2014年12月27日土曜日

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しあわせなきおくで生きていけないからわたし毎日ごはんをたべる、あの子はもう夢にも出てこなくなってしまった。
なんにもならないことばかりしている、できたかさぶたをはがすようなまね。なんにもならないその行動はしかし、わたしに薄く跡として残るって知ってる。

しあわせを祈るのももう日常になって、そしてわたしの祈りと関係なくあの子はしあわせになる。かさぶたをはがし続けることはできるのに、無意味な祈りをささげ続けることができない。
いいわけをするのがうまいんじゃなくてそういうものだと認めているだけなんだけど、それはもしかしたら究極のいいわけなのかもしれないと思った。意志の力を放棄した。わたしそうなれるけど、なりたいけど、「すごくがんばる」って気がないんだ。

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51ページ読み返して泣いた、知らない人の熱に泣いた。副題読み返して泣いた、費やされた時間を思って泣いた。いろんなところでいろんなひとが、白鳥の水面下みたいに理解されないしされなくてよい苦労をしていて、そういうものを思って泣くのは多分、ほんとうは不適切なことなのだろうと思う。でもどうしたって思ってしまうし心を打つ、そしてわたしができるのは、ひっそりと水上の姿を鑑賞することだけだ。

誰かへの気持ちをその誰かに伝えることが、いちばんよいとはかぎらない。伝えられない・伝えられなくていい・伝わらなくていい・どうしたって伝わらない気持ちもあって、多分これはそういう種類のもの。ねえわたしだいすきだよほんとうに、ほんとうにだいすきなの。


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これだ、という音楽を聞けないからわたしはなんにもできない、自分のためにも誰のためにもなんにもできない。どこかにほころびがあるのかもしれない、でも繕う暇も気もないのなら、吐瀉物をなるべく然るべき場所で排泄して、なんとかやっていくしかないんだよ。




2014年12月26日金曜日

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上空にUFOを見つけたちーちゃんが上空を見上げたたままアクセルをしこたま踏むからわたしは焦る、「ぶつかる、前見て、前!」って怒鳴るわたしを無視したままでちーちゃんは上空を睨み続ける。

山奥の温泉まで数時間、東京からちーちゃんはひとりで車を運転する。わたしの運転免許はゴールド、今ではアクセルとブレーキの位置すらあやふやで、だからちーちゃんは一人で山道を運転する。その申し訳なさはあれどもやっぱり上空を見つめたままアクセルを踏むのはよくない、よくないというか危険、運転できない人が運転手に運転に対する意見をするのはマナー違反だと思ってるけどさすがにこれは注意せざるを得ない。だからわたしは声を張り上げる、「ちーちゃん、前見て、前!!」

曲がりくねった車道にはもちろんガードレールがついているけれど断崖絶壁から車を守るにはあまりに心細く、その低いガードレールに真正面から突っ込みそうになるたびわたしは助手席から手を伸ばしハンドルを切る。薄暗くなってきた夕方、車道に浮かび上がる緑色の蛍光塗料はいろんな動物の足跡で、わたしは多摩動物公園を思い出す。ちーちゃんはUFOに、わたしは蛍光塗料の足跡に。それぞれ見とれていたら命を落とすこと必至だから、わたしは注意を前方に向け、またちーちゃんを怒鳴りつける作業に戻る。

「それどころじゃないよ、UFOだよ、いつも見ているUFOじゃなくてあんなにUFOUFOしたUFOなんてなかなか見られないよユキも早く見ていますぐ!」怒鳴るちーちゃんの目線は上空から離れない。ちらっと目線をやると視界左手稜線の向こう側にザ・UFOという形の銀色の飛行物体が明滅しながらカクカク飛んでいて、わたしも少し感心する。うわーUFO、なんてまあUFOUFOしたUFOと思うも一瞬、地球外生命体より未確認飛行物体よりいまわたしが優先するべきものは自分の命、だからハンドルを切りながらちーちゃんを怒鳴る。
もうちーちゃんは車がいくら揺れてもガードレールに車体がこすれても何の反応もしなくって、わたしはUFOが早く消えてしまうことを祈る。ちーちゃんの視界を奪わないで、思わせぶりにうろちょろしないで。わたしはあなたよりこれからちーちゃんと向かうほったらかし温泉の方が大事なんですよお願いしますどっかいって、祈り続けるけどちーちゃんは相変わらず上空を見つめていて、 わたしのハンドルさばきはどんどん雑になり、車のスピードはどんどんと上がる。

20141226-01

喉元過ぎれば熱さは忘れるし火傷をしないと気付かない、いっそのこと地獄の業火に焼かれてしまえとか大げさなことを思うけど多分全然大げさじゃない。
「しねばいいのに」とすら思われない程度のことをしたあの子は今日もよく眠りご飯を食べる、「しねばいいのに」の代わりにもらった無関心な笑顔を時々忘れて悪夢も見ずに今日も生きる。



2014年12月21日日曜日

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砂が入ってスニーカーがわやになるから長靴を借りなければならない、潮風と砂のためにざらざらでごわごわになった髪の毛を櫛でとかしてはいけない。わたしはいますぐ列車に乗らなければいけない、白いマフラーを首に巻き鈍行電車に乗らなければならない。

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生まれたときから一度も世界に慣れたことなんてなかった、桜の木も真っ暗な星空も毎日目にしても毎日新鮮だった。美しいそれらの新鮮さはしかしわたしがそれに慣れていないという証左でもあって、つまりはわたしがこの世界に拒まれているという実感以外のなにものでもなかった。現実感なんて一度も感じたことがないからわたしはふわふわ浮いていたし、なのになぜここにいられたかというと呪いと温かい手のせいでしかなかった。

呪いがとけたらなにをしようなんて考えたことなかった、かけられた呪いをとくことしか頭になかった。呪いがかかったまま死ぬなんて考えられもしなかった、そうできたらなんて幸せだろうって何度も考えたけどできるわけがなかった。
ひたすら呪いをとくだけの毎日に日常が戻ってきた春、分不相応の夢を見てしまった。希望と期待とおこがましさはとてもよく似ていて、でもわたしはそれを取り違えるべきではなかったのだ。




20141026-00

時間が経てば鈍感になれるけど夢の中でだけ倒したはずの亡霊がゾンビみたいに蘇ってくるからわたしはもう安心して眠りにつくことができないんじゃないかと二年前思って、でもそのゾンビの襲来にもこの二年で慣れてしまった。

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誰が見てもかわいそうがって然るべき状況にある友人が、たいして親しくないもしくは全く知らない人たちに「わたしが抱きしめてあげたい」と言われまくっているのを見て、わたしは心の中で「誰もお前に抱きしめられたくなんてねえよ」と思う。見る人が見ればかわいそうがって然るべき立場にいるわたしはそれを全くの他人事として眺めることができない。かわいそうがって然るべき立場にいる人を憐れんで「抱きしめてあげたい」とのたまうのはさぞや気持ちがいいことだろうなと思う、わたしは無給でそんなことをやるつもりはないけど、「誰もお前に抱きしめられたくなんてねえよ」って反論するにも労力を使うからせめて物理的に距離を取って自己防衛するしかない。

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好きじゃなくなられるより好きじゃなくなるほうがさみしいと思う、 好きじゃなくなると全部うそになるみたいだ。だれかやなにかが変わってしまうよりも自分が変わってしまうほうがどうしようもなさがあってとりかえしのつかない気持ちになる。
わたしは自分自身のことすら上手にコントロールできないから、もしかするとどうしようもない、どうしようもなくくだらないもののせいで変わってしまうのかもしれないと思えてしまっておそろしいんだ。






2014年12月18日木曜日

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CERO COREというゲームは、廃墟のようなゲームセンターの奥の奥にあった。
背の高さよりも高い筐体には左右に丸く青いボタンがついており、右の二つの青いボタンはAボタンとBボタン、左のボタンは右のものよりも一回り大きく、上下左右に矢印が書いてある。十字キーの役目を果たすのだろう。
古めかしい筐体とは裏腹に、表示されているキャラクターは美しく、古屋兎丸と桂正和を足して二で割ったような繊細さだった。しかしプレイヤーであるわたしからはその女の子の後ろ姿しか見えず、ひたすら十字キー(の役割を果たす、丸い青ボタン)の上を押して前へ前へと進んでゆくのだ。

美しく繊細な女の子は街中をひたすら駆け足で進む。いろんな人にぶつかり、ぶつかった相手がアクションを起こす。よろけてそのまま通り過ぎたり、殴りかかってきたり、反応は様々だ。Bボタンを押すとジャンプ、Aボタンはゲージが溜まると必殺技が使用できるらしい。
必殺技は男の子にしか使用できないから、ぶつかった通行人のふりをして襲ってくる魔法少女に対しては使用できず難儀する。ぶつかった瞬間鬼と化す魔法少女からは逃げるしかなく、わたしは頼りない丸い青ボタンの上をぐいぐいと押し込む。

そのうちゲージが溜まり、わたしはわざと男の子とぶつかる。必殺技を利用すると、その男の子と648秒話せる。仲良く会話をするその6分48秒の間に、男の子からごく自然に銀行の暗証番号を聞く。さっき必死で逃げた魔法少女から逃げ延びる直前、魔法少女にそのように指示されたから、わたしはなんとか暗証番号を聞き出す。魔法少女に殺されないよう逃げ、魔法少女の指示通り男の子をたぶらかす。CERO COREはそういうゲームだ。



2014年12月15日月曜日

じぶんメモ:11がつ本まとめ

全然読んでないし記録すらしてないし白飯炊くことすらできなかった一か月だった。死ぬかと思った。
12月は若干復活してほしい。希望。


2014年12月9日火曜日

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田中くんは性格が悪い、らしい、美奈ちゃんもサオリも佐々木くんもそう言ってる。でもわたしは田中くんが嫌いじゃないしむしろどっちかというと好き、そう言うと皆口をそろえて「そのうちわかるよ、サイテーだよアイツ」って言う。最初は優しくおもしろい、ノートもこころよく見せてくれるし数学も教えてくれる。でもちょっと仲良くなって距離が近くなると人の悪口や愚痴がすごい、裏表もすごいし妬み嫉みもすごい、らしい。
でも別にわたしの悪口を言われていたわけではないらしいし、わたしは今のところ田中くんから悪口も愚痴も聞いたことがない、それはわたしが田中くんとまだあまり仲がよくないせいで、だったら田中くんのことを「どっちかというと好き」 でい続けるために、わたしはこれ以上田中くんと仲良くならなきゃいいだけじゃないの、と思う。美奈ちゃんもサオリも佐々木くんも実際、わたしとめちゃくちゃ仲がいいわけじゃないから、田中くん性格悪い説を聞かせられているわたしが変わらず田中くんと話していても、別に特に嫌な顔をするわけじゃないし。蝙蝠って揶揄されるほど、わたしは田中くんとも美奈ちゃんたちとも、どちらとも仲がいいわけじゃないのだ。

みんな一緒にクラスメイトになって、せーので新しい学生生活を始めたのに、教室じゃないところで勝手にそれぞれ仲良くなるから、わたしは一人取り残された気持ちになる。みんなが抜け駆けをしているような錯覚に陥るけど、それはわたしのただの被害妄想だと分かっているから顔には出さない。仲良くなって嫌いになるなら、友達未満のただのクラスメイトで、害も益もない好意を持ちつ持たれつしていた方がまし、もしこれがすっぱいぶどうだとしても。
仲良くなっていやなところがバレて田中くんみたいに嫌われる、そういうのはすごくいやだ。一度知ってしまうと知らないひとになれない、だったら最初からイメージがつかない程度の距離でいたい。いなくなっても気付かれない存在でいい、知れば知るほどみんなきっと、わたしのことすきじゃなくなるから。


20141209-01

飲んでてよっぱらって持ち帰られてベッドでいちゃいちゃしちゃって日付変わったのか変わってないのか今何時なのかわかんないまんままどろんでるときに「つきあおっか」「うん」って会話をしたり、付き合ってるような付き合ってないような微妙な状態ももう数か月だしそろそろちゃんと聞いとくかと思って「うちらって付き合ってるの?」「うん」って会話をしたり、のパターンだとおつきあい記念日とかないから(無理矢理日にちを決めるカップルもたくさんいるだろうけど)、毎月記念日をお祝いしてる人はなんか健全なカップルぽくてよいなと思った。おひるまデートして、「付き合って下さい!」「ハイ!」って会話をしていそう。健全。

ってツイッターで書こうと思ったら長すぎてだけど縮められなかったのでブログに書きました。特に他意はないただの日記です。おわり。



2014年12月7日日曜日

20141207-01

わたしはすぐ笑う、だからよく「しあわせなやつだな」と言われる。アイスがおいしくて、猫が可愛くて、雨が上がって雪が降って、わたしは毎日しあわせで笑う。
お父さんに殴られたり先輩にしめられたり先生に触られたりとかたとえばそんな話、思い出しても人に話してもなにも楽しくないから思い出さないし話さない、ただそれだけのこと、しあわせなことしか考えたくない。
娘を殴る父親と冬季限定のおいしいアイス、どちらが人生において価値があり重んじるべき存在かというと絶対後者、わたし絶対後者しか見ない、しあわせなんてピントをどこに合わせるか、ただそれだけの問題だ。




2014年12月2日火曜日

20141202-01

猫を養子に迎え入れるにあたり戸籍に乗せる本名を定めるための家族会議が始まった。まずは名字から、口火を切って母が「四月、でいいんじゃない」と言う。
「四月? なぜ」
「だってもともとはあんたたちカップルの猫じゃない、圭介君の名字をとって、四月」
母よその圭介君と別れて傷心のわたしにいったい何を言い出すの、おまけに圭介君の名字は四月(しがつ)ではなく四月一日(わたぬき)だ。
「アラ、しがつ・ついたち君かと思ってたわ」っておいおい数秒前に圭介君ってバッチリ言ってたでしょう、圭介君の本名がしがつ・ついたちけいすけ君略してけいすけ君だと思ってたのかと突っ込む時間も惜しいのでわたしは母を無視することにする。何が悲しくて別れた元彼の名字を養子にする猫につけなければならないのか。そんなこと、フッた元カノがしていたら怖すぎる。
妹は妹で命名:四月に賛成だったらしく下唇をつきだして不満げな顔をしている。わたしに似てぜんぜん可愛くない妹にはそういう仕草は全く似合わない。わたしの家族はみんな駄目だ、もうわたしが独断しなければと思った矢先存在感皆無だった父親が口を開く。
「養子になるのだから、うちの名字でいいんじゃないのか?」
一同ハッとするあたりが馬鹿だが今わたしも全く同じことを言おうとしていた、どうせ下らないことしか言わないのだから大声を出して父親の意見を遮ってしまおうとしていたことを心の中でそっと詫びる。
名字が無事決まったところで疲れてしまった私たちは寿司をとることにした。名字を決めるだけでこれだけ疲れてしまうのだから名前を決めるのはどれだけ大変なことだろう、考えるだけでぞっとするけどいいさ可愛い養子の猫のためだから、おかあさん頑張るよと心の中だけで呟きわたしは鮪の握りに手を伸ばす。寿司を食べるわたしたちを猫が恨めしそうに見ているけれど安い出前の鮪の握りより、君の食べているお魚フィレに蟹のほぐし身と小海老添え(魚介の煮込みスープ)のほうがよっぽどおいしそうだよ。

2014年12月1日月曜日

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駅から目的地まで歩いて30分、その間に美容室を13軒見かけた。どの店も適度に混んでおり、今この瞬間、この国で、一体何人が髪の毛を切られているのだろうと考える。
コインランドリーは1軒しか見かけず、その1軒のコインランドリーに4台ある乾燥機はうち1台しか動いていなかった。つまり今この町では、コインランドリーで洗濯をされている洋服の数より美容室で髪を切られている人間の方が多いのだ。



2014年11月30日日曜日

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「吉田って言えばわかる」、吉田が日本に何人いるのか知らないのかこのおじさんって思ったけどめんどくさいから黙っておいた、社長に「吉田さんがよろしくって言ってました」って言ったら「あ、そうなの、あの人にはすごくお世話になったのよ」って言われたから黙っておいて正解だと思った。
「吉田って誰なんですか」って聞こうと思ったけど社長は「お世話になったのよ」と言ったきり吉田のおじさんについての話をしなかったからわざわざ聞くほどのことでもないと思ってわたしもそれ以上聞かなかった。吉田のおじさんが、例えば『日本で吉田といえばこのオッサン』というくらいすごい偉大な人であったとしても、わたしにとって吉田のおじさんはごはんをおごってくれるおじさんという以上の意味を持たなかった。

「あ、あんなところに六本木の駐車場が見えるんだね」って言われてもわたし六本木がどこにあるかわからなかったからそう言った。「六本木がどこにあるかわからない?」
「池袋は山手線の上にあるからわかる、東京も、品川も。山手線の丸の上にある駅は位置が分かりやすいからわかる、だけど六本木は山手線の中にあるのでしょう、丸の中にある駅は、丸のなかでぐっちゃになってしまって位置関係がわからない、なぜなら丸の中にあるから」
「そうか」言っておじさんは鰻を口に運んだから多分吉田のおじさんは六本木がどこにあるかわかってるのだなと思った。つまり吉田のおじさんは東京出身なのだ。東京出身者以外で、丸の中にある駅の位置関係がわかる人間などどこにもいない。
ごはんを食べてこのあとどうするか聞かれて時計を見たら昼の1時、あれわたし思いっきり遅刻じゃん、会社って何時から出勤だっけ6時だっけいやいやそれは退社時間だ出勤は9時とか10時とか11時とか、なんにせよ昼の1時に出勤していないのは遅刻だということに間違いはないってびっくりしておじさんに「遅刻」って言ったら「そうか」って言うからお前他人事だと思ってもっと焦ってくれよって思う、でもそこでふと「あれ今日何曜日だっけ」って気付く。携帯の画面をよく見たら『11月24日(日)』って書いてあった。「(日)!」
「おじさん今日日曜日だったんだけど、わたし休みじゃん」って言いながらおじさんなんで曜日感覚ないの仕事してないのってちょっと不思議になるけどまあわたしには関係ないかってまた思った。吉田のおじさんに関してわたしが関係あることなど一つもない、曜日感覚があってもなくても、あったほうがこういう時に便利かもしれないけど携帯の画面を見たら今日が何曜日かなんてすぐにわかるし、吉田のおじさんの曜日感覚なんてわたしにとってはその程度だ。
「わたし休みじゃん」と言ってしまったけどもう鰻も食べたしこれ以上今日の日におじさんと一緒にいる道理はないから家に帰ることにした、でも「鰻も食べたしこれ以上今日の日におじさんと一緒にいる道理はないから家に帰るね」とはいくらなんでも言うべきじゃないと思ったから「家でやらなきゃいけないレポートがある」と伝えて家に帰ることにした。同居人の麻子にまでおじさんは「よろしく言っておいて、吉田って言えばわかる」と言う。わたしと同い年でおじさんと何の関係もない麻子が吉田と言うだけでおじさんの顔を思い浮かべその上ヨロシクされてああありがとうございますと反応するとは思えなかったがわたしは家に帰って素直に「吉田がよろしくって言ってた」と麻子に伝えた。「ああ、吉田さん! そうなの」と反応した麻子にわたしは驚いたけれどああそうかわたしだけなのかな吉田を知らないのは、とようやく気付いた。六本木の位置を知らないのも、今日の日まで鰻を食べたことがなかったのも、吉田のおじさんが誰か知らないのも、全部全部わたしだけなのかと理解した。
一瞬ショックだと思ったけれど六本木には東京タワーが立っていることをわたしは知っているから万が一六本木に行かなければならない状況に陥っても東京タワーを目指して歩けばいいから不自由はない。今日まで鰻を食べたことがなかったとしても今日味わったし、 吉田のおじさんの素性をしらなくても吉田のおじさんはわたしにごはんを奢ってくれる、何も不便なことはないじゃないかと思い直した。ショックは、正しく受けるべき場面で受けるべき、吉田のおじさんに関連する事柄についてわたしがショックを受けるべきことなど一つもなかった。


