下に転がる4人の死体を無視して「久しぶり、無事で何よりだよ」ってわたしに笑いかけたから、わたしも笑顔で久しぶりって返した。
先生が言うには、注射するタイプの薬をわたしのお兄ちゃんが開発したから敵になっても殺さないでいいらしい。そういう先生の手には確かに何かが握られていたけれどどう見てもそれは杭にしか見えなくて、っていうか絶対杭、杭以外の何物でもなくて、でもそれを指摘するとめんどくさそうだったから、わたしは納得したふりをした。最後尾を守ってたお兄ちゃんがわたしに気付いて嬉しそうに手を振り、注射器(どう見ても杭)をわたしに渡してくれた。さっきの先生の説明通り、先日襲われて敵になってしまったはずのおばさん達が正気になって先生の後をついてきてた。こちらがわの絶対数アップは確かに心強いなと思ったけれど、向かってくる敵を殺さず一々薬を打つのは少し面倒だなとわたしは思った。
その注射器(ていうか杭)は木でできていて、わたしの両手の人差し指と親指でわっかを作ったくらいの太さで、一方が荒く削られていて尖っていて、尖っているけれどそれだけの太さだから刺さるわけもなく、だから木槌で尖ってないほうをコーンと打って、敵の足の裏に刺すってことだった。どう見たって杭だけれど注射器であるこれは、中にお兄ちゃんが開発した薬が仕込んであって、それが足の裏から全身に回り、ゾンビになっちゃった人たちを再び生者に戻すらしい。いたちごっこになりそうだけれど、こちらの数が相手を上回った瞬間に一気にかたをつけることができたら、確かにこの島から、敵を一匹残らず駆除(オセロの、黒を全部、白にひっくりかえすみたいに)できるのかもしれない。みんなを助けたいっていう甘ったるい理想をお兄ちゃんは叶えるために確かにこうして効果的すぎる方法を開発したわけだけれど、悪即斬とばかりに敵を見たら頭を撃てって教え込まれたわたしにとっては、みんなを救うために膨大な時間と労力をかけるよりも、とりあえず自分だけ生き残るために自分以外を殺しちゃうほうが、よっぽど簡単だし効果的に思えた。

20131118-01

ああ人間はこういう時にご利益のある壺を買ってしまうのだな、と思ってる。ご利益のある壺(100万円)はさすがに買えないけれど、ご利益のある石のネックレス(1万円)くらいなら買ってしまいそうだし、知人に「いい占い師知ってるんだけど一度見てもらったら?」って言われたら見てもらってしまいそう。

こういう時の人間の心理を分析して、例えば何か嫌なことが起こった時に、(1)その原因が不明瞭な場合(2)連続して起こる嫌なことの、その連続性に因果関係を求める場合――オカルトに傾倒してしまうのかな、と思った。
わたしの場合は(2)。全く関連しない事柄に無理矢理関連を求めてしまっている場合。頭ではそれらは全く関係ないとわかっているし、それぞれの原因と解決方法もわかっているのにそれでもだめだ。
例えば、(1)自転車が盗まれた(2)配達されてきたamazonの商品が破損していた(3)家にゴキブリが出た(4)職場でクレーマーからの電話に当たった(5)わざわざ電車に乗って向かったお店で目当ての商品だけが売り切れていた――これらの五つの項目に、因果関係を求める場合、それはオカルトに頼るしかなくなる。
(1)最近いいことがありすぎたから(2)わたしに実は今オバケが憑いているから――悪いことがこんなに立て続けに起こるんだ、って思うとすごく楽になるのだと思う。それは、目をそらしていると同義なのかなと自分では思うし、そこに因果を求めても何の解決にもならないし、問題1~5の解決方法というか対処方法はきちんとわかっているのだから冷静に普段通りの頭で一つ一つこなせばいいだけなのにそれができなくて、多分、一つ一つの出来事はものすごく小さな事柄で、それこそよくある「不幸」「不運」 程度のものなのに、それら一つ一つを解決する前に次の事柄が襲ってくるから、ボディーブローみたいにじわじわ精神が浸食されて、その結果わたしは今とても、お祓いしたいし占いに行きたい。その出来事の一つ一つ、正しい原因を言われるよりも「それは全て、あなたに取り付いている幽霊のせいです」と言われたほうが楽になるのは、ありもしない藁人形を殴るみたいな、そういう無意味なことなんだろうけど、きっと精神がどこかに、イケニエみたいに原因を捧げて、そこに振り上げた拳を振り下ろしたがっているからなのかなとも思う。


