2014年4月29日火曜日

20140429-02

いろんな不純物を混ぜて、混ぜて混ぜて混ぜて真っ黒にしてしまっても、立ち上るそれのにおいってもしかして隠せないのかな、と思う。もしそうなら、わたしの拙い隠蔽作業の必死さが、その努力のぶんそっくりそのまま羞恥になって、つまり、しんでしまいそう。

あんまり寒いからセーターを着ている。好きな人の、子供のころや、高校の頃や大学の頃や、わたしのしらないあのひとの全部、 そばで見ていたかったと思うことあるけど、あのタイミング以外で出会ったら好きになっていなかったかもしれないし結果オーライなんだと思う。しちゃいけないことやられたくないことやりたくなかったことされていやだったこと、死ぬほどあるけどいまわたし他者に物理精神その他の暴力を振るわれていなくてだから今までの嫌なこと全部喉元過ぎたことにして許さなくても認めはしてる、その作業は定期的に行われる、なぜならわたしがばかだから。わたしはばかだから定期的に反復、反芻作業、ばかみたいに反芻作業、わたしには胃がひとつしかないから吐いて飲んでを繰り返すしかなくてばかみたいな反復作業、そうしないと息ができなくて時間がつぶせないから反復作業。


お化粧をして洋服を着て外に出て頑張って喋るわたしと、すっぴんパジャマでおうちで猫とだらだらしているわたし、後者が本当のわたしだなんて思ってないし前者が本当のわたしでもなくて、どちらもわたしにはかわりはなくて、例えば刹那みんなのものになるあの子とわたしにこっそり悪口を耳打ちした瞬間のあの子、どっちが本当のあの子か考えることも、無駄でしかないのだと思う。

2014年4月10日木曜日

20140409-03

誰にでも「誰にも入り込めないすきま」があって、それが可視化されてるかされてないかの違いだけで、例えば性器に性器を突っ込むほうが入り込めない隙間に入り込むよりもよっぽど簡単だ。
何物にも侵されない、侵されないというより侵すことのできないその部分は人によって面積も性質も違っていて、なかにはその部分ですら誰かに満たされたいと願っている人もいるのだけれど例えばわたしやわたしの好きな人はそれを望んでいないというかそれが無理だということを知っている、だから例えばわたしは家に帰ってきて幸せでしかないけど、それでも満たされない部分があって、それは誰が埋められるかというと、ほかならぬ自分しか埋められないのだ。

2014年4月9日水曜日

20140409-02

自分のなんにもなさに死にたくなる、死にたくなるけどわたしは生まれてこのかたなんにもなくない状態になったことが多分一度もなく、だから今更自分のなんにもなさに絶望して死にたくなるのなんてばかみたいだ。蛍光灯の下で鏡に映った自分を目にすると意味のない死にたさが加速する、でもわたしは立派な社会人だから、人様に迷惑をかけるような行動を軽率にとることはしない、つまり自主的に死んだりしないんです。
沸騰しない程度にふつふつ煮込まれた鈍色の液体は多分一生沸騰することはないのだと思う、つまり沸騰して爆発することもなくて、一生を沸騰寸前で終えるのだと思う。それに絶望を感じるか諦めを覚えるか、どちらか本当はもうすでにわかっているけどわからないふりをしたままあと100年くらい耐えたい。

20140409-01

手をパーのかたちにして前につきだせば隠れて見えなくなるような映像で、ヘッドフォンを外してしまえばたちまち聞こえなくなるような音で、どうしてわたしは喉の奥をグッと鳴らしながら声を上げるのを必死でこらえているのだろう。例えばたくさんの人が作り上げた芸術作品、重厚感のあるそれは感動に値するし、だけど、なんにもない、声しかない、たったそれだけでどうしてわたしは泣いてしまうんだろう。この人を最初に知ったのは知人の「お金を振り込んだのにCDが全然発送されてこない」という愚痴で、だから最初からすごく印象が悪くて、だけども短編映画の単館上映であの作品を見られたこと、多分すごくラッキーだったのだと思う。最初の悪い印象がどうしてもぬぐえなくて、だから今も個人的にはあまり好きじゃないんだけど、そういうの全部吹っ飛ばして心の奥の奥からしりこだま抜かれるみたいなこの暴力的な引力ってなんなんだろう、人の声にはちからがあって、そこには例えば容姿とか個人的感情とか私事とかそういうのばかみたいになんの意味もなさなくて、例えばわたしがどんなに個人的に彼女を嫌いでも、どうしようもなく、紡がれる言葉も、奏でられる音も、わたしを引き付けて放さなくて、なにがどうとかじゃなくて、嬉しいとか悲しいとか何か感じ入るとかそういうの何も考えられない、頭が真っ白になる、多分これが本当に単純に「感動する」というやつで、だからわたしは、この子がこのまま作りたいものを作って、やりたいことをやり続けられることを地球の片隅で楽しみに祈る。