次はモツ鍋を食べに行く。


20141130-01

朝起きたらまぶたがぱんぱんに腫れていた、目が開かないのは眠たいからだとばかり思っていた。眠そうに眼を眇めて今日一日過ごしたら誰にもこの現状がバレないんじゃないかとも思ったけれどまぶたが見事に球体になっていてバレないわけはない。恐らく顔全体がむくんでぱんぱんになっているのだろうけどわたしはもともとパンパンな丸顔だから、顔全体のむくみに関しては自分でよくわからなかった。顔の輪郭はともかく、まぶたが、異常だ。
蜂に刺されたような自分のまぶたを見ながら報いだー、と思う。昨日お酒を飲み過ぎた報いじゃなくて、今までむくみってなんのことだかわからないと思っていた報い。雑誌を見てもテレビを見てもデパートに行っても靴屋に行っても耳にする『むくみ』をただの神経過敏だと思っていた。わたしはおおざっぱだから、万人が言うむくんだ状態になっても気付いておらず、だから自分にはむくみがないのだと思っていた。我思う故に我あり的な感じでわたしにはむくみがないのだと。違った。蜂に刺された記憶がなく一般的に言うむくんでもおかしくない状況にあることから判断するとこのまぶたの異常な腫れはむくみで、そりゃあ雑誌でもテレビでもデパートでも靴屋でもむくみについて熱く語るよなと納得した。
慌ててまぶたを冷やしたりしているけれど一向に腫れが(むくみか)引く様子がなくて、このまま一生この顔だったらどうしようとわたしはぼんやり考える。まぶたがむくんでいないわたしを知っている人は「うわ、どうしたのその顔」と言うだろうけどこれが毎日になったらそのうちまぶたがぱんぱんに腫れた状態がわたしのデフォルトと思うだろうし、今から新しく知り合う人たちにとってはこれが普通のわたしになる。まぶたがむくんでいないわたしの顔を覚えている最後の一人はわたしになるだろうかと考えたけれどもともと自分の容姿に頓着しないわたしはまぶたがむくんでいようとむくんでいまいとあまり変わらない、しかしコンタクトレンズが入れにくいから、例え容姿に頓着しなくても、むくみにはどうかお引き取り願いたい。そう思ってわたしはとりあえずまぶたを冷やし続けることにする。

2014年11月22日土曜日

じぶんメモ:10がつ本まとめ

後半しんどくてただ読書メーターをコピペするだけの記事すらかけなかった、31日にかろうじて覚えてる本をばばっと登録したけど11月はまだ6冊しか読めてないらしい、こんな月初めてなんじゃないだろうか。漫画すらよめていないなんてすごい、そりゃあ精神も肉体も病むわってかんじだし、疲れて本を読めないと本を読めないせいでさらにバランスが崩れるとか卵が先か鶏がみたいな感じだし、変な話、疲れてて眠くてお笑いのラジオしか聞けないような状態でも本は読んだ方がいいのかもしれない、でもまだ体力がないから、12月はまた小説とか読めるように回復してたい。
いま「かいふくしてたい」って書いたら「回復して隊」って変換されてちょっとたのしくなった。かわいい。わたしは回復して隊隊長になりますね。


2014年10月26日日曜日

20141026-01

ドライヤーが使えなかったから髪の毛が乾くまで起きていようと思った、左目のものもらいがどんどん大きくなっていく気がした。一緒にいられないなら好きでいてもしかたないと思った、『しかたない』で全部やめられたらいいのにと思った。喉が渇いたけどオレンジジュースしかなかった、ほしいものが冷蔵庫に用意されていることなんて多分もう一生ない。


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ゾンビと戦わなきゃいけないからわたし夢の中に散弾銃とか持ち込まないといけない、なのにたいてい丸腰だから散々にやられる。枕の下に戦車の写真でも仕込んで眠ればいいのかなって思うけど好きな人の写真を忍ばせても夢で会えたことなんて一度もないから試すことすらまだしていない。
操作が難しくて始めて数分で噛まれて死んでプレイ自体を諦めてしまったバイオハザード、今日読んだ小説にバイオハザードにはワニまで出るって書いてあった。ワニ。バイオハザードに出てくるワニはゾンビなのか生きているのかはわからなかったけど、どっちだってワニにはかわりはないし、人間のゾンビ一体でわたしすぐ死ぬのにワニまで出るなんてひどすぎる。でもとりあえずワニの近くには消火器があって、それを投げるとワニが消火器に噛みつくからその隙に銃で撃てばいいと書いてあった。だからわたしは対ワニに備えるためにも、夢の中に武器をなんとしてでも持ち込まないとならない。やっぱり無駄だとしても、銃の写真とかを枕の下に仕込んだほうがいいのかもしれない、でもうちにはプリンターがないし、イメージ検索して適当な銃の画像を表示した携帯を枕の下に敷くってのはちょっとナシだと思うし、だからわたしいま途方に暮れていて、まだ眠れていないのです。

2014年10月14日火曜日

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電車の中ではぐれてしまって必死で両手で吊革掴んだ、黙ってレールに揺られることもできないなんてことずっと前から知ってたけど、わたしはほんとうにこのままころんと車両から落っこちて、あの鷺たちみたいに固まってしまうのかなってちらりと思って、でもすぐにわたしは鷺たちみたいに美しく固まって死ぬことなんてできっこないってわかったからもう泣くことすらできなくなった。いつぞやの小説で読んだようにわたしの涙が結晶となってきれいな宝石になればいいのにそんなことも絶対おこらないし、わたしはただただここからはぐれて、どこへも辿り着けないというより正確に言うと、わたしがせかいを見放したから誰からも見放されて一人ぼっちなんだと錯覚した。

誰の手を、指を、シャツの裾を、ズボンのポケットを掴んでも、わたしがはぐれないでいられるなんてこと、最初からずっと、ありっこなかった。

わたしの寂しさや、見放されたような錯覚や、そういう被害妄想が全部被害妄想でしかないことをわたしが一番わかっているから、わかっているのにそういうことを考えてしまう自分がひどく恥ずかしかった。電車の中ではぐれるなんて、なんて最低な日なんだろう。

2014年10月12日日曜日

20141012-01

「バイクのうしろは寒いから」って言われた徒歩だって寒い夜、モコモコに着込んだわたしを見てあの子は笑った。「寒いったって限度があるでしょ」って言うあの子に「あんたが寒い寒いって脅すから」って言い返したら頭をコツンと叩かれた。着込み過ぎでモコモコで雪だるまみたい、コロコロ転がっていきそうだからちゃんとつかまっててねって言われて回したわたしの両腕はなんとかあの子のおなかでつなげる程度、あの子だってわたしに負けず劣らず厚着をしていた。
どんなに顔をあの子の背中にくっつけてもそこには冷たいコートしかない、どれだけ両腕をぎゅっとしても腕の中にはコートしかないみたい、コートをはいでマフラーを取って、洋服を一枚一枚丁寧に脱がせたら、本当にあの子がそこに残るのか不安になるような細い芯。

海みたいに幅広い川の向こうはもう違う県、びっくりするほど大きな橋をビュンビュン飛ばすのは大きなトラックばかりで、抜かされるたびに風にあおられてこわかった。「この橋を渡ったらどこにいくの?」っていうわたしの質問は風の音でかき消されてあの子の耳まで届かなかった、だからわたしはあのときわたしたちが、どこに向かっているかわからなかったんだ。


2014年10月6日月曜日

20141006-02

わたしは君のことを傷付けながら、君の幸せを祈ってる。

20141006-01

わたしの汚さはわたしが一番よく知ってる、爪の先から足の先、髪の毛の一本に至るまで漏らさず汚いんだよ、知ってる。
多分何者にも侵されない汚さ、誰のことも侵さない汚れ。

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嫌な夢を見るたびにわたしには想像力がないのかと思って絶望する、夢占いが必要ないほどの具体的な内容に絶望する。わたしのすきなひとに、わたしと一緒じゃなくていいから、幸せになってほしいとは本当に心底真摯に思っている、思っているのに多分、エゴみたいなものが残っているんだと思う。わたしの夢がバッドエンドで終わることに、自分の良心みたいなものを感じて安心する。
自分に絶望したとしても、それでも死ねないなら生きなきゃいけないから、消極的結論だとしても生きなきゃいけないから、それならそれで誰にも認められないまま、ひっそり生きてもいいんじゃないかなって今思った。 承認欲求というか褒められたい願望は多分人一倍強くて、社会的にじゃなく極個人的に褒められたら生きていけるほど切実なそれを抱えているのだけれど、例えば業と呼ばれるほど強くもなく、しないと生きていけないほどのものでもない、それでもなんとなくしたい程度のものでも平等に、存在することを許されるとするならば、それはそれでいいんじゃないかなって、今思った。


すきなひとはたくさんいる、わたしが接することによりマイナスしか生じないようなすきなひとがたくさんいる。そういう人の幸せを祈るのはただの自己満足でしかないけれど、死にたくなるほどの悪夢と引き換えに、その人たちが穏やかに暮らせないかなって、かみさまみたいなことを思ってる。

じぶんメモ:9がつ本まとめ

読書メーターにすら記録できなくなったら末期だなみたいなアレがあるんだけど、6日になるまでまとめてなかったことに気付いて絶望しています
最近短い文章を書いたから、来年くらいになったらくろかわさくらちゃんで書こうかなって思ってる、本当は続きが書きたいのに気が抜けちゃってだめだ、ちゃんと作り続ける人は続けるのにね、今よっぱらったテンションでブログをかいているので、あとで後悔するなって自覚してます

ひなまつりめちゃおもしろかった、全然関係ないけどよつばと読み返したいな
今月も読書サボってました10月もサボるつもり、おもしろいまんがとか小説があったらおしえてください


2014年9月21日日曜日

20140921-01

死んだら全て終わってしまうから死にたくないあの子と死んだら全て終わらせることができるから死んでしまいたい僕の気が合わないわけはなかった、知らない間にカレンダーがめくられ季節が過ぎて行ってしまうことにもう耐えられるはずがなかった。
回転する地球の上で足を踏ん張って一歩も動かないなんてできるわけ初めからなかった、僕たちは無為に七年を費やして正しいと提示されていたルールが正しいということの確認をした。


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たった一度の物理的接触で人生が変わることはままある、時速120キロの自動車やよく砥がれた果物ナイフ、そして君の鋭利な性器。それでもわたしの表皮が破られることはなかった、そのようにつくられた通り、わたしが他者と交わることはついぞなかった。
「だから言ったでしょう」という声を何度も聞いた、そしてこの時も例外ではなく、わたしは耳元でそれが囁かれるのを聞く。


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「逃げよう」とあの子が言うけど逃げられるはずがないことは自明だった、僕らにできるのは逃げることではなく何かを終わらせることだけだった。
選択肢を間違えたのは彼女だけれど間違いを見逃したのは僕だった、その瞬間僕らは等しく、お互いの存在について責任を負った。

2014年9月14日日曜日

20140914-02

奇跡が起こるのは一瞬、奇跡が起こる前と起こった後では世界は変わってしまうのに一瞬故それはあっという間に日常になり、一瞬故当事者はそれを認識できない。わたしがあのひとに会ったこと、さようならの瞬間、どちらももう遠くて、わたしがその細部を思い出せないのは、それが奇跡であるからだ。

20140914-01

好きな人の好きな女の子の顔を見た、写真よりもかわいくなかった。好きな人の好きな女の子よりもわたしのほうがかわいいとわたしのことを好きな男の子は言うけれど美醜は関係ないと思った、例え好きな人が好きな人の好きな女の子よりわたしをかわいいと言ってくれても何の意味もないことが遅ればせながらようやくわかった。あの人に好かれないなら何も意味がなかった、わたしにはもう意味なんて、なんにも、なかった。

2014年9月1日月曜日

じぶんメモ:8がつ本まとめ

漫画ばっか読んでた。自分でもびっくりしたんだけど、ほんとに精神的にしんどいと小説がばかすか読めるなって思った。考えなきゃいけない問題で悩んでる時じゃなくてあっこれこのまま考えても悪い方向にしか行かなくてヤバいから一旦精神を休ませよう逃げよう逃げよう!みたいなとき。
あとほんと、年々犯罪描写に弱くなっていくんだけど、女の子が暴行されるのは例え一行でももうムリになってきてしまっている。なんなんだろう。ハリウッドのスプラッタ的なのならまだよいのにな。


2014年8月31日日曜日

#絵と文章で120分(追記あり)

これをやりました。60分とか長過ぎでしょ余裕余裕って思ってたら全然時間が足りなかった、誤字とかあったらすみませんという感じだけれどめちゃ楽しかった!
うみんてぃあ先生が絵を描いてくれそうなので正座待機します。

【追記】絵描いてくれました!素敵すぎる…!!
https://twitter.com/umiumi_umi/status/505865214848667648

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自分でもバカなことをしていると思う、自覚があるからまだ多分大丈夫だと思う。
自分でもバカなことをしていると思ってる、でも多分、神社でおみくじを引いて、大吉だったら喜んで凶だったら少しショックを受けるような、その程度だったら何かを信じてもいいんじゃないかって思ってる。

19センチの白いスニーカーが持ち主をなくしてから10年経っても小奇麗なままなのは、わたしがときどき手入れをしているからというだけの単純な理由だ。似たようなわたしのスニーカーはマジックテープ式、お姉ちゃんのこのスニーカーは靴ひもでちゃんと結ぶもので、穿きにくく脱ぎにくいその靴ひもがわたしにとっては大人の象徴に見えた。羨ましがるわたしにお姉ちゃんはニヤっと笑いかけ、「あんたはまだ子供だから」って言った。なにさ、一つしか違わないくせにって思ったけれど、たしかに洋服のリボンの着脱もあまり得意じゃなかったわたしは、それを声には出さなかった。
手入れを怠っているせいでくすんだ23センチの焦げ茶のローファーを履いた自分の足元を見ながら、わたしは10年前のことを思い出す。

わたしが小1、お姉ちゃんが小2のとき、お姉ちゃんは成長するのをやめた。授業が終わって、近所の友達といつもの公園で遊ぶ約束をしていたわたしたちは急いで家にランドセルを置きに帰った。どんくさいわたしを待たずにお姉ちゃんはいつものように先に公園に急いだ。早く誰かが行かなければお気に入りの遊具を他のグループに取られてしまうけど、お姉ちゃんの活躍でわたしたちはいつもお気に入りの遊具で遊ぶことができた。だけどもその日わたしたちがお気に入りの遊具で遊ぶことは結局なかった。どんくさいわたしが支度を終えて家を出る前に、全てが終わっていた。


何度も何度も謝りに来た運転手の、顔をわたしは結局見ることがなかった。お姉ちゃんのお葬式でわたしはいろんな人に励まされて、いろんな人に同情された。だけど一番実感がないのは多分わたしで、悲しそうに泣く友達たちを映画でも見るように眺めることしかできなかった。生活が日常に戻り、ふとした瞬間――宿題でわからないことがあったり、友達と喧嘩してどうしたらいいか相談しようと思ったり――にだんだんとお姉ちゃんの不在が具現化されてきて、中学にあがるころにようやく、お姉ちゃんの死を理解できた。
お姉ちゃんのお気に入りのこの白いスニーカーは、左足だけが脱げて道路に転がっていたらしい。赤くなってしまった右足は、お姉ちゃんの服やカバンと一緒に処分されたのだと思う。
左だけになってしまったそれを、わたしはこの10年、時々押し入れから取り出して愛でていた。わたしの靴のサイズは年々大きくなるのに、お姉ちゃんのスニーカーは、19センチから一ミリも成長しなかった。


高校に入り新しくできた友達にばかみたいな噂を聞いた。「死んだ人に会う方法があるんだけど、知ってる?」とわたしに話したその子は、わたしのお姉ちゃんが10年前に死んだことを知らず、だからこそ明るいテンションでそんな話を振ってきたんだと思う。
――ある呪文を、白いA4の紙に書く。それを小さくたたみ、一週間肌身離さず持ち歩く。一週間後、その紙と使者の形見を持ち死者との思い出の場所へ、夕暮れ時に赴いて強く願う。10秒祈って目を開けると、死んだ人が目の前に立っている――

ばからしい、と思いながら、わたしはその呪文をメモし、家に帰って真っ白な紙に慎重にそれを書きつけた。持ち歩いている場面を他の人に見られたら失敗だということだったが、わたしがその妙な紙片を肌身離さず持ち歩いていることを気付く人はたまたまおらず、その『たまたま』具合に、わたしは背中を押された。一週間のち、押し入れの中からお姉ちゃんのスニーカーを取り出して、わたしはこっそり家を出た。

公園に来るのは本当に久しぶりだった。あんなに広かった公園はただの小さな広場でしかなくて、わたしたちが夢中になった遊具はただのつまらない鉄の塊に見えた。まだ4時なのに遊んでいる子供は誰一人いなくて、寂しいけれど、好都合だと思った。
スプリングのイルカに腰掛けて、わたしはお姉ちゃんのスニーカーを胸に抱くようにして持ち目をつむる。何も起こるわけはないと思う、もしかしたら何も起こってほしくないのかもしれない。だけれどももしかしたら、ひょっとするともしかしたら、と、心の片隅で思っている自分を感じる。
お姉ちゃんが目の前に現れたらなんて言おう、足のサイズも年齢も背も、とっくにお姉ちゃんを越してしまった妹を見て、お姉ちゃんはなんていうだろう。バカみたいだなと思いながらもわたしは、スニーカーを持つ両手に力を入れて、そっと目をつむった。




2014年8月30日土曜日

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全人類――正確に言うと、君以外の全人類――がロングヘアのほうが似合うよと言ってくれたけどたった一人君が「あなたのショートが見たい」というから伸ばしていた髪の毛をバッサリ切った。君のクラスにつかつか入って行って名前を呼んだとき僕のことを怪訝に見つめそれから驚愕した君の友達たちと、一ミリも表情を崩すことなく「お、どうした?」と僕に返した君の表情の落差がすごくておなかが空いた。
わたしに恋をしかけていた男子が明らかに落胆の表情を浮かべていて、僕は底意地悪い気持ちになる。

先日古着屋で衝動買いした派手なウィンドブレーカーが短すぎるショートカットによく似合う、似合うけどまるで男にしか見えないなと自覚する。自分で言うのもなんだけど男にしては端正な顔立ちの僕は君の横に並ぶととてもお似合いだと自負をする。だけども君が僕のことをそういうふうに好きになることは絶対になくて、報われることがなくても全人類からのブーイングを浴びても、僕は君の好みの髪形にし続ける。

2014年8月26日火曜日

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「しょうがないな、でもだいじょうぶだよ、ゆるしてあげる」
わたしの体を無造作に弄る両手をじっと見てたらわたしのすきな人はわたしにとってこんなに都合のいい行動をしないと気付いたから顔をあげて彼を見た、そこにはわたしのすきな人はいなくて、わたしのすきな人の皮をかぶった何かがいた。あ、あくまだ、ってわたしはすぐに気付いたけど気付かないふりをした、なんでもいいからとにかく誰かに許してもらいたかった。
目が覚めたらあくまなんていなくて、のしかかるのは湿気を吸って重たくなった布団だけだった。とにかく誰かに許してもらいたいなんて嘘でしかなかった。

わたしは生きているだけで質量と熱を持つ。生きているだけで、というよりも、生きているから酸素を吸って二酸化炭素を吐く、つまり誰かの酸素を奪っているといってもよくて、存在自体が害悪だ。だからって生きるのをやめ熱を消しても質量が一瞬で消滅することはなく、それにより発生する些事で周りの人の手を煩わせるのは一番嫌で、だからこのまま誰かの酸素を奪いながら呼吸を続けるしかなかった。
わたしが呼吸を続けることで誰かに害をなしているということを意識してしまうと上手に呼吸ができなかった、でもわたしがすべきなのも呼吸でしかなくて、だからわたしは本を読んだ。本を読みながらだと上手に息が吸えて吐けた、酸素を肺のどこまで入れて二酸化炭素をどうやって吐ききるか、本を読んでいたら考えなくても済んだ。

おなかがすいてご飯を食べるたびに自分が浅はかで気持ち悪いと思うのに、眠ることに対しての罪悪感はなくて、なんなら一生眠っていたいと思う。冬眠したら呼吸も生体反応も最小限で済むんじゃないかなと思っていて、四肢を切断したりはできない以上わたしはわたし自身の質量を自分で変えることはできなくて、しかし眠っていればもしかしたら、気配みたいなものは限りなくゼロにできるんじゃないかな、そうしたらわたしは世界の片隅に、存在を許されることはないとしても、見逃してもらえるんじゃないかな。