ここまでわかっていても憂鬱なものは憂鬱だし、お祓いはしたいし胸はざわざわするし、だからせめて今目の前にある問題を箇条書きにして、今できることとそうじゃないこと、明かさなきゃいけないこととやらなきゃいけないこと、本当は自分はどういう精神状態になっていたらよくて、そのためには今気分転換が必要で、だから例えばラジオを聞いてバラエティやアニメを見て小説を読んだり、そういうこと必死でしてるけどまだ全然全く落ち着かないから文章を書いている。精神回路が透明な模型になって俯瞰で見れて指でいじくれたとしたとしても、多分全然現実に反映されなくて、だから人間の感情って難しいなと思う。誰かを好きだという気持ちがコントロールできないなんてのはよく聞くしわかってるけど、何かの問題に直面した時に、賢い行動ができないのは得てして感情が邪魔をするせいで、そういうときにわたしは自分の愚かさを思い知って嫌になるのだけれど、今ものすごく、そういう感じ。なんて「賢くない」んだろうって思うんだけど、それでもコントロールできない感情があって、それはそれとしてコントロールできないものとして認識して、何とかごまかすのが賢いと思うので、だから今から食器を洗います。

2013年11月9日土曜日

20131109-02

例えば輪郭をうっすら知っていても、分かってしまっていても、それでも目の当たりにすると耐えきれないような出来事があるとすると、わたしにとってそれは、「暴力的」とでもいいようがないようなものになる。

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すきな人の作品に対して私情を挟まずそれを鑑賞するということ、昔のわたしならばできていたはずなのにどうしてもできなくなってから一年弱、でも邪念みたいなものにとらわれて素直にそれを見れなかったりしたのは最初だけで、もちろん何かのフィルタはかかりっぱなしなのだろうけれど、追っているうちにきちんと物語に入り込んでしまうということは、もうそのものが、そういうことなのだろうと思う。多分わたしは正しい鑑賞者ではないのだと思う、どうしてこうなのかなとも自分で思う。
今まではこんなことなかったのに、の、正しそうな理由を挙げることは実は簡単なのだけれど、それを差し引いたっておかしいと思うし、つまりは今のわたしは正しくないのだろうな、と思う。 思うのに、これ以外にどうしようもなくって、でもぬかるむ足元を踏みしめてちゃんと繰るには勢いづけなきゃダメで、とにかく思いつく手段を使ってわたしは今こうしてここにいるのだけれど、どうしても、わたしの口から出るすべての言葉が、間違っているとしか思えない。


立ち位置や立場や役割、どんなに優れた人でも誰かの父親母親兄弟恋人友人子供全部にはなれなくて、それをひたすら悔しいと思うときがある。わたしはここ最近ずっと、それがとても悔しいなと思うけれど、それは例えば反転して自分に当てはめたらすぐわかるしょうがないことで、でも悔しいなとは思ってしまうから、ひとりでパソコンに向かって文章を書くのです。重ねるごとに、私情というか色眼鏡が取れて純粋に見れてしまうこと、すこし怖いけど、だからこそすごいなあと思う。わたしが君の作った作品を好きだということ、明言は死ぬまでできないと思う、知られてはいるだろうけど明言はしてはいけない気がするし、しないだろうと思う。もしかしたら勘違いかもしれないけれど、なんとなく、することは適切ではないのだろうな、と思うから。でもわたしは本当に、



明日はエビをスーパーで買う。

じぶんメモ:10がつ本まとめ

そろそろ記録すらしなくなってきていて、いけない。
記録すらしないのは、家にある本か、もしくはまんが、再読。
そういうものばかりよんでいる。


20131109-01

毎日いやなことが少しずつ、でも確実に起こるけど、毎日びっくりするくらいわらってる。おとといもたのしかったし、きのうのよるもたのしかったし、毎日すごくしあわせだと思う。でもあんまりにも少しずつ、でも確実に起こるいやなことが積もり積もって重すぎて、人間はこういうとき、変なツボとかを買ってしまうのではないかな、と思っている。
扉を閉めた瞬間に聞こえる他人の笑い声とか、そういうものにビクっとするのはすごく無駄だから、早くやめたいな、と思う。

毎日すごくたのしくて、楽しくない瞬間もやまほどあってというかそういう時間のほうが一日のうちに大半なんだろうけれども一日一度は口をあけて声を出して笑えていて胸が痛い感じで「“いま”しあわせだな」と考えるから、わたしは幸せなのだと思う。幸せは瞬間のもので、「変わらない」ってことは絶対になくて、じゃあなんで変わらない幸せを享受しているように見える人たちが存在するかというとその人たちが(無意識にしろ)ものすごい努力をしているからだとわたしは思う。もしかしたら、息をする、心臓を動かす、というレベルのことをわたしが努力しなければできない人間だということだけなのかもしれないけどわたしにとってそれは血のにじむような努力で、だから今日わたしがしあわせなのは、誰かや誰かのおかげでもあるけど、わたし自身の努力の結果でもあって、でもこの努力をしなくなったら堅牢に見えるこの足元がガラガラ崩れてしまうこともわかっているから、だからきっと「しあわせだな」と思うとき、胸が痛いんだろうと思う。



すごくさむくて手がうごかないから、ちょっとだけおふとんにくるまってきます。