2014年3月30日日曜日

20140330-01

桜の花は酸素を吸収して二酸化炭素を吐く、だから春は桜の花とわたしとのどっちが生き残るかの生存競争の季節とも言える。今日もわたしはその戦いに負けかけて桜の花の力が及ばない地下に逃げるも都営大江戸線は酸素を燃料にして走っていて、だからここでもまた酸欠だ。涙目になりながらわたしはいつも空気をどうやって吸って酸素とその他の成分を分別して肺のどこまで入れてどのタイミングで吐き出していたか思いだそうとするけど全く全然思い出せない、人生の敗北だ。マスクをするのを忘れてしまったから酸素じゃなくて花粉ばっかりを吸い込んでる気がする。
桜の木も大江戸線も全部燃やし尽くしてしまえばわたし何物にも遮られることなく十分に酸素を吸えるのかなと思うけど燃やすと酸素も燃焼する、わたしの考え is オール下策。

2014年3月28日金曜日

20140328-02

寝転がって泣くと涙が髪の毛に付き朝起きたときの寝癖が酷くなる、だから泣くならせめて上半身を起こすべきなのだけどそうするといつまでたっても眠れないから仕方なしにわたしは明日の朝の憂鬱を覚悟する。
3年経っても5年経っても色褪せないどころかますます濃くなる後悔の念に、そろそろ本腰を入れて一生向かい合う覚悟をしなければならない。あ、これは一生モノだなとずっと感じてはいたけれど年数を経るごとにその確信の深刻さが浮き彫りになる、だから来年は今年よりもきっとしんどいのだと思う。

20140328-01

他人が幸せな理由を自分にも当てはめてなんとか毎日ハッピーに生きようと思うけど全く当て自分にはハマらなくてそれは例えばわたしが頭を撫でられるのが好きなように/牛肉や生魚をを躊躇なく食べられるように/かみさまを偶像にできるように、わたしの文化にハマらなかったというだけのことなのだと思う。「たかが」と思うそれに他人が何物にも代え難い価値を見出すとき、その価値がわたしに理解できないことと、価値が本当はないことは、イコールじゃないから同時に成り立つ。

2014年3月26日水曜日

20140326-01

カジュアルかつポップに飛び降り、春は絶好の行楽シーズンでわたしの春は毎年カジュアルかつポップだ。みんなが「今日は暖かい」と声をそろえて言うけれどわたしは寒いのが怖いから冬のコートを着ている、寒いことは怖いことだ、でも暑いより寒いほうが好きだ。
厚着をすると安心する、分厚いコートを着るとほんの少し安心する。いくら防御力が高くてもあぶない水着とかわたし着れないと思う。


生き延びるためにたくさん眠っている、本も読まなくなった。悉く色々なもののタイミングが悪くて些細なことで泣きたくなる、他人からの拘束時間以外眠り続けたいのだけれどそれってつまり死んでいるのと変わらないよなともう10年以上考えている。わたしが働く理由は金銭よりもある意味それが大きいなと思う、 「仕事」という題目で拘束されないと明日まで無事に過ごせそうになくて、家族とか恋人とかペットとかよりも他人にかける迷惑もしくは他人に何か寄与できるものがあるという事実のほうが、わたしを地面に繋ぎとめる力が強い。


簡単に折れる芯は折らないように細心の注意を払い続ける必要があり、また一度折れると復旧に3年はかかり、だからわたしは今毎日毎時間毎分毎秒、薄氷の上を歩くように過ごしている。

2014年3月23日日曜日

20143023-03

「弱肉強食」と「淘汰」という単語を使うと、たいていのことは、運命として受け入れられる。

20140323-02

たくさんのものを捨てた、古着のワンピースや書きかけのノート、錆びついてしまった指輪、買って開封すらしなかった小物たち。ものをたくさん持っているといざという時不便だから、それでもやっぱり生活していくにはすべてを捨てるわけにはいかなくて、だから結局わたしの身の回りはとても中途半端だ。