2014年8月25日月曜日

FEELYOUNG9月号 高野雀さん『わたしのニュータウン』

わたしが実家を出たのは高校一年生の時、だから15歳とかそのへんで、一人暮らししてからは実家になんてめったに帰らなくなったから、実家で暮らしていた時がどうだったかもうあんまり覚えていない。小学生の時はどうだったか覚えていないけれど中学生のわたしはもう間違いなく毎日家を出たくて仕方なくて、高校生になれば家を出られることは既に決定していたけれど親の金で家を出るということが癪で、だけども癪って言ったってどうしようもないからせめて、地元で一番の進学校へ行こうと思って勉強ばっかりしてた。中学の頃のわたしは本当にテレビもほとんど見なくって、SMAPってグループが誰だかわからなくて学校で肩身が狭かったりしたけど、だから余計に勉強ばっかりしてた。家を出てからの一人暮らしは快適で全然寂しくなかった、実家からそこまで離れているわけでもないのに実家に帰ることはほとんどなくて、お正月や大晦日も一人で年越しをしたりした。

中学の同級生で一緒に東京に出てきた子が、数年前実家に帰った。同じ町出身だった彼女の実家はいつの間にか隣の町に引っ越していた。別の友達は両親が今年転勤になり都道府県まで変わった。

なんだかんだあって親とは絶縁したりなんとなく戻ったり、そんな感じで今では年に一度くらい実家に帰るけど、このまま永遠に実家に帰らなくても、実家は一生なくならないとわたしどこかで思ってるって気付いた。両親は多分わたしより先に死ぬけど実家はそこにそのままずっとあると思っていて、頑張って集めた横溝や乱歩も、二度と開きたくない卒業アルバムも、実家の押し入れのどこかにある。それが日頃心の支えになることは決してないんだけど、多分根底で、支えとも言えないような、当たり前の、空気みたいなものとしてある。でも実家が絶対なくならないっていうのは間違いなく錯覚で、隣の町に引っ越してしまった友達みたいに、もしくは両親の死によって、わたしの実家だっていつかはなくなる。 友達が隣の町に引っ越したとき、隣の町なのに、ああ、あの町にはもう彼女はいないんだって、ひどく絶望的になった。わたしは今、わたしの実家もいつかなくなるということを、頭では理解できてもどうしてもうまく想像できなくて、だから彼女が隣の町に引っ越した時のさみしさを、なんとなく考えたりしている。


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(上記はフィクションです)
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みたいなことを、FEEL YOUNG 9月号、高野雀さんの『わたしのニュータウン』を読みながら思いました。次のフィーヤンが9/8くらいに出るからそれまでは本屋さんにあるのかな?
わたしはなにかの作品に対しての感想がうまく言えないんだけど、すてきな作品を読むとしばしば、作品とは直接関係のない自分自身の問題とか思い出について考え始めてしまう。高野さんの『わたしのニュータウン』も、読み終わってから、今ここに書いたようなことを考えていました。直接的な感想じゃないからだから何?って感じなんだけど、高野さんのまんがを読むとわたしはいつも、多摩川で見た夜景とか、公園に放置されたグランドピアノとかを思い出します。確実に昔そこにあって、わたしの心の中に確かにあって、でも触れない蜃気楼みたいな思い出、もしくはまぼろし。


高野さんのまんがはわたし『さよならガールフレンド』 が死ぬほど好きなのだけど、まだ販売してるみたいなので、在庫があるうちにぜひ。

20140825-01

落ち込んでいてもおなかが空くの、浅ましくみにくいいきものという感じがする。青虫みたいにレタスを食んだ、一玉を一日と半分かけて食べようと思った。
人間が、人間じゃなくて、ごみくずみたいで、それは真理なんだけど、血の通った肉袋が持つ質量や熱みたいなもの、忘れたらだめなんだと思った。質量や熱を実感したままごみくずみたいに扱うのと、それが質量や熱を持たないものだと勘違いするのには大きな違いがあって、わたしは今この期に及んでも、それらがそこには存在しないと勘違いしていたいんだなって思った。死んだら腐るのは面倒くさい、だけど多分腐るんだろうなって思うから今から面倒くさかった。
質量も熱も持っていてほしくない、35度しかないはずなのに内臓が熱くて鬱陶しいから氷を食べようと思った、先週まで散々蚊に刺されたのに昨日も今日も刺されていなくて、もしかしたらわたし今、血が通ってなかったらどうしよう?

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ガラス皿の上のチョコレートが柔らかくなるのに反比例して自分の心が固くなるのがわかった、クーラーがきいたこの部屋もゆっくりと八月に侵される。わたしもチョコレートももう、白いしみがついてしまって、完璧に元に戻ることはない。
「20時から7時まで毎日、ぐっすり眠れるお薬が欲しいです」というわたしの訴えによって先生が出してくれたそのチョコレートはすでにだらしなく歪んでもう21時、手を付けなくても地獄だし、手を付けても地獄だ。時間は刻一刻と過ぎていくから手遅れになることしかなくて、無表情のまま焦るわたしを、先生は面白そうに見つめるだけで、なにひとつ言葉をかけてくれない。

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8月中旬がいつまでたっても訪れない。
息ができないからわたし、本を読んでいました。



2014年8月9日土曜日

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蝉爆弾より潰れた甲虫を多く見た今夏だった、あらゆる歩道に甲虫がひしゃげて潰れていた。見上げた知らないマンションの屋上に祭りの提灯が見えた、わたしがあそこへ上がることは一生ない。
曇天は重そうに見えないからわたしはそっと息を吹きかける、雲が動く気配は全くないけどそんなこと本当は最初からわかってた。

炎天下の街並みを眺めながら満員電車で人圧に耐えてるときと夜家でお酒を飲んで多幸感に包まれてるとき、どっちのときに浮かぶ考えがほんとうなのかは自分で決めるべきものなのかなと思う、だったらわたしは後者を選ぶ。『僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない』みたいなこと本気で思う、例え刹那的にでもそれが何度もあるのなら、『みんな死んでしまえばよいのに』というわたしとそれは矛盾することなく存在し、そしてどちらかというと前者が本当の気持ちだって決めた。

2014年8月8日金曜日

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蚊の細い腹がわたしの血液で小さく膨らみそしてそれがゆっくり消化されるのを想像する午前1時は憂鬱さでひたひたしていて、起床時間まであと5時間ってカウントダウンしちゃったからわたしもう救われない。家に50本強ある某エールビールをマンゴージュースで割って飲んでいるからビール好きに怒られる、口角を上げられないならせめて、眉間に皺が寄らないように最善の努力をすべきだし、している。
今日は日中蜂蜜をかけたチーズが食べたかった。
 
自分の行動に愛を感じるたびに自分のことをクズだなと思う、得体がしれなくてぞっとする。羽田空港の展望デッキには強い風が吹いていて、潮を含んでいるせいかわたしの髪はあっという間にべとべとになる。

エスカレーターを歩いて上がった、誰もいないから怒られなかった。


午前5時にまた起きて自分のからだを確かめてみると、左手中指の付け根/右足の中指/右の脇の下(脇の下!)を蚊に刺されていたことが分かった。夏の夜、暑さにかまけて布団から四肢を出して眠ると幽霊が現れそれを引っ張ると小さいころ漫画で読んだけれど、わたしはまだ幽霊に引っ張られたことがないから、幽霊に引っ張られるのと蚊に刺されるのとどっちがいいのかはわからない。どちらも睡眠を妨げられるという意味では最悪に違いないと思う。


例えばわたしはさっきスーパーで買った、蒸し鶏とクラゲの和え物の上に乗せられた輪切りの鷹の爪の適切な摂取方法を知らない、 ので、フードパックの蓋裏にそれを載せるのです。



人気のない野原なんて近くにないから、わたしは東京のど真ん中で蛇のやうなあそびをするのです。

2014年8月2日土曜日

20140802-02

壊れた狂ったガタガタうるせえなあお前が生まれてこのかた世界が壊れても狂ってもいなかったことなんてないんだってば、壊れたものがあるとすればお前の視界にかかってたおめでたいフィルターくらいじゃねえのかいい加減悲劇のヒロインぶってないで見ろよ足元を、世界が壊れてようが狂ってようがお前が今それを踏みつけ潰し殺してそこに立ってるってことは変わらないんだから認めろよせめてそれは、世界が壊れただの狂っただの世界のせいにしてるんじゃねえよお前の所業をよ、僕のせいじゃない世界が悪いんですとかなんとか言っても実行したのはお前だろ被害者ぶるのもいい加減にしろよ、
という感じです。


わたしが使役できるのは自分の心の一部まで、一部までだから思ってもいない謝罪とかが心の全部/心底からできない、 これは改善の余地ありだと思う。自分の心を自由に動かせないからうまいこといかない、自分の心を自由に動かせた上でうまくいかないのは考えが浅はかだということだけど、自分の心を自由に動かせないからそもそもわたしの考えが浅はかで愚かなのか、それとも考えは正解に限りなく近いが実現能力がないだけなのかわたしはいまだに測りかねている。
わたしが使役できるのは自分の心の一部まで、だから他人をどうこう動かそうと思うのは愚、変えようと思うのはさらに愚。わたしが使役できるのは自分の心の一部までなのだから誤魔化すなり塗り替えるなり覆い隠すなり麻痺させるなり色々な手を使って自分を適用させてやっていくしかないしそれが唯一の最短の最善策なのです、つめたいコーラがのみたい。

20140802-01

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すき

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2014年8月1日金曜日

じぶんメモ:7がつ本まとめ

宣言通り全然よまなかった! けど冊数があるのはまんがのせいだ。
おもしろいまんがたくさんよんでおもしろかった、大人になってお金を稼いで
よかったなって思う瞬間のひとつに、読みたい本が買える、というのがある。
8月もあんまり読まないでちゃんとやることやるつもり。でもまんがは読みたい。


2014年7月29日火曜日

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ランコムが今秋出す新しいマスカラは『鱗』がテーマだった。

上睫毛にはエクステをしているので、わたしは下睫毛でマスカラを試すことにする。左目尻の睫毛にそっとブラシを当てると、まるで砂鉄が磁石にくっつくように黒い鱗が集まってきて短い睫毛を覆い、わたしの睫毛はすぐに三倍の太さになった。漆黒の鱗はシャンプーやトリートメントのCMで見たことがあるような髪の毛のキューティクル、あれに非常によく似ていた。
これはあれだ、いわゆる「ひじき」というやつだ、いただけないなと思いながらマスカラを左目尻から左目頭に滑らせるがもう不自然に太くなることもなく長さだけが出て全体が綺麗に伸びる。おおさすがランコムきれいに伸びる、それにしても確かに最初に液をしごくのを忘れていたとはいえ左目尻の下睫毛は失敗にもほどがあるだろうと思いつつリムーバーを含ませた綿棒で拭うけど一向に取れないどころか鱗は段々と増大する。キューティクルのようなそれはその一枚一枚を肉眼で確認できる程度に大きく太く成長し、強力なウォータープルーフすら容易に落とせるこのアイメイクリムーバーでも対抗することは難しそうだった。わたしは諦め右下睫毛にとりかかる、今度は目尻から目頭まで綺麗に塗れる。
そうしている間にも左目尻の一本を覆う鱗は自身が生きているかのように増殖を続け、今ではもう数ミリの太さになっている。

2014年7月26日土曜日

20140723-01

スネアの音が銃声みたいに響いた瞬間わたしたち蜂の巣になった、安いチューハイの缶が音を立ててつぶれた。両手で頭を掻き毟って死ぬしかなかった、なのに口角が勝手に上がった。
静寂に耳が痛かった、再開までのタイミングを計ろうとするけど残響で耳が痛かった。

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ライブを見るときわたしはいつも、それがどんなにすばらしいものでも、早く終われと思ってしまう。今この瞬間は現実なのか確かめるために右手で頬をつねりながら、この瞬間が永遠に続けばいいのにとも確かに思いはするのだけれど、その反面早く終われとも思っている。
永遠に続く時間なんてなくていつかは全て終わってしまう、「さようなら」を言うのも聞くのも嫌なように何かのエンディングを見るのが嫌だ。だから早く、唐突にぶった切られるように終わって、もしかしたら終わってしまったのはわたしのほうで、それはそのまま永遠に今この瞬間もこの後もずっと続いているんじゃないかって勘違いを一生していたい。物足りないくらいで終わってほしい、もしかしたら終わったと思っているのはわたしだけで、実はみんなずっと続いていて、みんなずっと生きているって思いたい。

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明転、隣の女が真顔でスマホに「超サイコー!」 って打ち込んでいた。そうだね、超サイコーだったね、って思った。

2014年7月24日木曜日

20140724-02

正しいひとと一緒にいると流される程度の自我だからもう正しいひとと一緒にいるのをやめた、流されることをやめられないから接するのをやめた。どこから見ても完璧に正しいひとたちのその正しさをわたしがうまくなぞれるのは昼間だけで、数ミリでも模倣できたという事実も数ミリしか模倣できなかったという事実もどちらもつらいものでしかなくて、正しさなんて人の数だけあるし正しくなくてもしあわせになんてなれるのに、正しくなさの上に成り立っていて毎日崩れそうなわたしのしあわせが間違っているように思えてしまう、だから正しい人にふれるのをやめた。

わたしのまわりにはわたしみたいな人が多くて、だから自分のことを少数派だとは思ってなくて、それどころかもしかしたら世の中の人はみんなこんな感じなのかなって思うことが増えて、だけどどこかの誰かが言う生きてる上での常識・人間としての常識にどうしてもうなずけないことがある。そういうときにふと我に返るみたいに、そうだ、わたしは正しくなかったんだったって思い出す。
自分は少数派かもしれないと思った瞬間からずっと、『地球上での少数派は絶対数としては果てしなく多数、だから自分は特別だと思ってはいけない』って思いがすごく強くて、そのせいかちょっと油断をすると、もしかしたら本当はみんなじぶんと同じなんじゃないかと錯覚してしまう。

「生きてたらおなかがすくよ」「ねむたくなるよ」と同列で語られる常識は真理で正しい。そう思えないならわたしは生物として間違ってるのかなと思う、多分間違ってる。

20140724-01

毎日一世一代の告白をしている。君と出会えてよかった、君のこと好きになれてしあわせ、当たり前に君がぼくの隣にいるのが死にたくなるほどうれしい、世界でいちばん可愛いひとが今ここにいるのって奇跡。

思いつく限りの言葉を尽くして毎日毎日告白してるとあっこれじゃあクリスマスや誕生日、なにか特別な日にかける言葉がなくなってしまうからちょっとは出し惜しんだほうがいいのかな、とも思う。
一昨日買った、来月君に渡すはずのメッセージカードに書かれるのはもう何でもない日に音声で伝えてしまった言葉になるはず、まだ誰も、ぼく自身も君に伝えたことのない言葉で君のこと好きだって言いたいから日々生まれる好きの言葉の中からよさそうなフレーズはとっておいて貯めてここぞという時に使うべきなんじゃないのって思う。思うけど、ぼくだって明日死ぬかもしれないし、死ななくたって朝起きたら君のことを好きじゃなくなっているかもしれないし、だからやっぱり浮かんだ言葉はなるべく早く、余さず全部伝えることにする。

2014年7月22日火曜日

20140722-01

いま、あ、いま、いますぐ、って思うことがあって、しかしそういう時にはそれが即座に叶えられることはなくて、でも寝て起きて次の日になったらあーあの衝動的な欲求が叶えられなくてよかったなって思うことが今のところ100パーセントだから多分それでいいんだとは思う、思うけど、あ、いま、いますぐ、って思うたびにそういう後々の後悔とか安堵とか忘れてそれを渇望するからどうしようもない。


エメラルドグリーンのギターが欲しいなってここ一億年ずっと思ってる、だけどギターを弾くたびに、6本も弦があるのは多すぎると思う。わたしはやっぱり低音がすき、4弦が好き。



コノスルのゲヴュルツトラミネールが美味しすぎてごくごく飲んじゃう、こんなにおいしいのに一本800円くらいなんだよ、良心的過ぎる。白ワイン飲むたびに銀座でおねえさまがたが白ワインに氷をいくつか落として飲んでたのを思い出す。よくわからないまんま真似してたけど、今でもなんとなくやりたくなる。
いま家にはよなよなが3箱、いちごのチューハイが1箱あって、これだけあればお酒には不自由しないよなそりゃって思ってたんだけど、ワインと八海山と柚子酒一升瓶とウイスキーとへんなレモンのリキュールとかカシスとかもあるし、絶対わたしだけでは飲み切れないし、冷蔵庫にはウォッシュチーズときのこのガーリックソテー、戸棚にはミモレットとパルミジャーノがあるから、皆の者、自由にやれい、って感じです。


今年はしたいことができてる、文章を書くあいまの気分転換に文章を書いてる。人生は自己満足だなってすごく思う、わたしはしあわせだよ。



2014年7月21日月曜日

20140721-01

世界が狂っているって気付いたのは大きな前進だと思った、だけどそう確信したのはほんの一瞬で、狂っていない世界なんて生まれてこのかた一度も見たことがないと思い出した。その他大勢に分類されるわたしに彼がいつも同じエピソードを同じ言葉で語るのは至極自然で、しかしいつも同じ文句ばかり聞いているから、わたしじゃなくて彼こそが、プログラミングされたNPCなんじゃないかって錯覚を覚えてしまう。



7月21日は何か特別な日だった気がする、だけども何も思い出せないからわたしの勘違いなんだと思う。
7月誕生日の人がたくさんいて、毎日おめでとうと言っている気がする。

手をつなげない人に手を差し伸べるのは間違っているってわかっているけどそうしたくなる衝動があって、その衝動を適切にコントロールできて初めて賢い人になれるんだと思う。賢いというのは世間一般や君に対してだけじゃなく、自分自分に対して賢いってこと。



果物ナイフを洗うときはいつも、誤ってそれを手首に突き刺すことを想像する。突き刺すだけではなく、誤って誤って誤りまくって手首から先を切り落としてしまうところも想像する。どんな想像であっても想像である以上恐らく現実より幾許か楽観的で、だから想像の中でわたしは痛みを麻痺のためにほとんど感じず、でも流れ出る体液と比例して命が削られていくのを感じる。
誤って誤って誤りまくった程度で死ぬのって奇跡だなって思う、そこまで誤ること自体奇跡で、でもわたしは平凡な人間、だからわたしが奇跡を起こすことは、恐らく一生起こらない。

2014年7月20日日曜日

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自殺でも他殺でも事故でも死んだ後に他人の餌になるなんて本当にごめんだからわたしは絶対ひっそり死にたい。存在しない出生の秘密や現代社会の闇や受けた記憶のないいじめや虐待、地震やハリケーンを起こせる軍事装置や裏社会を全世界規模で司る秘密結社の陰謀、そういうもののネタにされるのなんて死んでもごめんなのに死んだことをネタにされるんならもうわたし死んじゃってるしどうしようもない。
この目で見たものしか信じちゃいけないのなら地球がどこまでも丸いってことや空から見たら青いってこと、各種外国どころか沖縄の存在もわたし疑わなくちゃいけなくて、でもそんな極端な話じゃなくても自分の中で信用に足りない人が言っている話だったら半分疑って聞いてもいいんじゃないのって思うし、信用に足る人が言っていることだってその人に悪意がなくても人間だもの間違うことはあって、誰かが言っているからって何にも考えずに100%信じちゃうのはなんかちょっと違うんじゃないのって思う。思うけど多分そういう人たちって考えたくないから100%信じるんだと思う、信じてた方が楽だし盲目的に死ねた方が幸福だ、でもだからってその幸福のためにわたしの生き死にまで餌にされるのはやっぱりまっぴらごめんで、だからわたしはひっそり死にたい。

2014年7月19日土曜日

20140719-02

君が何について悩んでいるのか僕には全然わからないし僕と君は他人なので僕には君の気持ちがわからない、例えば毎日手をつないでキスをしていても君の気持ちなんてわからない。君の仕事を肩代わりすることもできないししないしそれと同様君のストレスを僕が請け負うことも不可能、不可能だし別にしてほしいとも思ってないよね? だけど僕は君のことが好きだし僕がしてほしいこと全部君にしてあげたいと思う、「してあげたい」ってのがおこがましく聞こえるかもしれないけどしたいと思う。僕がされて嬉しいことは僕がして嬉しいことと君に関しては同義、してあげるからし返してねってことじゃなくてただただしたいだけ、だから僕は君に出オチの愛をやろう。



