2013年7月27日土曜日

20130727-02

わたしは今蛍光灯が消されパソコンの画面だけがまぶしく光る部屋で一人でウイスキーのソーダ割りを飲みながらヘッドフォンを装着して、さて、と画面に向かっているところだけど、もうだめだと思ったので、さて、とはじめようとした作業を中断してこの日記を書いている(このブログはわたしの日記のようだけどもほとんどすべて何かの感想や妄想や夢で、実は日記を書くということはひどく珍しいことなのだけど、それはわたしだけの話だ)。

いつぞやELIちゃんの展示に行ったときの日記を書いたけれど(これ)、わたしはELIちゃんの絵が、漫画が、文章がとても好きで、ELIちゃんがELIちゃんをいろんなところにおいてきたときも(これらのシリーズ、うまくリンクがはれない)、ochitemashitaタンブラもすごくすきだったのだけど、もうだめだと思ったのでこの日記を書いている。
ELIちゃんのたんぶら(2013/07/27現在であれば、最新のものからズラリと続いているはずだけれど)を見て喉がグッと鳴った。瞬時にわたしは郵便ポストになりたいと思ってしまったけれどそれは多分間違いで、そうじゃなくて、なんて素敵なのだろうと思ったし、ELIちゃんは字が上手でかわいいなって全然関係のないことをぼんやりと思ったりしている。

生きていて、モヤモヤすることや穴のようにぽっかりと自分に空間が空くことがあり、でもそこばかりに注視しているわけもいかないのでわたしはそういうものをなおざりに処理して日々の経済活動に精を出すわけだけれどなおざりに処理されたそれらは存在し続けるわけで、でもそれらを無視して人生を幸せに終えることも可能、でも確かに存在するその穴やモヤモヤを、ELIちゃんの作品はふんわりと埋めてくれる。誰にもわかってもらえない、言葉にもできない、そういうことを、言葉にできないまんまにふわりと包んでくれるような気がする。せかいにわたしは一人ぼっちで、わたしの戦いはわたしのもので、だからひとりきりで戦わなければならないのだけど一人じゃない気がする、一人で戦わなければならないことには代わりはないのに一人じゃない気がしてしまう。

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わたしは最近「人生の主役とは」と考えていて、人はそれぞれの人生において主役というのはきれいごとで、絶対そんなことはないと思っている。誰かの人生の端役や裏方として全うする人生というものも確かにあって、逆張りみたいにその人にスポットライトを当てればその人が主役になるのかもしれないけれど性質として間違いなくそれは主役じゃないしとか、そういうこと。自分自身について考えたときに、もしかしたらわたしはそれになるのかなと思っていて、でも何が自分の幸いかと考えたときに、例えば、だいすきなひとやだいすきなともだちにものすごく愛されてかわいがられたとしても、自分がからっぽだとしたら、わたしは絶対不幸せだと思った。わたしを救えるのは自分だけで、つまりはそういうことだと思った。わたしの悪いところは、すぐにスーパーマンになりたいと思うことで、例えば誰かの裏方にもなりたいし自分のことも頑張りたければ二人分の働きをすればいいと単純に思ってしまい、その上自分にはそれが(精神力によって)可能だと思い込んでしまうことで、自分への過信でつぶれてしまいそうになることもあるのだけれど何度検討してもそういう結論に達する。

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例えば他人に「君は今どう思っているの?」と聞いたとして、その答えがAであってもBであっても疑うのは容易く、それならば真実は自分の中にしかないのだ、と最近とみに思うようになった。相手がAというならAである、それ以上のことはわからないし、もし相手が本当はBであるのにAだと答えたならばそれこそが相手の答えであり、つまりはすべて自分自身が納得できるかどうかだ。そもそも他人に何か答えを求めるということからして間違っていて、本当はそれは自分で読み取らなければならないもの、わたしが欲している答えはたいていそういう性質のもので、だから知らない誰かや知っている親しい人に背中を押してもらおうということ自体が間違っている。
でもそういうとき、ひとりきりで頑張るのはとてもしんどい。ひとりきりで頑張るものだし、ひとりきりで頑張らなければ意味がないけどやっぱりどうしてもしんどい、そういうときにふんわりつつまれたら、よくわからないけど喉の奥がグッとなってしまう。わたしの人生はわたしだけのもので、わたし一人だけのもので、だけど一人なことにしんどくなったとき、こうやって誰かの行動や絵や漫画や文章が救ってくれることがあって、それらがわたしを救うためのものじゃないってことにまで救われて、上手に言葉にできない分、わたしの喉が鳴る。