2014年4月6日日曜日

20140406-03

頭が酷く痛む、ピキンと一瞬30センチ大の針を脳天から突き刺されたように痛む。痛み止めを飲もうかとも思うけれど既に鼻炎の薬を飲んでいて、だからあんまりこれ以上薬を飲みたくないなと思う。
お腹が痛いのは辛くても痛みを感じ続けなければならないというか、肉体が感じているしんどさをわたしもともに味わっている感じがして、痛いし辛いけどいやじゃなくて、だから薬で紛らわすことはほんとんどないのだけれど、頭が痛いのはなんだか、痛んではいけないところが痛んでいる気がして不安になる。


文章が全く書けなくなってから一か月、ストレス発散の術がないけど、今はストレスを発散すべき時期じゃなくて、嵐をやり過ごす時期なのだと思う。毎日必死で眠っていて、それは起きているとろくなことがないからで、でも今頭が割れるように痛いから、イブに助けを求めようと思う。


猫の誕生日にすてきなプレゼントをふたつももらった。わたしより猫が、わたしの好きな人たちに愛されているなと思う、それはなんだか誇らしく、しあわせなことだ。

20140406-02

ミステリ好きはあらゆる動機とトリックと真犯人に慣れていて、密室殺人やアリバイ工作、一番近しい恋人が真犯人だったり語り手が探偵かつ真犯人だったり男だと思ってた彼が女だったり実は登場人物が一人足りなかったり、かと思えば仏様が出てきて真犯人を逃がす一歩手前で先祖の祟りが降ってわいたり実は最初からすべて自分の幻覚だったり、叙述トリックとトンデモミステリがエンターテイメントとして広く普及した今、びっくりするような結末を望むのは無理で、だからこそミステリの感想で「途中で犯人が分かりました」というのは、ひどく無粋だと思っている。


猫の誕生日に本をもらって次の日読んだ。

わたしが一番好きな作家は江戸川乱歩で、それは物心ついた時から変わらない。乱歩の名を冠して書かれた作品は数多くあり、それは江戸川蘭子(は特殊だとしても)からコナンまで、もうシャーロックホームズばりに一般名称と化したそれはもういちいち思い入れを込めていては仕方がない程度にたくさんあり、それでもやっぱり、乱歩の名が(そして夢野の名が)でてくると心が躍ることは否定できない。
知人の描いた本を読むことはままあれど、先に作品を知りそれから知人となるパターン、知っている人が何かを書くパターン、後者はどうしても「XXの書いたものか」と感慨深く見てしまうことがあり、でもそういう感傷がだんだんと取っ払われて、一作品としてただただ「普通に」楽しめるというのは、たいそうなことだと思っている。たいてい、作品と作者は(わたしの中では)乖離するけれど、それが本当に一ミリたりとも作者を思い起こさせずただひたすら楽しく読めるというのは、(わたしにとっては)作品が本当にエンターテイメントだという証左であり、なんだかそれは魔法のようでもある。


なんていうかすげーおもしろかったです。 叶うことなら映像で見たいな。

20140406-01

自分の文章には絶対の自信があって、何の自信かというと「何のことを書いているかすぐにわかる」という自信で、例えば他人が見たらわけのわからない文章であっても自分が見るとすぐに何の作品についてか、何のキャラについての文章かがわかって、その作品に触れて覚えた感動がレンジでチンするみたいに蘇るということに対しての自信で、なのに誰かのタンブラー上で見た自分の文章が、いったい誰を思って書いたものだか全く思い出せなくて、だからわたしはいま自信がない。
一年前のわたし、縦読み仕込んでおいてくれよー、と思ってる。

「食器を洗う」「洗濯物を畳む」程度のことも、手帳にわざわざ箇条書きにして線で消している、そうしないと行動が全くできなくなった。最近ネットや本で見た「自己肯定が低い人の対処法」みたいなものに同じようなことが書いてあって、若林さんが「毎日あった些細なこと―― 今日お弁当がおいしかった、XXさんと共演して話して楽しかった―― を日記に書いていて、そうしたら『マイナス思考の治し方』みたいな本に同じことが書いてあった」って話してたのを思い出してる。対処方法は多分、生存本能とかから自然発生するんだと思う。

毒親についての本を読んだ。インターネットで他の人の感想を見たら「この程度なら全然深刻じゃない」みたいな感想があって唸った。遠距離恋愛をしているひとたちのなかでは、恋人との距離が遠ければ遠いほど発言力があると言っている人を見かけたことがあって、それと似ているな、と思った。例えば目に見える暴力や事件もののネグレクトとか、そういうレベルじゃなくても自分をむしばむものはあって、あまりそこに執着するとそれこそ弱者の暴力みたいになるから自分がセンシティブだということを発露して誇る必要はないけれど、それでも他者から見た程度ではなく、自分が「嫌だと思った」という事実こそが、自分にとっては一番大事だと思う。
「その程度は痛くないよね?」という言葉が一番辛かったりもする。痛いと思うわたしが悪いという思考回路に陥ってしまうと、もう死んでしまうしかない。
生きていると段々鈍感になる術が身に付く、少なくともわたしはそうで、だから例えば他者から向けられる悪意とか、肉体的苦痛を伴うものでなければ無視できるようになるし、でもその反面、だれも悪くない現象に対して傷ついたりすることもあり、匙加減が難しい。 先日テレビで外国人男性に「日本人女性と母国の女性どちらが魅力的ですが」というインタビューが放送されていて、もう360度の違う角度から突っ込みどころのある企画だったのだけれど、もう突っ込んでいても摩耗するだけで仕方がないからスルーする、そういうの、表面だけ見てみれば何も考えていなかったころと同じなんだけど、確実に何かが違う。