わたしのことはわたしが大切にするからべつに君に大切にしてもらわなくていいよ、君のことはわたしがちゃんと大切にするから、生きることだけに注力したらいいよ。

20140719-01

わたしの家から那覇空港へ行く道の途中には泡沫公園という公園があって、地図で見るたびに「ほうまつこうえん」と口に出して言う癖がつくほど気になる存在だった。井草駅前を通る大きな幹線道路沿いのその地図の右下、『この先』という意味の矢印についている「泡沫公園」という四文字を、わたしは井草に越してきてからここ一年、ずっと飽きずに見ている。

井草から京急蒲田を通り那覇空港へ、電車ではなく自転車を選んだのはお姉ちゃんだった。
飛行機の時間が決まっているのに行ったこともないかなり長距離の道のりを自転車でなんてばかげている、ばかげているけどわたしはお姉ちゃんに逆らうことができないように成長してしまっているし、お姉ちゃんは一度言い出したら聞かない人で、だからわたしは荷物をリュックに詰め、ママチャリのカギを用意する。
とは言ってもお姉ちゃんが空港への交通手段として自転車を採用したのは当日の朝で、つまりわたしは想定していたよりもずっと早く家を出なければならず、飛行機が降り立った向こう、東京で久々の恋人に会うのにすっぴんで家を出ることになった。だからせめてリュックにいつも使っている化粧品を、持っていくつもりじゃなかったベースからアイシャドーまで手当たり次第に全部詰めることにした。詰めている間もおねえちゃんはイライラしながらわたしを見ていて、プレッシャーのせいでマスカラやアイライナーがわたしの右手からぽろぽろ落ちる。

空港近く、大きな幹線道路と幹線道路に挟まれた三角州のような場所に泡沫公園はあった。わたしたちの自転車はかなりのスピードを出していたから、わたしはそれを横目でチラリとしか見ることができなかったけれど、その三角形の狭い土地にはわたしの胸くらいまである小麦のような植物が青々と茂っていて、公園というよりただの放置された空き地だった。
「ねえお姉ちゃん見た? 泡沫公園、本当に泡沫だった!!」
「なに?」
「ほうまつこうえん!」
「あっそ」
お姉ちゃんが全然興味を示さないのは泡沫公園の泡沫さ故なのか、わたしのせいで出発時刻が遅れ飛行機の搭乗まで時間がないせいかわからなかった。『泡沫公園っていう公園があるんだけど本当に泡沫だったの』、恋人に会ったら第一声でそう報告することを決め、わたしは空港まで残り15キロ、ひたすら自転車のペダルを漕ぐ。

2014年7月18日金曜日

20140718-02

何かの遊具の頭だけ、古いマンションの隙間から飛び出て見えた。多分あれはフリーフォール、観覧車じゃないからいまいち決まらないと思った。
山の中からぽつんと顔を出す観覧車、あれを見たのは確かあのひとの家から帰る電車の中で、最寄りの遊園地が違うってのはもう、遠距離だし別世界だ。


わるい夢なんて一つも見ない、死んだほうがましだって毎日思ってる。なのに日記をつけると毎日しあわせそうな自分しかいない、あのひともあのひとの記憶も全部失われてしまったとするならば、わたしにはわるいことなんて何一つ起こらない。


吊り広告や新聞を読んでいる人を見ると、その凶暴な紙が眼球をすぱっと切り裂くところを想像する。瞼を閉じるのが間に合わなくて眼球、切れ味がよくとも鋭くないその傷はおそらくあとからあとからじくじく痛む。
怖いからわたし、電車ではずっと目をつむっている。そうすると瞼で眼球は守られ、フリーフォールも観覧車も見えない。

20140718-01

「媚びるくらいなら死んだ方がまし」って思いながら死ぬのが子供で、「死んだ方がまし」って思いながら媚びるのが大人なんだと思った。

2014年7月14日月曜日

20140714-01

びっくりするくらい憎めると思った、まるで憎む対象を得るために行動しているみたいだと思った。冷静というか冷徹になれる相手に対してのほうが自分の感情や行動をコントロールできる、それってものすごく残酷だなと思った。
そうやって冷静に自分をコントロールして行きつく先が安定供給される憎しみなら、なんてひどい生産装置なのだろう。例えそれが効率的で優秀な燃料だとしても、燃やしてできる結晶なんて屑にしかならなくて、それでもいいから燃やしたいというなら、なんて愚かなのだろう。
憎める対象は非常に限られている、限られているけど限られた条件の中で無限に広がっているから、少なくもなく多くもない。でも例えば触角にちょこっと触れたその存在を捕えて憎むまで離さないのは、愚かとしか言いようがない行為、人に害なす自慰行為だ。

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電話がとてもきらい、一方的に家に押しかけられてピンポン連打されてでも扉を開けないと不義理、そんな感じがしてすごく苦手。プライベートでわたしが出られる電話は宅配業者か家族くらいで、つまり用件がすぐ終わる相手、もしくは「ごめん今ちょっと無理」ですぐ切れる相手。

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最近自分のとげとげしさに嫌気がさしていたのだけど、10年来の友達が会話の流れで(会話と言ってもメールだ)わたしにはほんわかしたイメージしかないって言ってくれて文字通り飛び上がって喜んだ。10年もつきあっているのにどうしてこのひとはわたしがいらちだということを知らないのだろうという捉え方もあるのかもしれないけれど、わたしはこのひとのまえでは、いつもほんわかしているのだなって思って嬉しくなった。例えば人間にはいろんな面があって、全ての側面を見せられるのがいい関係だとは思えなくて、わたしにいらちな側面があったとして、それを一生出さずに生きていけるならそのほうがいいわけで、だからほんとうはわたし、この子に見せているわたしで一生生きていければいいのにな、と思う。

2014年7月11日金曜日

20140711-01

「普通はこうですよね」って責められるのわたしすごく嫌い、普通ってなんだよって思う。そういうこと言うやつに限って『自分は人とちょっと違う特別な存在、独特の価値観を持っている変わり者』とか普段思ってたりするから余計に笑える。おいどうしたいつものお前は、社会のレールに飲み込まれない異端なお前はどこ行ったんだよ? 今わたしに普通を訳知り顔で説いてるお前は誰だよ、何を『ぼくはこの世の大多数の人間を全て味方につけてますよ』みたいな顔してんだよ、って思う。そしてそういう人が言う「普通」はたいてい全然「普通」じゃなくてただの私見でしかないから、よーしわかった今からわたしが全国民にアンケート行脚に出てやろう、統計とってお前の考えとわたしの考えどっちが多数派か具体的数字をもとに勝負しようぜみたいなことも思う。思うけど、そんなのめんどくさすぎるから、とりあえず能面でちょっと黙って、それから口角上げていなして逃げる。

わたしが「普通は~」って口にすることは(多分)あんまりないはず、無意識で口にしちゃうってことは皆無なはず、なぜなら自分が言われたらイヤだし、世の中にはたくさんの人間や文化があって、「普通」ってラベルをつけて誰かに押し付けられるようなものごとって多分ひとつもこの世にはないから。どういうときわたしが「普通は~」って言うかというと、相手が「普通は~」って攻撃してきたときか、いつもわたしのことをそういう風に攻撃するひとに攻撃し返すとき。エッ同じ土俵に立って争うのって自分でも思うけど仕方ない、こういうとき、別に金持ちになりたいわけじゃないけど金持ちケンカせずって言葉を思い出しては納得する、金持ちっていうか賢い人は、生産性のない争いなんてしないと思う。


20140708-01

君が好きだと告白するのはもしかすると無抵抗な人間に暴力を振るうようなものなのじゃないのかと思った、わたし今日一日君のこと考えてたって音にする前にそう思ったから口を噤んだ。君のこと考えてたとか好きだとか会いたいとか伝えるのは暴力だし、わたしは君に暴力をふるうべきじゃないと思った。
言わずにいられないなんてのはわたしの都合でしかないから、それを振りかざすのはつまり自分の快楽のために暴力を振るうのと同義で、だからそんなことわたしはするべきじゃないしちゃだめだと思った、思ったんだけどわたしやっぱり君のことがすごく好きで、気持ち悪いだろうけどすごく好きで、だから君が何をしていても応援しているし、でも勝手なことをいうならば、わたしやっぱりもう一度、君が歌うところが見たい。


好きなものはなくならない、ただ増えるだけだ。

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今すぐ家に帰りたいと思って、一人になりたいじゃなくて家に帰りたいと思って、それはなんてすごいことなんだろうと思った。

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まさか一人で歌った三日後に朝顔をライブで聞くと思わなかった、学祭みたいで笑った。

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一日か二日早いだろうという自分の予想はしかしまぎれもなく当たっていてさすがわたしだ。


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一方的な謝罪は自己満足でしかない、というか求められていない謝罪は自己満足でしかない。自己満足をこれ以上しないことを自分に誓ったから、だからせめて電車の中でだけ泣いてもいいかなって甘えた。過去を引きずって泣いて、無関係にわたしの甘えを許してくれる人がありがたくてまた泣いて、それから現実に対峙して笑った。現実に対峙すると、過去を引きずって泣く時間すらないんだと思った、それがとても愉快だったから、笑いながら家に帰った。家に着くころには涙はすっかり乾いていたし目だって赤くなかったはず、下まつげのマスカラと一緒に感傷もきれいに消え去ったから、フィルムタイプのマスカラはすごいなと思った。



わたしが死んでもいいから幸せになってほしいひとがたった一人だけいて、別にわたしが死のうが生きようがその人はちゃんと幸せになるだろうなってわかってたけどどうしてもそう思ってしまう人がいて、そのひとがしたいことをして、好きな人といっしょにいて、ちゃんと笑っているのを見たから、すごくうれしくて泣いた。泣けないときはどうやったって泣けないのに、泣けちゃうときは、嬉しくても悲しくても、箸が転がってもわたし泣く。





わたしが死んでもいいから幸せになってほしいひと、一緒に幸せになりたいから死ぬわけにはいかないひと。 自分のことばかみたいだなとおもう、多分明日には気持ちが変わって不機嫌になっているかもしれない、だけど今はなんとなくしあわせだなって思うし、あんまり死にたいなっておもわないよ。

2014年7月7日月曜日

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ひとのこと言えないけど後ろばっかりふりむくのはいやだなと思ってた、しがみついてはないんだろうけど過去の裾握って離せないようでいやだなって思ってた。あのころはよかったなっていうか、あのころ楽しかったなっていう時間きっとわたしにもあって、わたしも反芻ばっかりしてるけど、でも反芻ばっかりしているひとを見るのはいやだなって思った。前に進んでほしいとか偉そうなこと思ってないけど後ろを振り向くのはやめてほしいなと思った、多分過ぎ去った過去みたいなもの、記憶の水面みたいなもの、誰かがそっと撫でるならわたしも追従してしまう。自分だって一人で愛でているくせに、誰かが過去を愛でるのは見たくなかった。だからその集大成みたいなものも見たくなかったし、懐かしんだり同窓会をしたり、そういうもの見ずにはいられないけど、本当はすごく、いやだと思った。


多分そう思ってたのはわたしだけで、そうっていうのがどうかっていうと失われたものを表面だけ模倣して愛でるみたいな行為、そういう行為をするのかなしたいのかなって思ってたのはわたしだけでふたを開けてみたら多分全然違うんだと思う、垣間見えたら一瞬でわかった。未来のことはわからないけど過去と現在は間違いなく地続きで、失われた過去は捨ててしまわなくても、掘り起こして養分にして十分今につながるんだと思った。取り戻せないものを懐かしんで愛でてる人なんてそこには一人だっていなくて、わたしが失ったと思っていたもの、みんなが失ったもの、過ぎた時間、そういうものは全部、今足元で土台になっているんだと思った。
恥ずかしいはずの勘違いに気付いたら恥じるよりも先に嬉しくなってしまったから笑ってる。誰かが前を向いているのに感化されたり励まされるなんてばかみたい、許された気持ちになるのもばかみたい。してしまったことや後悔を全部、養分にして吸収すること、許されたって思ってないけど、いまは例えば昨日や去年や五年前と地続き、地続きってことは確実に違う世界で、冷酷すぎるその事実に泣き笑いみたいなかおをしてる。そしてこの日記は多分、もう一日か二日先の未来に書かれるべきものだって思ってる。

2014年7月6日日曜日

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「なんでまだあの子諦めないんだろう」って声死ぬほど聞いた、それこそ人が死ぬくらい聞いた。「あの子」には婉曲にでもわたしが示唆されることはなくて、それはただ単にわたしがそれを望んでいるということを誰一人として知らなかったからだ。だからこそその声は私に届き、愚かな人への憐れみを吐き出す窓口にわたしはなり続ける。
死ぬほど欲しいからだよ、死んでも欲しいからだよそれが、欲しないと生きていけないからだよそんなの。何を思ってもわたしは何も言わず、でも追従もできなくて、ただ曖昧に笑う。
死ぬほど欲しくもなくて、死んでも欲しいとも思えなくて、でもやっぱり欲しいから死ねない。死んだようにでもわたしがいま生きているのは、そのためには生きられないとしても、それをまだ、欲しているからだ。

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自覚はいつも恐らく過剰、自意識が過剰なんじゃなく防衛本能が過剰、過剰の理由は過去の経験、だから思い上がりじゃなくて臆病なだけだ。ひどく愚かだってことにはどちらにしたって変わりはない、だけど鈍感でいると人は死ぬ。
その誰かのフィジカルな性別によらず、例えば誰かに異性としての好意や目線、そういうものを向けられて反射的に嫌悪感を抱かない相手、そういうものはたった一人だ。気持ち悪い記憶は全部抜け落ちているけれどふとした時に浮かび上がる上澄みみたいなもの、浮かび上がった瞬間にわたし全部潰そうと思う。

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あーひどくつらいなと思うことがあって、あーでもそりゃそうだよなそうなるよねって同時に思った。面と向かってわたしにひどいことを言う人はいなくて、だからひどいことを言われたくて面識のない人たちに責めてもらう行為は、マゾっぽいけど中庸に、少しでも中庸に近づくための行為だと思った。わたしが直接触るのは、わたしのやわらかい部分に触れないように気を付けてくれる優しい人たちだけで、だから知らない人や知り合いの知り合いにやわらかい部分に泥を塗られると、ああそうだったここにあるこれ、ここが自分の、自分で触りたくなくて認めたくない、存在さえ許可したくない部分だったんだって思う。


インターネットが発達して、ほしいものがわりあい手軽に手に入れられるようになった。音楽も映画もクリック一回で手に入る、物だってそう。だからそれが手に入らなくなるとひどく焦る、永遠に失われたような錯覚を覚える。錯覚じゃないほんものの、自明の喪失だってわたしはどこかでクリック一回で取り戻せると思ってて、だからそれが絶対に無理ってわかったとき少し混乱する。混乱して、どうしてわたしはあのとききちんと、失うことを自覚しなかったんだろうと思う。
わたしが目をそらしている間に手の中から消え去ったものたち。わたしはちゃんと目を見開いて、それが失われる瞬間を見届けなければいけなかった。

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晴海埠頭に行った。

教えてもらったバスに乗って30分くらい、到着した建物には見覚えがあった。こうもりを初めて見たのはここだったなって思い出した。スーパーに並んでいそうな魚がいるかみたいに飛び上がるのが、おもしろかったからずっと見た。首を美しく歪曲させて水面距離ゼロから水中に突入する水鳥が、いつまでも上がってこないから心配になった。真っ暗な水面に銀色のラメが散らされて、目を凝らしたら小魚の群れがいて、今あそこに網を突っ込んだら、たいそう大漁になりそうだと思った。
少女が閉じ込められて、殺戮と虐殺のあいまに文明を作っていく本を読んだ。装丁はラノベ、レーベルと作者のイメージはちょっとしたホラー、読んでみたら壮大なSFだった。さっきまで聞いてた曲をはなうたで歌ったけどしっくりこなくて朝顔を聞く。熊谷でこれを聞いてこっそり泣いたことをいつも思い出すけど、わたしの記憶がなんだか間違っている気もする。

たとえ望んでも、ただ単にお金や命をかけても、どうがんばっても叶えられないことはあるよなって思う。一人、というか一人だけの努力じゃどうしようもないこと。それはたとえば世界平和みたいなものから始まって、だいすきなあの人に一生わたしのこと好きでいてもらいたいとかそういうこと。死んだ人にもう一度会いたいとか自分がしたひどいことをなかったことにしてほしいとかそういうこと。CDの音源でなくこれをもう一度聞きたいなとか、そういうこと。
垣根の向こうの広場で、たくさんの人がバーベキューをしていた。バーベキューのにおいはいいなと思った、胸がいっぱいになるから嗅いでいても全然おなかが空かないにおいは幸せの象徴みたいだ。小雨が降ったから傘を差さずにパーカーのフードをかぶった。人がいないから満足するだけわたしも歌って、それから歩いて東京駅まで帰った。


今日、祖母の十七回忌だった。誕生日は覚えているのに、命日は全然覚えられない。



2014年7月2日水曜日

じぶんメモ:6がつ本まとめ

弱虫ペダル全巻(34巻まで)ボックスが届いたので7月はそれ読もうと思ってます。10巻以上続く漫画も数作しか持ってないわたしは30巻超えのまんがを買うのは初めてでどきどきした、おすすめしてくれた友達とスカイプしながらこっそりポチったのですが全く後悔してないので勢いって大事だなと思いました。
7月は本を読むペースをちょっと落として時間取りたいなと思ってる。


今、5がつのまとめが「じぶんメモ」じゃなくて「ぶんメモ」になってるのにきづいたけどめんどくさいからそのままにしておくね…

20140702-02

ドラムだったらハイハット、ベースだったら高音でうねるところ、分かりやすい部分しか聞き取れないくせに全力ですきなひとのパートに耳を傾けるのは浅ましい気がするからやめたい。
ギターとボーカルのことは好きになったことがないからよくわからない、前面に出ていたら耳を澄ませることはなくなるのかな。


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「ねえ、ずっと一緒にいたいから結婚しよう」
「このままいちばんそばにいて」
「わたしの恋人でいてくれる?」
「やっぱり引っ越すのやめようよ」
「たまには遊びにいってもいい?」
「友達でいいから仲良くしよう」
「声が聞きたいから電話したい」
「返信いらないからメールしていい?」
「ちょっとでもいいからすきでいて」
「君のことまだすきでいていい?」


「わたし、まだ生きててもいい?」


「いいよ」が聞きたくて何度も訊いた、ついに最後まで聞けなかった。


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いつもなら最長で3、4日しか放置しない生ゴミの、そのにおいにさえ辟易してるのに白骨化するまで死体を放置なんて考えるだけで頭が痛い。腐乱臭はしばしば甘いと表現されて、でもあんなもの嘘だと思う。罪の甘美に溺れたりしなければ腐乱臭なんて悪臭でしかない。罪には甘美なんてない、一人で行う完全犯罪には、甘美なんて余計なものは含まれていない。

20140702-01

海にいきたいなって思いながら毎日満員電車に乗ってる、直通で海まで行くなんて信じられないからそんなの絶対嘘だと思う。わたしの地球は平日絶対全部陸地になってるはず、だから平日はわたし、海までたどり着けないんだと思う。

2014年6月30日月曜日

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わたしELIちゃんがなにか曲を投稿してるのは知ってたんだけど、家のパソコン音出せなくってずっと聞けなくて、最近「あっイヤホンをつなげばいいんだ」って当たり前のことに気付いてそれがさっきで、そしたらすごいキラーチューンが投稿されてたからいま夜更かししてる。

https://soundcloud.com/eli-y-1/you


わたしが文章に書くのは基本的には嘘か、なにかの感想か、夢とか、とにかく現実に起こったことではなくて、なんだけどELIちゃんのつくった何かに触れたときはこうやって文章書いているなって思った。いっこまえの日記で、夜の底にぶつかったときに思い出すひとのはなしをしたけど、まああれもぜんぶ嘘で残らず本当で紛うことなき偽物なんだけど、ELIちゃんのつくるものはぜんぶ、多摩川河川敷で見た神奈川県の光とか、羽田空港から飛び立つ飛行機の航行灯とか、一人で風邪で寝込んでいたら届いたリゾットとか、そういうものを思い出して正直つらい、つらいんだけどばかみたいにいとおしくて泣きたくなる。自分の幼さとか変わってしまった姿とか、もう思い出せないすきだったひとのかおとかそういうもの、いつのまにかなくなった白いカーディガンとか運動靴とか、目の粗いマフラーとか髪飾りとか、そういうものが洪水みたいに溢れて、つらくて、いとおしくなる。
多分、わたしにとっての多摩川や航空灯やカーディガン、誰かにとってのそういうものに、きっと姿かたちを変えて、いろんな人のもとに届いているのだろうなと思う。自分のためのものじゃないのにふたりぼっちみたいに思える、こういう感想を抱くときわたしはいつも、ひどく傲慢だなって思うし、なんだか自分のためだけにそれをわがままに消費しているみたいですごく申し訳ない気持ちになる、なるんだけど、思っちゃうんだからしょうがないよねって甘えたことを思ってる。