20130727-01

7月24日の誕生日の友達が3人いて、高校のときまでは4人いたのになって思っていて、わたしはそのせいで、車があんまり好きじゃない。7月24日の誕生日の友達のうち一人のプレゼントをレターパックでさっき投函した、あれは海を越えて彼女の元へ届くのだと思う。7月28日の誕生日の人へのおめでとうメールをさっき下書きして保存した、添付の写真の日時を見られたら事前に準備していたことがばれてしまうし、わたしが一番にメールを送れるように、今日の11時58分にアラームをかけていることは、この日記を見てしまったあなたとわたしだけの秘密にしておいてほしい。

2013年7月24日水曜日

20130724-02


「結婚しよ」って冗談みたいにいわれて、冗談みたいに「はい」って言って、気づいたらおなじおはかに入ってたらいいな。



20130724-01

強い音楽を聞きながら強い小説を読むと頭の中がぐちゃぐちゃする、耳と目とで脳を引き裂かれるようで、音楽にも文字にも集中できないけど、たれ流される音楽はそのままに流砂を泳ぐように無理矢理文章を読み進めていくと脳味噌と意識がぐちゃぐちゃ汚らしく混ぜたサラダみたいになる。音楽を聞く耳と文字を読む目がそれぞれあるのに処理をする脳味噌は一つなんだと切実に思い知らされる。

強いというのは激しいとか刺激的なという意味ではなく心がかき混ぜられるようなという意味で、最初から心がかき混ぜられるものだと覚悟ができていれば脳味噌もそれだけに集中するけれど名作や名曲や思い出が付随するものではなく聞き流せる・読み流せると思ったものから不意打ちで受けるミキサーみたいな衝撃は、感じた瞬間耐えきれずにブレーカーひとつ落としてどちらかに集中することもあるけれどこうして引き裂かれてどちらもきちんと頭に入ってこないまま消化不良で飲み下すこともあり、それはとても贅沢だけれど苦しい行為で、続けるうちに強い音楽や小説そのものよりもあたまのぐちゃぐちゃ具合にばかり意識が行くようになり、音楽を聴いて文章を追いながらなにが今わたしの琴線に触れていて、なにが今ミキサーの刃となってわたしをかき回しているのだろうとか考えてしまう。

音楽と文章には相性があるけどそれすら合わせない、出た目のものをぐちゃぐちゃ混ぜるみたいな行為は意識してできるものじゃなく、いろんな条件が重なって偶然発生し、その上でわたしの体力と気力があるときだけ楽しめるものだけどその苦行で無為な行為がわたしはほんのすこし好きで、だから今日わたしは中央線で26分間、ミキサーされていました。

2013年7月6日土曜日

20130707

藁人形でかみさまを作りそれに毎日祈りをささげる、そうしたら藁人形にいつか命が吹き込まれ本当のわたしだけのかみさまになるかもしれない。本物なんて誰にも定義できなくて、もうそれはわたしが本物だと思ったら本物だというそれこそ宗教みたいなものなのだと思う。誰かが何かから救われた状態というのは何を指すかもわからなくて、もうすべて本人の心構えで、でもなにより間違ってはいけないのは、たとえそれがひどい状態だとしてもそれを選んだのはその人であって、決して藁人形のかみさまがわるいわけじゃないんだよ。

2013年7月2日火曜日

じぶんメモ:6がつ本まとめ

7月は意識的に読む量へらそうとおもってる。
6月は、25日の新刊ラッシュがやばかったです。

読書メーターで、なるべく感想をかくようにはしてるのだけど、
管理のためにはしかたないというかわかれてないとこまるけど、
文庫やハードカバーやキンドル版がそれぞれ別だと、
読書人数も、そして母数が違うゆえのみんなの感想がぜんぜんなかったりして、
たまにキンドルで読んだのに普通版で感想書いたりしちゃう。