色んなことをうらやむことがここ一週間くらい多くて、でもそれは全部わたしが選んできた結果だから筋違い、だけどどうしようもなく羨ましくなることがあって、ばかみたいだなと思う。わたしはたいてい、夢の中でも報われることはなくて、報われるというか、現実世界でやさしい人たちが口にしない拒絶がはっきりと言葉や態度になり自分に突き刺さるという夢ばかり見ている。例えば人間は、程度はあれど、自分以外の人を「気付いていない」と思う節があると思っていて、少なくともわたしはそうで、でも案外みんな賢くて聡く周りを観察していて、わたしのことも冷酷に客観的に評価されているのだと思う。「わたしが見られている」という意味ではなくて、例えば自分が他人を無意識で評価しているとすれば、自分もそうされていると自覚するべきなのだと思う。


わたしタコスというもの多分食べたことがなくて、だから食べてみたいなと思っているのだけれど、どこに行けば食べられるのか全然わからない。

同じように売られていたから、さくらんぼと苺のお酒を同量買ったのだけれど、わたしが好きなのは苺のほうだったなと思って後悔している。




2014年4月3日木曜日

じぶんメモ:3がつ本まとめ

びっくりするくらい読まなかった。春は鬱々としてしまうので、本が読めなくなる。


20140403-01

酸素を吸って二酸化炭素を吐くという行為、息苦しさを意識した途端にやり方が分からなくなって今すぐ失神したくなる、失神すれば無意識でスムーズに呼吸ができるはずだ。
鼻も口もフリーの状態で酸素がいっぱいのこの地上で、人間は恐らく精神で窒息する事もあるのかもしれないと東京駅丸の内口で一瞬思ってしまって冷や汗が出た。どんだけ精神力強いんだよ、地上で意識で窒息死。例えば食べた物を消化吸収することや、心臓を動かして全身に血液を循環させるということについては「どうやっていたんだろう?」って思い悩むことは全くないのに、どうして呼吸だけこんなにも難儀なのだろう。浅い深呼吸をしながらカクカク歩くわたしを追い越していく人たちはみんなスムーズに呼吸が出来ているように見える。でももしかしたらわたしが知らないだけで、年間かなりの人数が、呼吸の仕方を忘れて窒息死しているのかもしれない。死ぬまで呼吸を(ほぼ)絶えず行い続けなければならないという事実に、わたしはしばしば絶望する。

20140401-01

煙草を吸うのは人生で数度目で、でもその数度も愛煙者に言わせれば吸ったうちに入らないような口の付け方で、だからわたしは自分が格好良く煙草を吸えないということがわかっていたから、火をつける瞬間の緊張は半端なものではなかった。わたしは自分が普段煙草を吸わないということを人に見抜かれては、絶対にならないと思っていた。
漫画や小説で、「普段煙草を吸わない人が火をつける際息を吸わずただ口にくわえてしまって火がうまくつかない」という場面を何度も見ていたから、ライターをそっと近づけられた瞬間にわたしは思い切り息を吸い込んだ。私の煙草には無事に火がついたが息を吸い込みすぎたせいか、一瞬で根本まで燃え灰になって落ちた。動揺を顔に出さないように吸い殻を灰皿に押し付け新しい一本をすまし顔でくわえ、今度は自分で火をつけた。
普段の呼吸――酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すそれ――も、どこまで吸ってどこまで吐けばよいか解らない、つまり普通の呼吸もうまくできないわたしが煙草を上手に吸えるわけは到底なく、だからまるでうがいをするように吸った煙を口の中で転がして吐くしかできなく、その行為は嫌いな煙草の匂いを口内に染み付けるだけの作業に思えて、改めて、どうしてこんなものを摂取しなければならないのかと思った。

普段灰皿を片づける時に目にする吸い殻は短いものでもフィルターがしっかり残っていたから、だからどれだけ油断してもフィルターと呼ばれる根元部分のスポンジのようなところは燃えないと思っていたのに、どの程度消費して捨てたらいいのか解らないわたしの煙草はなんだかスポンジ部分まで燃えてきているようで、つまりは指で挟めないほど短くなり、熱くて思わず唇を開けると煙草はぽとりとテーブルの上の灰皿に落ちた。煙の味は解らないし匂いは好きではないし、なんとなく色が付きそうだしお金もかかるし、煙草というものは難儀だな、と思った。