この世でたったふたりぼっちな気持ちになるのは、ひどく心細くて、なんて安心できるんだろう。

2014年6月29日日曜日

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全然羽根木公園に行けてないからあそこは果たして実在したのかなって思ってる、グランドピアノとたくさんの遊具、みんなでカレーを作って遊んだり、あれが本当のことだったのか、もうわたしよくわからない。行きたい行きたいって言いながらもう10年近くたって、あのとき遊んだ小学生も多分いまはかなり大きくなっているだろう。秘密基地みたいな小屋の屋根に登る子供やたくさんのボールとか、ああいうの全部、本当にあったものなのか、わたしもう今は確信が持てない。



「あのね、わたし、君とどこそこへ行ったって言うのものすごく覚えているの、馬の銅像見たなとか、外人墓地の近くを通って、そのときわたしは助手席を倒して眠っていてでも日の出が見えてまぶしかったとか、空港の近くのどこかでひたすら海と飛行機の明かりを見たなとか、そういう、すごい観光スポットじゃない、ただの道端みたいな記憶、でもねたとえばディズニーランドとか海ほたるとか、そういうところに誰かと行った記憶、結構な観光スポットなんだけど誰と行ったか全然思い出せないの、それって心底本当に、どうでもいい人と行ったってことだよね」って言ったら「そうだね」って返ってきたからほっとした。なんてことない道端の記憶が残っているのはとても不思議、でもすごく残ってる。好きだよって言ってくれるのに絶対付き合ってはくれなかったわたしの好きな人に彼女ができて、その彼女と早々に別れてすぐさま次の彼女ができて、それを知ってもういやだ帰りたいと思って、でもここまで好きな人の車に乗せられて来たし駅も遠いし一人でなんて帰れないと思ったときに連れ出してくれたこと、人にからかわれても全部無視して一緒に逃げてくれたこととか、そういうの全部覚えていて、住宅街の細い道を歩きながら撮影スポットを探したなとか、わたしは車止めのコンクリートの上を飛び石みたいに歩いたなとか、そういうの全部覚えていて、わたしはただでさえ記憶力がないんだけど変な事ばかり覚えているなとか、そういうの、多分、どうでもよくないから覚えているんだなって思って、だから「そうだね」って返してくれて、わたしも「そうなんだな」って思った。



例えばわたしにできることは何にもなくて、僅かな経験から得た知識とか、そういうものをつらつら話すしかできなくて、でもそれだって専門家じゃないし正しくないから君のためになるかはわからなくて、つまりはやっぱりわたしにできることは何もない、だけど毎日ご飯を食べてちゃんと眠って、健康的に過ごしてほしいなって思ってるし、でも幾らわたしが切実にそう思ったって何にもできないことには変わりがなくて、だからそう思っていることは、口にしないようにする。



例えばわたしたちの性別が違うとして、相手に抱いているのが恋愛感情じゃない場合、そういうときに一番近くで寄り添うってのはなんだか違う気がして、本当は違ってないのかもしれないけれどわたしたちの場合はなんだか違う気がして、すごく大切に思っているとか心配しているとかそういうのを表すのはわたしたち自身にも周りにも誤解を生む気がするから黙ってる、自分でも説明しづらい気持ちだなと思う。わたしにはいつも好きな人がいて、それは絶対君じゃない誰かだ。
わたしはわたしでうまくやるし、君は君でうまくやるんだと思う。人生の伴侶みたいなものでもないし、同性の友達でもないから、もっと若かったら同性の友達と変わらず付き合っていたけどもう大人だから色々考えたりして、その結果適度な距離感を持ってわたしたちは付き合うんだけど、 夜の底に突き当たって沈黙に耳が痛くなった時には、生クリームの入ったメロンパンをわたしは思い出すんだろう。何もできないししないけど、健やかに生きてほしいなとかそういうこと、わたしは滑稽なほど切実に思ってる。

20140629-01

どんなに頼れる恋人が傍らにいても、吊革に掴まらず彼の腕に縋りつき、ヒールをカツカツ鳴らしてふらつき回るような、そんな女にはなりたくないと思った。電車の揺れを全身で受け、彼の腕を支点にそれを足下に逃す、そうすると、自分がどれだけ恋人に頼っているか、恋人にも周囲の人にも目に見えてわかる、でもそれは、ひどくみっともなく見えた。そういう生き方はしたくないと思った。


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わたしには哲学があって、それまで哲学というものは、思考から発生するのだと思っていた。確かにそれに間違いはないのだけれど、わたしのこの哲学は、思考というより、欲望から発生している気がする。自分がしたことされたこと、して後悔したことやされて嬉しかったこと、そういうものを突き詰めてわたしは哲学を作り上げ、そしてそれを実行している。

2014年6月24日火曜日

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彼が「あのこ元気かな」って数年ぶりに思い出してメールを送る、間を空けず「久し振り、元気だよ」って返信するのは下策も下策、あのひとがわたしを思い出した瞬間に隣にいるようでなければならず、だからわたしは毎日こうして気付かれないよう隣に潜む。


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周りのみんなが敵に思えるときがあって、それが久々に訪れて、みんな敵だと思いながらも冷静に、どうしてそう思うのかなって考える。『わたし以外の人のことを好きになってしまうなんていやだ』、そういうばかみたいな嫉妬から来てるのかなって恥ずかしいことを考える。わたしじゃない人が必要なら別にわたしはいらないんじゃない、わたしなんて1ミリも、そこに存在してないんじゃない。バカみたいだな、と思う。お箸もスプーンもフォークも使うしたまには素手でだって、ただそれだけの話だって知ってる。



「昔のほうがすきだったな」ってわたし死んでも言いたくなくて、万が一思っても言いたくなくて、だけど指先は過去を選ぶ。新しくなって打ち込みになったから、リズムが正確になってコーラスが増えたから、なにより本人がこっちが良いと思ってるから。だからわたしだって君のその選択を100パーセントで支持したい、支持したいのに昔のほうが好きだなって思うのは、単に聞きなれてるせいだと思う。


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なにかしたくてもなにもできなくて、なにものかになりたいけどなんにもなれなくて、どこかへいきたいのにどこへもいけないの、わたし100年前からきっとわかってる。だけどその事実を定期的に再認識してもがく、水面でちゃぷちゃぷ遊ぶ程度でしかないんだろうけどわたしにできることってそれくらいしかなくて、だったらもうそれを、その程度だって認識しながらでも、楽しんだ方がいいんじゃないかなって思ってる。


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『わたしはもしかしたら充分にあいされてたのかな』って過去をいいように解釈するの、自分がそれで満足するなら、どんどんやったっていいと思う。


2014年6月23日月曜日

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ここに触ったらどうなるんだろうなって好奇心を抑えられなかったのは小学生まで、
正確に言うと、ここ舐めてみたらどうなるんだろうなって好奇心を抑えられなかったのは小学生まで。

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一人乗りのリフトは直角に曲げられたスプーンみたいな単純な形で、朱色に塗られていたはずの表面の塗装はほぼ剥げていて鉄の色をしていた。わたしのひとつ前のリフトに乗った翔子ちゃんは遥か遠く、さっきまでこちらを振り向いて大声でおしゃべりをしていたけれど、もう今は前を向き、頂上に着くのを大人しく待っている。
何度リフトに乗ったってスキー板が外れて落ちてしまうという想像を止めることはできなくて、例え落ちたとしてもこんな田舎のスキー場の緩やかなコース、板なんてすぐに取りに行けるのだけれど、それはとても屈辱的で、絶望的なことに思える。
見下ろすと、こんもり積もったままの雪にスノーモービルの跡が見える。誰かがストックやスキー板を落として係の人が取りに行く場面もこうやってリフトに乗っていて見たことがある、だとしても、小学生のわたしにもプライドはあるし、そんなふうに目立ってしまうのはわたしが意図するところではないし、だからわたしは足の金具が万が一外れて落ちないことをひたすら祈る。祈りながらも左右の板をハの字にしたり逆ハの字にしたりして、こすりあわせて雪を落とす。これ以上強くぶつけると板がぽろりととれるかもしれない、どきどきするくらいならしなきゃいいのに、どうしてもやりたくなってしまう。

気温が例え一桁であっても散々厚着をさせられているから全然寒くもなんともなくて、なんとなく退屈になり体右側だけにある手すりに腕を組むようにして寄りかかる。親指だけが別になっているタイプの手袋は分厚くてガサガサしていて、ストックだって握りにくいけどしかたがない。翔子ちゃんの後頭部をぼおっと見ていたら頭の向こうに頂上が見えて、ああ、もう3/4くらいまできたな、と思う。

急に、寄りかかっている手すりの存在が気になった。鉄としか表現できないそれは、わたしのお尻に滑車の振動を直接ガタガタと伝える。多分今とても冷たくなっているであろうそれの温度をわたしのてのひらは感じることができなくて、だからわたしは、塗装が剥げむき出しになった鉄に舌を伸ばす。


20140623-02

自分はクズだから誰かと一緒にいてはいけないと思って、わたしがそう思ってるということを知った極僅かな優しい人たちは「そんなことないよ」と口々に言って、でもわたしがなぜどうしてクズなのか一番よく知っているのはわたしだしそれは選民意識みたいな自己卑下に見えないこともないんだろうけどこの自覚は確実に過去の経験や体験に基づいたもので、要するにわたしにとっては事実、だけどそのうち好きな人には好かれたくなって、『まぁわたしはクズだけどクズだという事実を踏まえ自覚し律し続けながらクズではないような生き方をすればよいよね』とか思っていて、自分をクズだクズだと言いながら閉じこもるのは変わるつもりはないという傲慢でしかないし、つまり今のその考え、それはそれで前向きで建設的な正しいものだ、かもしれない、と、いろんないいわけをしてそう思ってしまうことを自分に許しています、最近のわたしは。

20140623-01

『人に笑えないことを言われてでも空気を壊さないように頑張って笑う』、周りの人にどう思われてもよくなったわたしには二度と訪れない状況だと思ったら違った。そういうの馬鹿らしいって思ってたしそうなっても絶対愛想笑いなんてしない、思っててもやっぱりうまくは行かないみたいだ。例えばその「わたしの笑えないこと」が、本当に1ミリの悪意もなく、初対面の人とうまく話せないわたしを和ませようとした相手の気遣いだって痛いほどわかる場合とかあって、とりあえず俯いて口角上げて、でも追従の言葉はうまく出なかった。
認めると諦めるは同義なのかなと思う瞬間がある。例えば自分と違う考えの人、差異はまぁ差異だよねって思うのは認めることでもあるけど諦めると言い換えられる場合があって、その区別はとても難しい。絶対の正解とか正義なんてないからつまり自分が心地よいのが正義で、だから見つけたその差異を「わたしが正しいと思う」ように強制しようとするのはただの思い上がりで、でも「正しいと強制」しなくても「相手がどうしてそう思っていてわたしはなぜそう思わないのか」を伝え合うのを放り投げ差異の片鱗が見えたらダッシュで逃げて人生に関わりのない人とするの、「これだけ大人になっちゃったらもう人のことは変えられないし合わないなら逃げようね」ってことで、その合わない部分を認め合ってうまくつき合える人もいるけどそうじゃない人もいて、「変える」とか「変えない」とか言ってる時点で不遜なんだけど、つまりその違いってわたしが相手を好きかどうかだけだよなって思う。
別にそんな大したことじゃなくて例えば店員さんに横柄な口をきくとかそういうこと。この人はそうだよなって単に思える人もいればそれだけで嫌いになる人もいるし「わたしはそれはあんまり好きじゃないな」って伝えようと思える人もいて、すごく単純なそういうこと。
峰なゆかさんが何かの雑誌で、セクハラされても笑ってかわすのが一番楽だしスムーズだって知ってる、だけど今は自分自身とほかの女の子のためにもちゃんと怒ることにした、みたいなことを言っていて、わたしもそうなりたいのに、まだ全然だめだ、と思った。めんどくさいことから逃げたいし、めんどくさい人はヘラヘラ笑って無難に逃げてわたしの人生から閉め出したい。それって全然優しくない、自分にもほかの同じような目に遭う人にも、でも頑張るのは磨耗するからわたしは笑ってダッシュで逃げて、それでも次はちゃんと怒れるようになりたいなって思ってる。

2014年6月7日土曜日

20140607-どうしたらおばけに対抗できるのメモ(答え出ず)

どうやったらお化けに勝てるのか
お化けっていうか幽霊なんだけど幽霊っていうと怖いからお化けって言うことにする。

 そもそもお化けって何なのとかお化けとか本当にはいないでしょとかそういうのは置いておいて、例えばホラー映画みたいな目にあったときにどうしたらよいか
多分思いついたらどんどん追記する。

<前提の前提>
心霊スポットにふざけて行ったりお墓とかをひどく扱ったりして罰が当たる的な祟りみたいなのは納得できるっていうか仕方ないよなって思う、怖い話でよく、心霊スポット遊びに行って何か持ち帰ったりとかそれはふざける人が悪いじゃん、わたしだって自分のこと馬鹿にされたら腹が立つもん。そうじゃなくて、例えば買った家に何かがついてたとかそういうのめちゃくちゃ腹立つ。人の理と人間以外ののそれは違うし、例えば地球上の土地だって人間が勝手に区分けして所有して金銭のやり取りをして、虫とか動物には悪いなって思うから家に侵入するそれらのこと、排除するしすごくイヤだけどどこかで勝手にごめんねとは思う。でも相手がお化けでそれが幽霊でつまりもとは人間だとしたら腹しか立たない。だって頑張って働いてお金貯めておうち買ったり敷金礼金貯めて引っ越しして家借りたりするじゃん。賃貸だって働き続けて家賃払って維持しているわけじゃん。なんなの。嫌なお客さんとか仕事とか頑張って耐えて堪えて生活送ってるわけじゃん。どの面下げて祟ってくるわけ? 死んだら成仏しろって感じじゃん。わたし、家に元人間の幽霊が出たらめちゃんこムカつくと思う、怖いけどムカつく。例え昔になにがここであったとしても今はわたしが!働いてお金払って契約して掃除して!ここ借りてるんですけど!!!! だから対抗して勝ちたいし勝ちたいって言うか当然の権利を行使したい。


 <前提>
(個人的に、わたしは)お化けと生者であれば生者のほうが強いと思ってる。でも、生者は物理的に破壊されたら死ぬけど、お化けはどうやったら死ぬ(?滅す?)のかわからない。
ポルターガイストなどを起こして生者への攻撃が容易だとしたらそれに対抗しても相手に物理的損傷を与えることはできなくて、 映画や小説なんかでは何らかのお祓いや儀式で除霊してるよね。

 ・悪魔祓いとかお祓いとか
キリスト教を信仰していない場合でもやって意味があるのか、悪魔って何、そのお化けや悪霊と同じ信仰を持っていないと対抗できないんじゃないの、とすると無宗教のわたしはどうしたらいいの?
でもこないだ読んだ「ただし少女はレベル99」の、断食っていうか体を清めてなんたらとかそういうのはすごく納得できたんだよね。なぜだ。相手が幽霊(=もとは人間)とかじゃなかったからかな。


・物理的障壁とか攻撃とか
 扉を叩いたり開けたりするってことは物理的に鍵をかけたり窓のない密室は閉じ込められるのか、人体を乗っ取るってことはやっぱり人間の力を借りないと物理的攻撃が難しいってこと?
人を殺そうとするときに、車をつっこませたりタンスを倒したり、そういう物理的干渉は物にできるのに直接攻撃をしてこないのは(してもアザだったり、間接的なものだったりが多い気がする)、人間に直接攻撃するのはハードルが高いの? だったらなんで鳥とか動物は即殺せるんだろう。


・てか悪魔とか神様とか幽霊って
 元が人間だったらすごく腹立つし同じ土俵にいるんだからなんなのって思うんだよね。それが神様とか妖怪とか、人間じゃないものだったらなんか仕方ないなって思う、仕方ないっていうか、こちらの理屈とか道理で対抗できなくてもそうだよねって。そういう時は確かに専門家みたいな力を頼るしかないのも道理だよなって思う。たとえるなら羆に襲われて、まああれは物理的攻撃を仕掛けてくるからこっちも物理的に対抗すればいいだけなんだけど、しかるべき力や力量がないと対抗できないじゃん銃とか、それにプラス、熊の生体をわかっていた方が戦いに有利になるでしょう? そういう感じで、それぞれに対抗できる知識と力がないと無理だよねーって思う。
(でもそれにしても、じゃあ日本の悪霊にキリスト教の神父さんが対抗できるのかとか謎が多すぎるけど。もしそれなりに同じ文脈を持つ人しか対抗できないなら、海外旅行でやってきた悪霊みたいなものに対抗するの無理じゃん。地球の裏側から来た未知の宗教上の伝説の悪魔とかが東京観光に来たついでにわたしのこと殺そうとしても対抗できないじゃん。羆なら、羆見たことなくてもライオンとかトラとか、すごく強い人間とかに対抗する術の応用が多分効きそうだけど「お前らの土地によく出てくる妖怪に対抗できる、お祓いとか聖水とか祝詞とか俺には無意味だぜ!」って言われたら無理じゃん、わたし英語話せないし。)
でももし元が人間同士なら、まあ確かに生者同士でも肉体的能力の高さで「とうてい勝てない」とか出てくるけど、死んだからって人間を超えられるかっていうと絶対そうじゃないと思うんだよね。というか死んだ方が絶対弱くなるとおもうの。だってわたしがもし死んでお化けになって、そしたら人間のときはなしえなかった圧倒的なことができるようになりましたー!って絶対無理だと思うもん、幽霊に幻想抱きすぎ、子供のころ、「大人になったら立派な大人になるんだろうなー」って思ってたのと同じくらいの幻想だと思う。だから絶対生者のほうが強いし、でもこちらは物理的損傷を受けたら死ぬのに対して相手には物理的損傷を与えられないとしたらどうやって対抗したらいいかわかんないじゃん。どうすればいいわけ?

よく、彼または彼女の未練とかをくみ取って解決してあげて成仏したりしてるけど、生者同士だって絶対分かり合えない人沢山いるしそんなの理想で幻想だと思う。だってサイコパス殺人鬼のお化けだったら無理じゃない? 分かり合うとか無理じゃない? だったら殲滅するしかないじゃん、でも物理的殲滅は無理じゃん、あーだったらいったいどうすればいいの…



20140607-00

直径100メートルくらいの円形の広間は岩場と言って良かった。それが左右に二つ、そしてその二つが50メートル程の廊下でつながれたもの、それだけがわたしたちの新居だった。
二つの広間には屋根がなかった。廊下は160センチのわたしが手を広げれば左右の壁につくくらいの幅で、すのこのような壁で挟まれていた。廊下にだけは屋根がついているが、それもまるで藤棚から藤がなくなったような頼りないもので、果たして雨が降った日にはこの新居はいったいどうなってしまうのだろう、と不安になる。
新居は大きな沼(あるいは湖、もしかすると海)に面していて、池と広間の間には壁がなく、断崖絶壁というには少し低い2メートル。80度くらいの傾斜のそれは、足を滑らせれば容易く落ちてしまいそうで怖かった。
沼は黒く濁っており何も見えず、水面には遥か向こうの高台にある大きな誰かのお屋敷の光がうっすらうつっていて、そこだけ見れば夜のディズニーランドのようで綺麗であった。
沼を背にして新居を見ると、沼ではない方向――高台に面した側――だけに壁がある。壁は白い塗り壁で高さ約2メートル、屋根がないから高台がよく見える。歪んだ円形に広がった岩場(正確には広間)を歪んだ半円状に囲んでおり、そして左右の岩場があの廊下でつながっている。
廊下と広間には階段にして3段くらいの段差があり、廊下の方が低くなっている。この、円形が二つ廊下でつながったメガネのような形は意図的に作ったものではなくただ沼に面した土地がそのような形になっていたというだけで、本当であれば、あんな狭くて段差のある、不便な廊下は作りたくなかったのかな、と設計者の気持ちになって勝手に思う。

雄の孔雀が取り巻きを引き連れわたしたちの新居を襲ってきたのは午前1時過ぎだった。前述のとおり新居には屋根がなくただ壁が(不完全な形で)あるのみで、一応玄関となる扉はありそれはきちんと施錠されていたけれど、侵入者にはなんの障害にもならない。
一応鳥なのだから、2メートルくらいの壁なぞやすやすと跳んで越せるのかもしれないと、沼を背にして向かって左側の広間で侵入した彼らと鉢合わせたわたしは思ったが、なんのことはない、彼らは踏み台を作って壁を乗り越えて侵入してきたらしい。この家は翼を持たないものにも安易に侵入される作りをしていること、つくづく家というものは密閉し得る作りであったほうが安全なのだなあと思う。
左側の広間には孔雀の目指す標的がいなかったため、彼らは廊下を走り抜け右側の通路へと急ぐ。わたしには彼らの標的が何かわかっており、そしてそれを阻止したいから、慌てて彼らの後を追う。たった3段の階段も飛び越えるには少し怖く、その上電燈もなく真っ暗な廊下内に猫が無数にゴロンと寝転がっていて、走り抜けると彼らの柔らかい腹を踏み抜いてしまいそうで、いきおいわたしのスピードは落ちる。「どいて、今すぐそこどいて、踏むよ!?」と怒鳴っても猫たちはうるさそうに顔を持ち上げこちらの様子をうかがうだけで一向にどきやしないから、わたしはすり足で器用に走り、足で邪魔な猫を廊下の左右に避ける。わたしにそんな扱いをされても眠気のなかにいる猫は一向に介せずスーっと廊下を滑るように移動させられ、また眠る。

わたしが右の広間に辿り着き孔雀に追いついた時にはもう、孔雀は標的を捕まえていた。彼はずっと、体毛のカットをわたしの飼い猫である白猫に依頼していて、でも白猫はそれを嫌がっており、痺れを切らした孔雀が今日、取り巻きを連れて新居に襲来してきたというわけだ。銀色の鋏を押し付けカットをしてくれと迫る孔雀に白猫は相変わらず迷惑そうな顔をしていたが、わたしが「もうしてあげなよ、そうしたら帰ってくれるよ」と思わず言ってしまったのを受け、「じゃあ終わったらさっさと帰ってね」と、白猫は孔雀のカットをすることを決めた。
孔雀は左足に長い靴下を穿いていた。太いストライプというよりはイタリア国旗のようなそれは、しかし色はイタリア国旗の配色ではなく、クリームがかった滑らかな水色、真ん中はこれも滑らかな卵の黄身の色、そしてこちらも滑らかな桃色だった。それは人間で言うとハイソックスよりももっと長い、ニーソやサイハイを通り越して伸ばして穿けば孔雀の顔までも覆ってしまいそうな長さで、彼はそれをたゆんとゆるませゆったりと足に穿いていた。
孔雀の左足はまるで黒猫のように、ビロードの黒毛でおおわれていた。人間のわたしが見る限り黒猫であれば通常の短毛種の程度の長さの毛だし、人様の家を襲来する程切羽詰ってカットせねばならないようには見えなかったのだけれど、孔雀にはおそらく孔雀の価値観と都合があるのだろうな、と推測した。白猫は彼の長い靴下をいったん伸ばし顔まで覆い、それからゆっくり踝まで下げた。右手に銀の鋏、左手に銀の櫛を持ち、そして孔雀のカットを始める。



2014年6月1日日曜日

じぶんメモ:5がつ本まとめ

ぴったりだったのと、全部ちゃんと(一行でも)感想書いてたので満足している。
冊数ってより今回すごくよい小説ばっか読めて本当に満足!
今までの日記読み返したら同じくらいの冊数読んでるときあるのだけれど、続き物の漫画で単に数が増えてるだけだったりしたから、今月ボリューム感があるものをたくさん読めて本当に満足。

天地明察とのぼうの城すごくおもしろかったから、もうちょっと(ゆるくないとダメだけど)時代物よみたい。光圀公は近々読みます。
あと感想にも書いたけど、十角館と探偵サイトを同時並行で読み始めて、どちらの登場人物もポウやらカーやらあだ名とHNが推理作家だったから混ざってしょうがなかったし、僕らのごはんはと100回泣くことを連続してよんだら悪性腫瘍で(だから比べてしまって申し訳なかった)中身知らずに読み始めた本が同じような内容で、ってのが多くて個人的に面白かった。どうしても、通勤中に読むのとお風呂で(きんどるで)読むのが別にあると同時並行で複数冊になるんだけど、登場人物名が推理作家なミステリを複数冊同時に読むのはもう二度と辞めようと思った。

ただでさえカタカナ名覚えられないのに、これはない。
今までやったことはないけれど、時代物のものを複数冊同時もヤバい気がする。

来月はちょっと本読むの控えてゆっくりする、でもよいシリーズやよい作家さんに出会えたので読みたい本がたくさんだよ。幸せ。



2014年5月5日月曜日

20140428-01-01

「ミキサーに金魚を入れるポスター、あれは何の映画だったっけ」と思ったとき、自分の日記にいつかその画像を張り感想を書いていたことを思い出した から遡った。関係のない写真のサムネイルがどんどん表示されていって、見覚えのあるものもないものも、自分の足元や手元だけの写真でも隣に誰がいて誰がい なかったのかも、全部全部瞬間思い出してしまって辛くてページを閉じた。閉じてから、「ミキサー 金魚」で画像検索して調べたら一発だった。贅沢な骨。
googleに頼れば自分の記憶なんか掘り起こさなくてもよいのかもしれない。

20140505-01

例えば家から徒歩5分のおかしのまちおか、そこに売っているお菓子をお土産に買って帰る程度の愛情って小匙換算すると何杯分になるのだろう。バラのにおいのシャンプーや石鹸、バラエキスの入ったお菓子、こんにゃくゼリー、海外のポテトチップスにチョコレート。OLが好んで食べるような、コンビニ売りの小さな袋に入っているくせに若干高いお菓子、そういうものを見かけるたびに全部、全部買って帰って好きな人にあげたい、そういうのっていったい、小匙何杯分くらいの愛情なんだろう?
全然足りない、と思う。そういうものは所詮、何の足しにもならないのだ。
僕の有用性はゼロかもしれない、わたしはほんとうに何の、何の役にも立たない。




「歯磨きは、週に何回程度したらよいですか?」という患者さんの質問に、「毎日、を、おすすめしています」と答えた。「そりゃあ、」と彼は言う。「そりゃあ、あなたは歯科医院の受付をしている、資格があるのかないのかはわからないけど受付をしている。その立場ではそういうまっとうな答えしか返せないだろうけど、あんた自身はどう思う?」そんなことを聞かれてもわたしは同じことしか返せない、「個人的にも、毎日、した方がよいと思います」「毎日?」「毎日」「週に何回、じゃなくて?」「そうですね、ごはんを、毎日、食べているなら、歯磨きもやっぱりその都度」「一生?」「はい」「死ぬまで??」「はい」「死ぬまで一生というのは君、生きている人間にとって永遠と呼ばれる時間だよ、そんなの歯ブラシ会社と歯磨き粉会社の陰謀ではないか」「まあ、あくまで、選ばれるのはご自身ですから」そういうと彼は何も言わずに帰って行った。おだいじに。
誰かに、なんでもいいから、GOを出してほしい人はたくさんいる。肯定してほしいとか認めてほしいんじゃなくて、GOを出してほしい人。だれかに「やれ」と言われてようやくそれをやりたい人。「やれ」という言葉を引きだせなくても、否定的にでも消極的にでも、「そうですね」という言質がとれたらもう、全責任はわたしにGOを出した、わたしに強制的にそれをやらせた、その人にあるのだ。

2014年5月1日木曜日

じぶんメモ:4がつ本まとめ

4月、わかっていたけど不調だった。
5月はもっといろいろよみたいです。


2014年4月29日火曜日

20140429-02

いろんな不純物を混ぜて、混ぜて混ぜて混ぜて真っ黒にしてしまっても、立ち上るそれのにおいってもしかして隠せないのかな、と思う。もしそうなら、わたしの拙い隠蔽作業の必死さが、その努力のぶんそっくりそのまま羞恥になって、つまり、しんでしまいそう。

あんまり寒いからセーターを着ている。好きな人の、子供のころや、高校の頃や大学の頃や、わたしのしらないあのひとの全部、 そばで見ていたかったと思うことあるけど、あのタイミング以外で出会ったら好きになっていなかったかもしれないし結果オーライなんだと思う。しちゃいけないことやられたくないことやりたくなかったことされていやだったこと、死ぬほどあるけどいまわたし他者に物理精神その他の暴力を振るわれていなくてだから今までの嫌なこと全部喉元過ぎたことにして許さなくても認めはしてる、その作業は定期的に行われる、なぜならわたしがばかだから。わたしはばかだから定期的に反復、反芻作業、ばかみたいに反芻作業、わたしには胃がひとつしかないから吐いて飲んでを繰り返すしかなくてばかみたいな反復作業、そうしないと息ができなくて時間がつぶせないから反復作業。


お化粧をして洋服を着て外に出て頑張って喋るわたしと、すっぴんパジャマでおうちで猫とだらだらしているわたし、後者が本当のわたしだなんて思ってないし前者が本当のわたしでもなくて、どちらもわたしにはかわりはなくて、例えば刹那みんなのものになるあの子とわたしにこっそり悪口を耳打ちした瞬間のあの子、どっちが本当のあの子か考えることも、無駄でしかないのだと思う。

2014年4月10日木曜日

20140409-03

誰にでも「誰にも入り込めないすきま」があって、それが可視化されてるかされてないかの違いだけで、例えば性器に性器を突っ込むほうが入り込めない隙間に入り込むよりもよっぽど簡単だ。
何物にも侵されない、侵されないというより侵すことのできないその部分は人によって面積も性質も違っていて、なかにはその部分ですら誰かに満たされたいと願っている人もいるのだけれど例えばわたしやわたしの好きな人はそれを望んでいないというかそれが無理だということを知っている、だから例えばわたしは家に帰ってきて幸せでしかないけど、それでも満たされない部分があって、それは誰が埋められるかというと、ほかならぬ自分しか埋められないのだ。

2014年4月9日水曜日

20140409-02

自分のなんにもなさに死にたくなる、死にたくなるけどわたしは生まれてこのかたなんにもなくない状態になったことが多分一度もなく、だから今更自分のなんにもなさに絶望して死にたくなるのなんてばかみたいだ。蛍光灯の下で鏡に映った自分を目にすると意味のない死にたさが加速する、でもわたしは立派な社会人だから、人様に迷惑をかけるような行動を軽率にとることはしない、つまり自主的に死んだりしないんです。
沸騰しない程度にふつふつ煮込まれた鈍色の液体は多分一生沸騰することはないのだと思う、つまり沸騰して爆発することもなくて、一生を沸騰寸前で終えるのだと思う。それに絶望を感じるか諦めを覚えるか、どちらか本当はもうすでにわかっているけどわからないふりをしたままあと100年くらい耐えたい。

20140409-01

手をパーのかたちにして前につきだせば隠れて見えなくなるような映像で、ヘッドフォンを外してしまえばたちまち聞こえなくなるような音で、どうしてわたしは喉の奥をグッと鳴らしながら声を上げるのを必死でこらえているのだろう。例えばたくさんの人が作り上げた芸術作品、重厚感のあるそれは感動に値するし、だけど、なんにもない、声しかない、たったそれだけでどうしてわたしは泣いてしまうんだろう。この人を最初に知ったのは知人の「お金を振り込んだのにCDが全然発送されてこない」という愚痴で、だから最初からすごく印象が悪くて、だけども短編映画の単館上映であの作品を見られたこと、多分すごくラッキーだったのだと思う。最初の悪い印象がどうしてもぬぐえなくて、だから今も個人的にはあまり好きじゃないんだけど、そういうの全部吹っ飛ばして心の奥の奥からしりこだま抜かれるみたいなこの暴力的な引力ってなんなんだろう、人の声にはちからがあって、そこには例えば容姿とか個人的感情とか私事とかそういうのばかみたいになんの意味もなさなくて、例えばわたしがどんなに個人的に彼女を嫌いでも、どうしようもなく、紡がれる言葉も、奏でられる音も、わたしを引き付けて放さなくて、なにがどうとかじゃなくて、嬉しいとか悲しいとか何か感じ入るとかそういうの何も考えられない、頭が真っ白になる、多分これが本当に単純に「感動する」というやつで、だからわたしは、この子がこのまま作りたいものを作って、やりたいことをやり続けられることを地球の片隅で楽しみに祈る。

2014年4月6日日曜日

20140406-03

頭が酷く痛む、ピキンと一瞬30センチ大の針を脳天から突き刺されたように痛む。痛み止めを飲もうかとも思うけれど既に鼻炎の薬を飲んでいて、だからあんまりこれ以上薬を飲みたくないなと思う。
お腹が痛いのは辛くても痛みを感じ続けなければならないというか、肉体が感じているしんどさをわたしもともに味わっている感じがして、痛いし辛いけどいやじゃなくて、だから薬で紛らわすことはほんとんどないのだけれど、頭が痛いのはなんだか、痛んではいけないところが痛んでいる気がして不安になる。


文章が全く書けなくなってから一か月、ストレス発散の術がないけど、今はストレスを発散すべき時期じゃなくて、嵐をやり過ごす時期なのだと思う。毎日必死で眠っていて、それは起きているとろくなことがないからで、でも今頭が割れるように痛いから、イブに助けを求めようと思う。


猫の誕生日にすてきなプレゼントをふたつももらった。わたしより猫が、わたしの好きな人たちに愛されているなと思う、それはなんだか誇らしく、しあわせなことだ。

20140406-02

ミステリ好きはあらゆる動機とトリックと真犯人に慣れていて、密室殺人やアリバイ工作、一番近しい恋人が真犯人だったり語り手が探偵かつ真犯人だったり男だと思ってた彼が女だったり実は登場人物が一人足りなかったり、かと思えば仏様が出てきて真犯人を逃がす一歩手前で先祖の祟りが降ってわいたり実は最初からすべて自分の幻覚だったり、叙述トリックとトンデモミステリがエンターテイメントとして広く普及した今、びっくりするような結末を望むのは無理で、だからこそミステリの感想で「途中で犯人が分かりました」というのは、ひどく無粋だと思っている。


猫の誕生日に本をもらって次の日読んだ。

わたしが一番好きな作家は江戸川乱歩で、それは物心ついた時から変わらない。乱歩の名を冠して書かれた作品は数多くあり、それは江戸川蘭子(は特殊だとしても)からコナンまで、もうシャーロックホームズばりに一般名称と化したそれはもういちいち思い入れを込めていては仕方がない程度にたくさんあり、それでもやっぱり、乱歩の名が(そして夢野の名が)でてくると心が躍ることは否定できない。
知人の描いた本を読むことはままあれど、先に作品を知りそれから知人となるパターン、知っている人が何かを書くパターン、後者はどうしても「XXの書いたものか」と感慨深く見てしまうことがあり、でもそういう感傷がだんだんと取っ払われて、一作品としてただただ「普通に」楽しめるというのは、たいそうなことだと思っている。たいてい、作品と作者は(わたしの中では)乖離するけれど、それが本当に一ミリたりとも作者を思い起こさせずただひたすら楽しく読めるというのは、(わたしにとっては)作品が本当にエンターテイメントだという証左であり、なんだかそれは魔法のようでもある。


なんていうかすげーおもしろかったです。 叶うことなら映像で見たいな。

20140406-01

自分の文章には絶対の自信があって、何の自信かというと「何のことを書いているかすぐにわかる」という自信で、例えば他人が見たらわけのわからない文章であっても自分が見るとすぐに何の作品についてか、何のキャラについての文章かがわかって、その作品に触れて覚えた感動がレンジでチンするみたいに蘇るということに対しての自信で、なのに誰かのタンブラー上で見た自分の文章が、いったい誰を思って書いたものだか全く思い出せなくて、だからわたしはいま自信がない。
一年前のわたし、縦読み仕込んでおいてくれよー、と思ってる。

「食器を洗う」「洗濯物を畳む」程度のことも、手帳にわざわざ箇条書きにして線で消している、そうしないと行動が全くできなくなった。最近ネットや本で見た「自己肯定が低い人の対処法」みたいなものに同じようなことが書いてあって、若林さんが「毎日あった些細なこと―― 今日お弁当がおいしかった、XXさんと共演して話して楽しかった―― を日記に書いていて、そうしたら『マイナス思考の治し方』みたいな本に同じことが書いてあった」って話してたのを思い出してる。対処方法は多分、生存本能とかから自然発生するんだと思う。

毒親についての本を読んだ。インターネットで他の人の感想を見たら「この程度なら全然深刻じゃない」みたいな感想があって唸った。遠距離恋愛をしているひとたちのなかでは、恋人との距離が遠ければ遠いほど発言力があると言っている人を見かけたことがあって、それと似ているな、と思った。例えば目に見える暴力や事件もののネグレクトとか、そういうレベルじゃなくても自分をむしばむものはあって、あまりそこに執着するとそれこそ弱者の暴力みたいになるから自分がセンシティブだということを発露して誇る必要はないけれど、それでも他者から見た程度ではなく、自分が「嫌だと思った」という事実こそが、自分にとっては一番大事だと思う。
「その程度は痛くないよね?」という言葉が一番辛かったりもする。痛いと思うわたしが悪いという思考回路に陥ってしまうと、もう死んでしまうしかない。
生きていると段々鈍感になる術が身に付く、少なくともわたしはそうで、だから例えば他者から向けられる悪意とか、肉体的苦痛を伴うものでなければ無視できるようになるし、でもその反面、だれも悪くない現象に対して傷ついたりすることもあり、匙加減が難しい。 先日テレビで外国人男性に「日本人女性と母国の女性どちらが魅力的ですが」というインタビューが放送されていて、もう360度の違う角度から突っ込みどころのある企画だったのだけれど、もう突っ込んでいても摩耗するだけで仕方がないからスルーする、そういうの、表面だけ見てみれば何も考えていなかったころと同じなんだけど、確実に何かが違う。


色んなことをうらやむことがここ一週間くらい多くて、でもそれは全部わたしが選んできた結果だから筋違い、だけどどうしようもなく羨ましくなることがあって、ばかみたいだなと思う。わたしはたいてい、夢の中でも報われることはなくて、報われるというか、現実世界でやさしい人たちが口にしない拒絶がはっきりと言葉や態度になり自分に突き刺さるという夢ばかり見ている。例えば人間は、程度はあれど、自分以外の人を「気付いていない」と思う節があると思っていて、少なくともわたしはそうで、でも案外みんな賢くて聡く周りを観察していて、わたしのことも冷酷に客観的に評価されているのだと思う。「わたしが見られている」という意味ではなくて、例えば自分が他人を無意識で評価しているとすれば、自分もそうされていると自覚するべきなのだと思う。


わたしタコスというもの多分食べたことがなくて、だから食べてみたいなと思っているのだけれど、どこに行けば食べられるのか全然わからない。

同じように売られていたから、さくらんぼと苺のお酒を同量買ったのだけれど、わたしが好きなのは苺のほうだったなと思って後悔している。




2014年4月3日木曜日

じぶんメモ:3がつ本まとめ

びっくりするくらい読まなかった。春は鬱々としてしまうので、本が読めなくなる。


20140403-01

酸素を吸って二酸化炭素を吐くという行為、息苦しさを意識した途端にやり方が分からなくなって今すぐ失神したくなる、失神すれば無意識でスムーズに呼吸ができるはずだ。
鼻も口もフリーの状態で酸素がいっぱいのこの地上で、人間は恐らく精神で窒息する事もあるのかもしれないと東京駅丸の内口で一瞬思ってしまって冷や汗が出た。どんだけ精神力強いんだよ、地上で意識で窒息死。例えば食べた物を消化吸収することや、心臓を動かして全身に血液を循環させるということについては「どうやっていたんだろう?」って思い悩むことは全くないのに、どうして呼吸だけこんなにも難儀なのだろう。浅い深呼吸をしながらカクカク歩くわたしを追い越していく人たちはみんなスムーズに呼吸が出来ているように見える。でももしかしたらわたしが知らないだけで、年間かなりの人数が、呼吸の仕方を忘れて窒息死しているのかもしれない。死ぬまで呼吸を(ほぼ)絶えず行い続けなければならないという事実に、わたしはしばしば絶望する。

20140401-01

煙草を吸うのは人生で数度目で、でもその数度も愛煙者に言わせれば吸ったうちに入らないような口の付け方で、だからわたしは自分が格好良く煙草を吸えないということがわかっていたから、火をつける瞬間の緊張は半端なものではなかった。わたしは自分が普段煙草を吸わないということを人に見抜かれては、絶対にならないと思っていた。
漫画や小説で、「普段煙草を吸わない人が火をつける際息を吸わずただ口にくわえてしまって火がうまくつかない」という場面を何度も見ていたから、ライターをそっと近づけられた瞬間にわたしは思い切り息を吸い込んだ。私の煙草には無事に火がついたが息を吸い込みすぎたせいか、一瞬で根本まで燃え灰になって落ちた。動揺を顔に出さないように吸い殻を灰皿に押し付け新しい一本をすまし顔でくわえ、今度は自分で火をつけた。
普段の呼吸――酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すそれ――も、どこまで吸ってどこまで吐けばよいか解らない、つまり普通の呼吸もうまくできないわたしが煙草を上手に吸えるわけは到底なく、だからまるでうがいをするように吸った煙を口の中で転がして吐くしかできなく、その行為は嫌いな煙草の匂いを口内に染み付けるだけの作業に思えて、改めて、どうしてこんなものを摂取しなければならないのかと思った。

普段灰皿を片づける時に目にする吸い殻は短いものでもフィルターがしっかり残っていたから、だからどれだけ油断してもフィルターと呼ばれる根元部分のスポンジのようなところは燃えないと思っていたのに、どの程度消費して捨てたらいいのか解らないわたしの煙草はなんだかスポンジ部分まで燃えてきているようで、つまりは指で挟めないほど短くなり、熱くて思わず唇を開けると煙草はぽとりとテーブルの上の灰皿に落ちた。煙の味は解らないし匂いは好きではないし、なんとなく色が付きそうだしお金もかかるし、煙草というものは難儀だな、と思った。

2014年3月30日日曜日

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桜の花は酸素を吸収して二酸化炭素を吐く、だから春は桜の花とわたしとのどっちが生き残るかの生存競争の季節とも言える。今日もわたしはその戦いに負けかけて桜の花の力が及ばない地下に逃げるも都営大江戸線は酸素を燃料にして走っていて、だからここでもまた酸欠だ。涙目になりながらわたしはいつも空気をどうやって吸って酸素とその他の成分を分別して肺のどこまで入れてどのタイミングで吐き出していたか思いだそうとするけど全く全然思い出せない、人生の敗北だ。マスクをするのを忘れてしまったから酸素じゃなくて花粉ばっかりを吸い込んでる気がする。
桜の木も大江戸線も全部燃やし尽くしてしまえばわたし何物にも遮られることなく十分に酸素を吸えるのかなと思うけど燃やすと酸素も燃焼する、わたしの考え is オール下策。

2014年3月28日金曜日

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寝転がって泣くと涙が髪の毛に付き朝起きたときの寝癖が酷くなる、だから泣くならせめて上半身を起こすべきなのだけどそうするといつまでたっても眠れないから仕方なしにわたしは明日の朝の憂鬱を覚悟する。
3年経っても5年経っても色褪せないどころかますます濃くなる後悔の念に、そろそろ本腰を入れて一生向かい合う覚悟をしなければならない。あ、これは一生モノだなとずっと感じてはいたけれど年数を経るごとにその確信の深刻さが浮き彫りになる、だから来年は今年よりもきっとしんどいのだと思う。

20140328-01

他人が幸せな理由を自分にも当てはめてなんとか毎日ハッピーに生きようと思うけど全く当て自分にはハマらなくてそれは例えばわたしが頭を撫でられるのが好きなように/牛肉や生魚をを躊躇なく食べられるように/かみさまを偶像にできるように、わたしの文化にハマらなかったというだけのことなのだと思う。「たかが」と思うそれに他人が何物にも代え難い価値を見出すとき、その価値がわたしに理解できないことと、価値が本当はないことは、イコールじゃないから同時に成り立つ。

2014年3月26日水曜日

20140326-01

カジュアルかつポップに飛び降り、春は絶好の行楽シーズンでわたしの春は毎年カジュアルかつポップだ。みんなが「今日は暖かい」と声をそろえて言うけれどわたしは寒いのが怖いから冬のコートを着ている、寒いことは怖いことだ、でも暑いより寒いほうが好きだ。
厚着をすると安心する、分厚いコートを着るとほんの少し安心する。いくら防御力が高くてもあぶない水着とかわたし着れないと思う。


生き延びるためにたくさん眠っている、本も読まなくなった。悉く色々なもののタイミングが悪くて些細なことで泣きたくなる、他人からの拘束時間以外眠り続けたいのだけれどそれってつまり死んでいるのと変わらないよなともう10年以上考えている。わたしが働く理由は金銭よりもある意味それが大きいなと思う、 「仕事」という題目で拘束されないと明日まで無事に過ごせそうになくて、家族とか恋人とかペットとかよりも他人にかける迷惑もしくは他人に何か寄与できるものがあるという事実のほうが、わたしを地面に繋ぎとめる力が強い。


簡単に折れる芯は折らないように細心の注意を払い続ける必要があり、また一度折れると復旧に3年はかかり、だからわたしは今毎日毎時間毎分毎秒、薄氷の上を歩くように過ごしている。

2014年3月23日日曜日

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「弱肉強食」と「淘汰」という単語を使うと、たいていのことは、運命として受け入れられる。

20140323-02

たくさんのものを捨てた、古着のワンピースや書きかけのノート、錆びついてしまった指輪、買って開封すらしなかった小物たち。ものをたくさん持っているといざという時不便だから、それでもやっぱり生活していくにはすべてを捨てるわけにはいかなくて、だから結局わたしの身の回りはとても中途半端だ。


低気圧と、女性ホルモンと、春と、そういうもののせいにしてしまえばなにか救われる気がするのだけれど、死んだように生きるのは本当につらいなと思う。風邪をひいてしまった時のように「暖かくして眠る」とか、適切な処置方法がわかっているならまだ楽なのに、いくら寝続けても一向に良くならなくて、じゃあどうしたらしんどいのを終わらせられるのかなって思うともう答えは出ていて、でもそれは本当に取り返しのつかない行動だから、熟考が必要なんだと思う。


相変わらず本を読んでいるけど読書メーターを開き「既読」のボタンを押す作業すら億劫で、でも記録しないと読み終わった本はわたしの頭の中からボロボロ落ちてゆく、それはつまり、最初から何も読んでいないことと同じだ。例えば単調作業の反復だけの携帯ゲームをするよりも本を何冊か読むほうが有意義のような気がするけれど、わたしのように読み終わった端からボロボロ忘れていくのなら、それとこれとの間には、大差はないなとそう思う。


熱いお風呂に長時間入ると目の前が真っ暗になって立てなくなる、湯船につかっている間は案外平気な気持ちでいるのに上がった瞬間足がふらついて目の前が暗くなる、その度にわたしは「これがのぼせるという現象かー」と思う。のぼせるとわたしはたいてい、体を雑に拭きバスタオルを体に巻いてリビングのソファに座ってぼおっとする、そうしているうちにたちまち湯冷めしてもう一度湯船に浸かろうかなと思う、この反復作業は、非常に無駄だなあといつも思うのに繰り返してしまう。



調子がよくなくて、そうすると料理が全然できない。調子が良く無くなくても、ただ忙しいだけでもすぐ料理を作る気がなくなってしまうから、要するにわたしがなまけものなだけかもしれない。
ゴミを捨てる、食器を洗う、必要な電話をする…程度のことが調子が悪いとできなくなって、だからわたしは自分の手帳のマンスリーに、それらを箇条書きにする。終わったらひとつひとつ、棒線をひいて消してゆく。朝起きる、ごはんをたべる、猫にエサをあげる、トイレ掃除をする、その程度のことは当然過ぎて本来ならば日常に埋もれてしまうこと、だけどわたしはそれらが一世一代の大仕事に感じるから、いちいち手帳に箇条書くのだ。やるべきことをやった感じがする、「誰も褒めてくれない」というのは裏を返すと「誰かに褒められたい」ということで、つまりわたしは何か行動をするとき、誰かに褒められるためにでなければ動けないということなのかなと考える。誰にも褒められなくて認められなければ、朝起きたくもないし、ごはんもたべたくないし、いろんなことをしたくない。たとえその「いろんなこと」が誰のためにもなっていなくてわたしのためだけの行動だとしても、それでも多分誰かに褒められないとどうしてもできなくて、だからわたしは自分で自分を褒める。生きていて偉いねっていうレベルで褒められないと、吸って吐いてを混乱せずにちゃんと呼吸ができて偉いねと、そうじゃないと息すらできないのだと思う。


早く時間がたたないかなと思う、待ち続けながら死んだように生きるのであればショートカットしちゃえばいいのにと思うけど、なんだかんだ言い訳しながら、ずっと待ちわびたりするのだと思う。

20140323-01

調子が悪くて外に出られなかった、ソールドアウトした3500円プラス手数料アルファのチケットは無駄になったのではなくてわたしの一時の平安に対する安価で、だけどこの時期数か月後の予定を入れるのは危険だな、と思う。ごっこを超えるとそれは切実になり、だからこそ緩やかで穏やかな波がわたしはひどく怖い、久しぶりに、昔の自分の馬鹿さ加減に泣いた。
やるべきことは多分あるしやりたいこともあるんだろうけどなにもやる気がしなくて、何もやる気がしないと要するに暇で、だったらどうしようと考えたときに眠るかそれかが選択肢に上がるのは絶対に間違っている、でも毎日生活するのに例えばきちんと社会生活を営んでお金を稼がなければならないってわかっているからわたしの崩壊は唐突にはもう訪れることがない。

4月2日は誕生日と同時に命日なんだと思う。もしわたしが今幸せじゃないとすると、そうなる運命だったってだけのことなのだと思う。例えば似合う服似合わない服があるように、幸せとかそういうものにもそういうものがあって、似合う似合わないというよりは適切不適切、使いこなせるかどうかという種類のもの、だから今わたしの目の前に開けたら幸せになれる宝箱みたいなものがあっても、わたしはそれを開けないし、多分その幸せは、わたしにとってはあまりおいしくないものなのだろう。


失敗したときのことを考えて行動を思いとどまるのは臆病なんじゃなくてリスク回避。デメリットやリスクをあげつらって行動を思い留まるのは得てして言い訳と言われがちだけれど本当にそれらがブレーキになっているのだから仕方ない。いいからやっちゃえよ、という声はこの場合適切ではなく、それ以前に適切不適切未満の問題として、わたし以外の何人たりとも決断のアクセルやブレーキにはなりえないのだと思う。


4月2日が近付くたびにわたしは不安定になる、4月2日を境目に急上昇するわけでもなくて緩やかに沈殿する。春は本当に、本当によくない。

2014年3月21日金曜日

20140321-02

疾走するキリンは遠くから見ると都市伝説に出てくる見たら死ぬ生き物みたいだった。茶色と白のまだら模様はわたしの車からはまっ茶色の毛玉に見えて、イエティみたいだった。パステルカラーのピンクや水色や黄色や緑のマシュマロの海は遥かかなたまで続いていて、草原みたいにどこまでも続いているそのところどころに大きな樹が生えていた。木陰は強い日差しを避けられ、かつ水たまりがたいていあるから、動物たちはそこここの木陰に集っているようだった。疾走するキリンたちだけが、パステルカラーの草原から浮いていた。

20140321-01

わたしは2009年からずっと間違っている

2014年3月8日土曜日

20140308-01

遊園地に行ってみたいけれど、いま夜にパレードを見たら、泣いてしまうかもしれないと思った。全身で幸せのシャワーみたいなものを受けたら打ち震えて死んでしまうと思った。なんどかそういうものを浴びたことがあって、その度にわたしは死んで、なんでもない朝をまた迎えて生き返って、でも何度繰り返しても、慣れないと思う。
行ったことのある場所と、過ごしたはずの人と、いろんなそういうものをぐるぐるかき混ぜてわたしは頭の中に架空の遊園地を作る。夜で雨だけど雨粒は落ちてこない、でも雨だから、地面に明かりが反射してにじんでとても綺麗で、海の上に立っているみたいだな、と思う。真っ暗な空には小さくチカチカオレンジ色の光がまたたいていて、あ、わたしもいつか、あれに乗ったことがある、と思う。




吐こうとしても弱音しか出てこなくてあーだめだー、と思う。眠たいのに眠りが浅くなってしまって、でも頑張って一日中眠ると頭が痛くなるし、寝だめもできなくなった。体のどこかが常に小さく痛いのはすごく不快だな、外では小雨が降っていて、コンクリートが濡れて車の明かりや街頭を反射して、そういう世界に今はいて、羽田空港や外人墓地にはわたしもう一生たどり着けなくて、それはもう、こちらの世界に来てしまったからなのだと思う。



なかった昔のことばかり思い出すのは久々だな、と思ってる。まだウイスキーがのめなかったころ。

2014年3月7日金曜日

20140307-01

人一人で人一人の欠落部分が埋められるかというと大抵無理、無理じゃない場合というか人というかもあるけれど大抵無理、じゃあ何人いたらいいんですかって言うと何人って言えるわけもなく、そしてそれは別にあなたが駄目だから足りないわけじゃなくて一人じゃ埋めることが叶わないというだけの話で誰が悪いわけではなく、そしてそういう部分はわたしの中にだってあるから、わたしはほんの少しの隙間を埋めて、それでも埋まらない余白部分を、がんばれーって思いながら見てる。

2014年3月6日木曜日

20140306-02

2頭いたシャモアは3頭に増え、そして今では1頭になった。1人だったわたしは2人になり、3人になり、7人になってまた3人になり、そして今は2人になった。日本最後の1頭と言われるととても悲しい気持ちがする。わたしがいるから、最後の1頭ではあるけれど、一人ぼっちではないな、と思う。
哺乳綱偶蹄目ウシ科シャモア属。偶蹄目と奇蹄目の違いは多摩動物公園のガイドさんから聞いた。わたしは偶蹄目のことを考えるとき、その偶数の蹄で断崖絶壁の岩をつかむのを想像する。多摩動物公園のシャモアは大抵檻の中の急な坂の上の方にいて、たまに檻にくくりつけられた葉っぱを食べにこちらに来てくれることはあるけれど、わたしは最近彼の姿を、遥かかなたのその急な坂の上にしか認めていない。

昨日は11時に眠ったのに、夜中の2時に猫の声で起きた。日本語が話せないのは――もしくはわたしが猫語を解さないのは――本当に不便だ、と思った。猫はわたしの腕の中にすとんと収まる大きさで、この生きものの中でたくさんの臓器が動いていて、働いていて、作用していて、その結果この生きものが思考し動き生きているということは、なんと奇跡のようなことなのだろうと思う。綱渡りのような奇跡だな、とも思う。そんな奇跡がわたしの腕の中にすっぽり収まる大きさで存在しているというのは、ひどくおそろしく、神々しいことだと思う。眠っている人を見るときにも同じことを感じる、自分の母親や父親を見るときにも同じことを感じる。わたしたちはなんて綱渡りの生きものなのだろうと思うし、全ての事象がそうなんだろうな、とも思う。かみさまが、おおきな手で、わたしの脊髄をつぶしてしまえば、多分わたしはこわれてしまうだろう。神様じゃなくても、誰かがわたしのことを潰さないという保証はなく、精緻に作られた生きものの構造が、強大ななにかに取り返しがつかないくらいぐちゃぐちゃにされることを、わたしはニュースを見るたび想像して、恐ろしくなる。それはきっと、ガラス細工の白鳥が粉々に砕かれるより、はるかに絶望的で、悲しく、取り返しのつかないことだと思う。

20140306-01

2月中旬の豪雪もあらかた溶けて、仙台市街地にはもう雪は残っていなかった。これから3日間、修学旅行という名の個人旅行でここに滞在しなければならないわたしはまずはホテルを探さなければならなかったのだけれど、駅でばったり会った知人が、実家に泊めてくれるという。仙台駅から車で20分ほど走るともう雪景色が広がっていて、まだ除雪のされていない細い車道には轍の跡がくっきりと、そこから両輪がはみ出さないよう友人は慎重に車を運転した。
どこまでも続きそうな直線道路と左右に広がる雪原となった畑、100mかそれ以上ごとにポツポツ現れる民家は完全に北海道の田舎のそれで、実家を思い出して懐かしくなる。「あ、あそこだよ」という友人の声で正面を向くと前方右手に赤い屋根の二階建ての家とこれまた赤い屋根の大きな車庫が二つ、車はゆっくりと速度を落とし敷地内に入った。友人の足捌きを全身で感じながらこんな雪道で走行・右折するなんてわたしにはとうてい無理だなと改めて思う。
車庫と民家でコの時に囲まれた敷地内に入ると、自転車に乗った巨大ないきものが敷地内をくるくる楽しげに回っていた。焦げ茶というか茶色の絵の具に黒を混ぜたような色をしたそれは二階立ての高さくらいあり、器用に自転車に乗る様子はまるでかわいらしい絵本の中の動物のようだった。彼は人間になりきって軽快に自転車でコの字の真ん中をぐるぐる回っていたけれど、突然テリトリーに入ってきた車に驚き、そしてその車に乗っている二人が明らかに驚いた顔をしているのを、そしてその中に明らかな怯えを見てとり、わたしたちを敵と見なし、人間のふりをするのをやめた。

友人は何も言わずハンドルを左に大きく回し今来た道を大急ぎで戻る。重力の中心が、右側に移動する。もしかしたらあの民家には友人の両親や80になると言う祖母が残っていて、もし「あれ」が人間のふりをやめ家人を襲うことを決めたならば逃げきれることはなさそうで、そこまで彼女は計算し車をUターンさせたのかなと猛スピードで車に迫る「あれ」を見てわたしは思う。助手席に乗るわたしに逃走を手伝うすべはほとんどなくて、でも少しでも力になればといつの間にか橇の形になっている車から落ちないように注意しながら両手で左右の雪を漕ぎスピードアップに荷担する。前に座る友人に体をぴったりくっつけて右折左折時には体重移動、それでも「あれ」は引き離されることなくついてくる。

同じ建物が何棟も建っているような団地にわたしは住んだことがないから、みんな自分の家がどこか、迷わないのかなといつも思う。唐突に現れたその団地の敷地内に滑り込んだところでわたしたちの乗ってきた橇は壊れ、わたしと友人は建物の陰に隠れる。雪遊びをしていた親子連れや物音に驚いたおばあちゃんたちが何事かとわたしたちを見やるので、わたしたちはかすれた声で後方を指さしあれ、あれ、と叫ぶ。叫んだはずのその声は掠れていて小さく、呟くくらいになってしまったけれどみんな指さす方向を見て、そして迫り来る「あれ」を見る。深い茶色の体毛に覆われた「あれ」は本性をむき出しにしており、さっきまで人間のふりをして自転車に乗っていたなんて到底信じられなかった。
団地の中に隠れようにもいつもは解放されている階段も外壁と同じコンクリートのシャッターが下ろされており、わたしたちと、そのとき外に出ていた人たちはひたすら建物の影に隠れるしかなかった。「あれ」の視界に入らぬように建物に回り込み続け、いい加減張りつめた緊張の糸が切れそうになったころ、市街地の方向から選挙カーの一団がやってきた。
のろのろと走る選挙カーからはうぐいす嬢の声が響いてきていたが、候補者は車には乗らず、選挙カーの横を徒歩で歩いているようだった。たすきをかけた彼は元スポーツ選手の有名人で、太い眉毛の暑苦しい顔はテレビの中の彼と全く同じだった。白い手袋をはめた右手を道行く人たちに振りながら、彼と選挙カーはゆっくりと車道を進む。このままでは「あれ」と遭遇してしまう、とハラハラしながら団地の影から見ていると、「あれ」はまた、どこからか持ってきた自転車に乗り、人間のふりをした。
西友で売ってそうな銀色のママチャリから「あれ」の身体はかなりはみ出ていて、全身を覆うモジャモジャの体毛と血走った目、隠しきれない牙とよだれは明らかに人間じゃなかったから、そんなものが人間のふりをしてママチャリを漕いで歩道を走ること自体に何とも言えない恐怖を覚えたのだけれど、元スポーツ選手の候補者はそんな「あれ」にも笑顔で手を振ってみせた。人間扱いされたことに満足して「あれ」はそのまま自転車でどこかへ行ってしまい、いや、でもだって、あんな姿のものに対して人間扱いして平然と接するなんて、わたしには絶対無理だ、と思う。

2014年3月5日水曜日

20140305-01

すごくねむたくてねむっているから、もう、ゆめもみない。


自動改札で前の人が引っかかる確率、最近上がってきている気がする。「わたしが好きな、わたしのことを好きだった人」がわたし以外の人を好きになることと、わたしのことを好きじゃなくなること、どちらがいやかなと思って後者を選ぶけど、どちらもいやなことには変わりがな いと思う。土曜日から腕時計をなくしてしまって、絶対家のどこかにあると思うんだけど、家のどこかにあると思うとあんまり探す気になれない。誰かどこかで見かけたら、わたしに教えてください。


読み終わった本、時系列と場面がはっきり書かれずに交差していて、その上たくさんいる登場人物が本名やあだ名やペンネームや源氏名や旧姓や偽名を使っていて、訳が分からなくなったので相関図を書こうと自由帳を開いたのだけど4人人物を描いた時点で配置がうまくいかなくなってやめた。むずかしい。あしたもう一度読み直そうと思う。

びっくりするくらいねむたいから、ねむります。

2014年3月3日月曜日

20140303-02

「あした、髪を切るんだ、なぜなら失恋したからです」というと「すごいすごい」と言われた。何がすごいすごいなんだ、と思った。誰にも失恋していないけれど、誰にも失恋していないというこの状況は、果たして本当かな、と思った。本当に誰にも失恋していないのかどうか、わたしには本当のことはわかっていないのじゃないかなと思った。

春いちごのチューハイというお酒を買って飲んだ、久々に、かんかんの、甘いお酒を飲んだ。缶に入った飲み物のことを「かんかん」と言ってしまうのは、方言なのか、個人の表現なのか、どっちなのだろうと毎度考える。でも「缶」じゃなくて「かんかん」だな、と、口に出してみて再認識する。

映画を見に行ったら隣の男の人が、ものすごい勢いでポテトを食べていた。わたしが席に着くまでわたしの席に荷物を置いていた彼は、膝をこう、地面に水平に片足に乗っけるようなやり方で足を組んでいて、 氷だけになったジュースをズズっとすすっていて、このまま本編に突入したらいやだなと思ってわたしはその彼を横目で見ていた。予告が終わって盗撮注意のあの映像が流れ始めたころに彼は突然立ち上がり、食べ物が入っていたトレイを置きに外に出て行った。すぐ戻ってきて、またドカッと座り、足を大きく組んだ。映画の途中でも独り言を言ったり、スマートフォンをつけてみたり、サングラスを外したりかけたりしてみたり、忙しい人だった。



いちばん怖いのは、裏切られるより、裏切ることだとおもう。時間は巻き戻せないし、もう死ぬしかないけれど、死んでも時間が戻らないし、だからもう、どうしようもなくなる。




諸事情により、いまわたしの家には、よいビールが大量にある。わたしは普段、あまくないお酒をよく飲んでいるのだけれど、久々にいちごチューハイを飲んで、あまいお酒が飲みたくなって、だからこのビールのメーカーさんと、ビール好きの人には怒られそうだけれど、マンゴージュースでビールを割って飲んでいる。輸入雑貨屋で買うこのマンゴージュースはとてもどろっとしていて、ビールで割るにはこれが一番おいしい。スーパーで売っているマンゴージュースはさらさらしていて、割りものに使うとおいしくない。ところで、スーパーのジュースの賞味期限はせいぜい一週間くらいだけれど、このジュースは数か月ある。どういう仕組みなんだ、と、考えそうになって考えないようにして、なんかこう濃厚だから日持ちがするんだろうとかよくわからない納得の仕方をして、今わたしはマンゴービールをぐびぐび飲んでいる。



最近書いていた文章がもうだめになって、だめじゃないんだけどだめになって、全然日記も書かなくなって、今日久々に書いたらやっぱり面白くて、どうでもいい文章を書くのは楽しいなと思っている。だからいまわたしは、ものすごく、たのしい。




全然仲良くない、というと語弊がある、仲良くなくないんだけど、長時間は一緒の時間を過ごしてない、という友達(と呼んでいいのかな)のことを、お互いよく知らないと思うんだけど、すごく大切に思う時があって、この気持ちは一方的なものだから、気持ち悪いだろうけど、でもわたしは好きだよ、と思う。人が、例えばものすごく大変なとき、わたしがなにをできるかというと「今度またお茶しようね」というくらいで、でもわたしは本当に真剣に、あの子とまたお茶していろんな話をしたいと思っていて、だからそういうわたしのエゴのために、死なないで生きててほしいなって思う。わたしのために生きていてもなんにもいいことはなくてただただわたしが満足するだけなんだけれど、そんなわたしのエゴが、一グラムくらい、ここにつなぎとめる重しになったらいいなって思う。
好きっていうのは不思議だな、と思う。全然会っていなくても、話した時間が少なくても、そういうひとのことを、わたしは一人でいるときにすごく考えたり思い出したりすることがあって、それはとても気持ち悪いことだろうなって思うんだけど、別に相手に何かを求めているだけじゃなくて、元気でいてくれたらいいなと思う。わたしはあんまり人を好きにならなくて、好きにならないというか興味がないというか、そう自分のことを評しているのだけれど、一方的でよいという条件を付けたら好きな人が結構たくさんいるから、たとえ自己満足であっても、そこそこ幸せな人生なのだと思う。会ったことのない人でもすきなひとはたくさんいて、インターネットはすごいなとおもう。XXといえばだれだれ、と想像する人がいて、それはとても得なことだから、好きなものはみんな、どんどん主張していった方がいい、と思う。たとえその人が一度しかその単語を口にしていなくても、なぜか刻み込まれるみたいなことがあって、何度も言うけどそれがわたしに刻み込まれるというのはとても気持ちの悪いものだと思うのだけれど、電気ブランと言えばだれそれ、上野動物園と言えばだれそれ、万年筆といえばだれそれ、というもの、気持ち悪いとは思うけれど、誰かの心の中にそうやって残るということは、すごいことだな、と思う。



3月31日までに頑張ろうと思っていたこと、多分間に合わなくて、でもまあ一からやり直して頑張ろうと思いながら一か月くらい経って、だからそろそろまた頑張ろうと思う。 別に何も頑張らなくても生きていけるしそこそこたのしいなって思ったけれど、頑張ったほうが、より楽しいなとおもった。


 

20140303-01 にっき

唐突に日記と思い出話をします。

わたしの実家には大量の絵本と乱歩と横溝と星新一があった。星新一は父の、それ以外は母の趣味。趣味というか、母は保母をやっていたから、絵本が大量にあった。それに囲まれて育ったからかわからないけれど、わたしは乱歩が好きで、つまりミステリが好き。
小学校の図書室で乱歩を探したら少年探偵団しかなくて、家では大人向けの、学校では少年探偵団を読んだ。でも将来は探偵じゃなくて、007を見てスパイになりたいと思った。「わたし、CIAに入る」って言ったわたしにお父さんは「がんばってね」って言った。
家にはゲームがなくて、スーパーファミコンとかファミコンとか64とか友達の家にはあったけどわたしの家にはなくて、だから本ばかり読んだ。テレビも、ご飯を食べるときは見ちゃいけなくて、でもそれ以外でも見ることってほとんどなかった。ウゴウゴルーガとかが流行っていたけれど、わたしはとても田舎に住んでいたから、そんなものがやっている時間に家にいられるわけがなかった。わたしが見たことのあるテレビはめざましテレビだけで、小学校の卒業文集に「好きな芸能人」を書く欄があったのだけれど、テレビを全然見なかったわたしは芸能人を全然知らなくて、めざましテレビのキャスターの「なっちゃん」って書いた。クラスの男子に「なっちゃんってアナウンサーの? すきなの?」って聞かれて「うん、なんかいいじゃん」ってごまかしたの、今でも覚えてる。
中学に上がって、体育の時間、校庭でよくわかんない自由時間があって、うちのクラスととなりのクラスの女子で円になって、一人ずつSMAPで好きな人を言うってことになったとき、すごく焦ったこと、これも今でも鮮明に覚えている。わたしはSMAPが何かしらなくて、でも「知らない」って言えなくて、隣の子が「ゴローちゃん」と言ったから、「わたしも!」って言っておいた。

とにかく、だからわたしはミステリが好きで、なんたらかんたら殺人事件ばっかり本を読んでいた。でも海外の作品はどうしても登場人物が覚えられなくて、ホームズもルパンも(そしてポーも)読んだけれどあんまり覚えていない。それは今でも変わってなくて、登場人物が日本の名前じゃないと、どうしても覚えられない。バカなんだと思う。

今日雫井脩介先生の『火の粉』を読んで、めちゃくちゃ怖かったから日記を書いている。悪の教典もそうだったけれど、こういう話、わたしの中ではサスペンスに位置づけられるこういう話、本当に心がしんどい。読んでいてつらい小説と言えば最近読んだ辻原登先生の『寂しい丘で狩りをする』、読み切るの本当にしんどかった。まどマギマミさんみたいに「みんな死ぬしかないじゃない!」改め「先に殺すしかないじゃない!」と思ってしまう。わたしのなかで一番しんどい小説が久坂部羊先生の『無痛』なんだけど、タナダユキ先生の『復讐』も、しんどいというか考えさせられて辛かった。薬丸先生の『天使のナイフ』も。
それと違う方向でわたしがとても苦手なのがバトルロワイヤル的小説。貴志先生の『クリムゾンの迷宮』はみんな知ってる名作過ぎる名作だけれど、わたしああいう立場にもし立ったら(インシテミルとかもそうだね)真っ先に自殺したい、痛くない方法で。多分、「誰かに狙われる」というのが精神的に耐えられないんだと思う。でもその「耐えられない」を差し引いても寂しい丘で狩りをするは本当にしんどかった、もうわたしが作中に躍り出てXXXてやろうかと思うくらいしんどかった。

火の粉があまりにも怖かったからよくわからない日記を書いてしまった。わたし乱歩で一番何が好きなのかなって考えたときに、パノラマ島がすごく好きだけど、鏡地獄が一番に出てくるかもしれないと思ってる。あれ、こわいものみたさで、一度やってみたくもあり、でもおそろしいから、多分できないと思う。
屋根裏のせいで電車で口を開けて寝ている人を見ると不安になるし、あれは現実に起こり得ることだと思うから、みなさん絶対、電車で口を開けて上を向いて寝てはいけないよ。




人生を変えた小説ってそうそうないと思うけど、「別に作品にも作者さんにもそこまで強烈な思いやりがあるわけじゃないのに、よくわかんないのに、人生に深く刻まれた」みたいなものがあるなって最近とても思う。例えば桜庭先生の七竈を、わたしは全世界のそれ(ハードカバーのほう)を買い占めたいほど好きだけど、多分人生にってのとは少し違って、ただ作品として好き。そうじゃなくて、人生が変わるというか刻み込まれるものってあるなって思う。よくわかんないけど刻まれちゃったなって言うもの。今現在わたしの人生を一番変えたのが梨木香歩先生の『雪と珊瑚と』で、何がどう変わったかは誰にも言わないけれど、びっくりするくらい考えが変わった。あとは『ホテルジューシー』。ホテルジューシーのおばあのお部屋のお洗濯の話は、わたしことあるごとに人にしている。あと安吾の(なんで現代の作家さんだと「先生」ってつけるのに、安吾とか乱歩は呼び捨てにしちゃうんだろう。もうわたしのなかで伝説の先生みたいになっているのかな)『青鬼の褌を洗う女』は、人生を変えたというか、できていないんだけど、ああいう女の人になりたいなといつも思う目標みたいなもの。今は全然できていないし、現代社会のせいというよりも「いまのわたし」は目指そうともしていないというかできていないんだけど、すごく良いなと思うから、絶対実現できない、目標みたいなものだなって思う。


 火の粉があまりにも怖すぎて、変な日記を書いてしまった(これを書くのもこの記事の中で二度目だ)。怖い本と言えば、自分の中に強く残っている本と言えば、と思い浮かべて、ツイッターでつらつら書きそうになって、でも長いからブログに吐こうって思って、吐いたらものすごいくだらないものが出てきていま笑ってる。あと宮木あや子先生の『花宵道中』はサイコーだし(宮木先生の作品は全部サイコーだけれども)、『雨の塔』に出てくるフレーズが好きすぎて違うブログタイトルにまるまる拝借した。わたしは本、全然詳しくない、文学とか全く分からないしジャンルもよくわからないから批評というものができないけれど、本がすきだなあと今思ってる。


2014年3月2日日曜日

20140302-01 せかいせいふくのこと

わたしがもし世界を征服するとして、現在ある価値観や文化を全部ぶっこわしての世界征服だとしたら超めんどくさいな。一分とか一秒とかを全世界に周知するところからはじめなきゃいけないのかな、例えばいまsetTimeoutとか書いてちゃんとコンピューターがいちびょう、を認識するのとかどうやって組み込んでるのかわたしわからないし、「はい、……はい! これが一秒です」とか全世界に放映するのかなとか、そう人に言ったら「いや、一秒とか元になる基準があるから」って言われたけどそもそもその元になる基準を考えて分割して一秒を決めるとかからしなきゃいけなくて、世界征服して考えなきゃいけないことってたくさんあって、例えばどこに住むとかみんなのごはんどうしようとか着る服とか、だから一人で時間の単位どうしようとか松屋の食器の色どうするとか食肉どこで育てるとか考えるの絶対無理じゃん、今世界ってたくさんの人がたくさんの方向向いて頑張ってる(頑張ってなくてもそれぞれ進んでいるというか)から今があって、それってめちゃんこすごいことだよなって思った。世界征服するとしても絶対「あーそれそっちで決めといて」って言わないと無理で(松屋の食器の色とかね)、だからどんなことにせよ、一人で全部やるって絶対無理だなーって思った。
それと、めんどくさそうだから、絶対世界征服なんかはたくらまないでおこー、って思った。

 

2014年3月1日土曜日

じぶんメモ:2がつ本まとめ

まんがばかりだなー。あとやっぱり毎度記録忘れが多くて、読んだ後絶対色々思ってるはずなのに記録を忘れるとそれを読んだことすらわすれてしまうわたしはちゃんと記録付けないとと思った。2月は筒井先生のイベント、日にち間違ってて行けなくて、それがもうめちゃんこ悲しい。MUSEのチケットなくしていけなかったときとおなじくらい悲しい。人生の二大悲しいイベントだ。
 

2014年2月11日火曜日

20140211-01

外よりも暖かい気がするのは、南国の動物がいるからかなと思った。ビーグルにもドーベルマンにもカンガルーにも似ている犬は、わたしよりも大きかった。恐る恐る頭を触ると気持ちよさそうな表情を浮かべた気がしたので思い切って抱き着いてみると、コテンと転がりお腹をこちらに向けてくれたので、撫でた。お腹にはおっぱいが6つついていて、それらに触るのはなんとなく失礼だと思ったから、乳首をよけておなかを撫でた。
わたしにおなかを向けてまだ撫でてほしそうに身をよじっている大きな茶色い生き物をほおって次に進むのはなんだか申し訳ない気がしたけど、わたしたちは先に進まなければいけなかった。

ホワイトタイガーは猫みたいだった。またそれもわたしより大きかった。体もしっぽも、手まで大きくて丸っこくてとてもかわいらしかったけど、ひっこめている爪をにゅっと出したら人間の体を裂くくらい簡単だと思って怖かった。放し飼いになっているホワイトタイガーは、放し飼いになっているだけあってとても大人しくて、お客さんはみんなホワイトタイガーと立ったまま抱き合ったりして写真を撮っていた。羨ましくなったわたしはお客さんが途切れたタイミングを狙い「わたしも写真撮って―」と同行者にカメラを渡しホワイトタイガーに抱き着いたけれどネコパンチしてきそうな不機嫌さを彼女(もしくは彼)から感じ取って若干腰が引けた。ホワイトタイガーはごろんと横になり手足を丸めてきたけれどこれは猫がネコパンチしながらじゃれる姿勢と一緒だ。後ろ足で獲物を挟み逃げられなくしたままで前足でネコパンチを繰り出し噛みつくあれ、4キロあるうちの猫にされても痛いのにわたしよりも大きいこのホワイトタイガーにされたらわたし死ぬ気がすると思ったから、彼女(もしくは彼)から目を離さないようにしてゆっくり後ずさりして逃げた。

動物園には水槽もあって、イルカもいた。水槽の周りにはとけ残った雪が積もっていて、さっきまであんなに暖かかったのに、こちらはまるで冬だった。地元の古い動物園みたいな檻の中に腰くらいまでの高さの水槽があってその中にいたイルカたちは、檻が開いた少しの隙間から我先にとピチピチ逃げ出してきていた。わたしは驚いて係の人を探したけれど、係のおじさんがそれを笑って見ているのに気付いたからわたしも安心して見守ることにした。動物園は崖の上にあり、その崖っぷちには安全のために柵が取り付けられていたのだけれど、イルカたちはみんな、その崖を目指しているようだった。両親と話しながら後ろ向きに歩いてきた男の子が一匹のイルカを踏みつけて、踏みつけたのは男の子なのにギャッと声を上げていたのが面白かった。ペンギンの散歩はいろんな水族館で見たことがあるけれど、イルカの散歩は初めて見たな、と思った。
まるでイルカの顔の部分だけを短く切り取ったような生き物が空中を舞っていてびっくりしたら、係のおじさんに「あれはイカだよ」と言われた。よく見たら確かにイカで、わたしのイメージするイカよりももっとずっと短くて丸っこかったからぱっと見ただけではわからなかった。イカはイカらしい動き……胴体を膨らませたりしぼめたり、足を延ばしたり縮めたりして空中を泳ぐように海へ向かって飛んで行った。イカは、水中を泳いで移動して、地上に上がると空中を泳ぐように飛んで移動するっていう当たり前のことをわたしはすっかり忘れていて、なんだか恥ずかしくなった。

断崖まで来て恐る恐る下を見てみると、イルカたちは100メートルくらい下の海を泳ぎまわっていた。いくら水の中にとはいえこの高さから海に飛び込むなんて怖くないのかなと思ったら、係のおじさんが「手を出してみな?」と言った。手を出したら、崖から水面までたった10センチくらいしかなく、どういう仕組みかわからないけれど、崖からはするっと滑り込むように海の中に入れるんだってことが分かった。確かにイルカたちは崖の柵の隙間からするっと海に潜り込んでいた。
100メートル下(に見える) を悠々と泳ぎまわるイルカは100匹以上いて、あの小さな檻の中の水槽にこんなにもイルカがいたんだってことにびっくりした。例えばおたる水族館は、海を柵のようなもので区切ってアシカなんかをはなしていたけれど、ここの海はただの入り江になっているだけで、このまま大海に逃げていけてしまうのに大丈夫かなとわたしはすこし心配した。入り江と海を区切るようにずどんと鎮座している岩のあたりに小舟が出ていて、釣りをしている漁師のおじさんがいた。おじさんはイルカの大群が自分の船が浮かんでいる水面のはるか下あたりを泳ぎまわっていることを全く気にしないで船の上で立ちながら釣竿を垂らし、たばこを吸っていた。
漁師のおじさんを見ていたら、わたしの耳元でワアッと歓声が上がった。3人に増えた係のおじさんがイルカに何か餌をやっていた。ペンキの缶のようなものに入れたエサを海にまくと、イルカたちが飛び跳ねてそれを食べた。優雅なイルカジャンプというよりも、池の鯉にエサをあげたときみたいだなと思った。必死で餌を食べようと飛び跳ねると、イルカの顔は鯉に似る。
できるだけ遠くへ餌を放ろうとおじさんがあまりにも激しく缶を振り回すから、缶からこぼれた液体がわたしの前にいるお客さんのダウンジャケットについた。濃い茶色のそれを指にとってなめるとものすごくおいしくて、それを見たおじさんが「おいしいだろ?」と言った。おいしいです、と答えると、「それはね、松永のイカスミだよ、高級品」とにっこり笑っておじさんは答えた。高級イカスミをイルカにやるなんてなあ、と言いながらもおじさんはずっと笑顔だったから、イルカはしあわせものなんだな、と思った。