低気圧と、女性ホルモンと、春と、そういうもののせいにしてしまえばなにか救われる気がするのだけれど、死んだように生きるのは本当につらいなと思う。風邪をひいてしまった時のように「暖かくして眠る」とか、適切な処置方法がわかっているならまだ楽なのに、いくら寝続けても一向に良くならなくて、じゃあどうしたらしんどいのを終わらせられるのかなって思うともう答えは出ていて、でもそれは本当に取り返しのつかない行動だから、熟考が必要なんだと思う。


相変わらず本を読んでいるけど読書メーターを開き「既読」のボタンを押す作業すら億劫で、でも記録しないと読み終わった本はわたしの頭の中からボロボロ落ちてゆく、それはつまり、最初から何も読んでいないことと同じだ。例えば単調作業の反復だけの携帯ゲームをするよりも本を何冊か読むほうが有意義のような気がするけれど、わたしのように読み終わった端からボロボロ忘れていくのなら、それとこれとの間には、大差はないなとそう思う。


熱いお風呂に長時間入ると目の前が真っ暗になって立てなくなる、湯船につかっている間は案外平気な気持ちでいるのに上がった瞬間足がふらついて目の前が暗くなる、その度にわたしは「これがのぼせるという現象かー」と思う。のぼせるとわたしはたいてい、体を雑に拭きバスタオルを体に巻いてリビングのソファに座ってぼおっとする、そうしているうちにたちまち湯冷めしてもう一度湯船に浸かろうかなと思う、この反復作業は、非常に無駄だなあといつも思うのに繰り返してしまう。



調子がよくなくて、そうすると料理が全然できない。調子が良く無くなくても、ただ忙しいだけでもすぐ料理を作る気がなくなってしまうから、要するにわたしがなまけものなだけかもしれない。
ゴミを捨てる、食器を洗う、必要な電話をする…程度のことが調子が悪いとできなくなって、だからわたしは自分の手帳のマンスリーに、それらを箇条書きにする。終わったらひとつひとつ、棒線をひいて消してゆく。朝起きる、ごはんをたべる、猫にエサをあげる、トイレ掃除をする、その程度のことは当然過ぎて本来ならば日常に埋もれてしまうこと、だけどわたしはそれらが一世一代の大仕事に感じるから、いちいち手帳に箇条書くのだ。やるべきことをやった感じがする、「誰も褒めてくれない」というのは裏を返すと「誰かに褒められたい」ということで、つまりわたしは何か行動をするとき、誰かに褒められるためにでなければ動けないということなのかなと考える。誰にも褒められなくて認められなければ、朝起きたくもないし、ごはんもたべたくないし、いろんなことをしたくない。たとえその「いろんなこと」が誰のためにもなっていなくてわたしのためだけの行動だとしても、それでも多分誰かに褒められないとどうしてもできなくて、だからわたしは自分で自分を褒める。生きていて偉いねっていうレベルで褒められないと、吸って吐いてを混乱せずにちゃんと呼吸ができて偉いねと、そうじゃないと息すらできないのだと思う。


早く時間がたたないかなと思う、待ち続けながら死んだように生きるのであればショートカットしちゃえばいいのにと思うけど、なんだかんだ言い訳しながら、ずっと待ちわびたりするのだと思う。

20140323-01

調子が悪くて外に出られなかった、ソールドアウトした3500円プラス手数料アルファのチケットは無駄になったのではなくてわたしの一時の平安に対する安価で、だけどこの時期数か月後の予定を入れるのは危険だな、と思う。ごっこを超えるとそれは切実になり、だからこそ緩やかで穏やかな波がわたしはひどく怖い、久しぶりに、昔の自分の馬鹿さ加減に泣いた。
やるべきことは多分あるしやりたいこともあるんだろうけどなにもやる気がしなくて、何もやる気がしないと要するに暇で、だったらどうしようと考えたときに眠るかそれかが選択肢に上がるのは絶対に間違っている、でも毎日生活するのに例えばきちんと社会生活を営んでお金を稼がなければならないってわかっているからわたしの崩壊は唐突にはもう訪れることがない。

4月2日は誕生日と同時に命日なんだと思う。もしわたしが今幸せじゃないとすると、そうなる運命だったってだけのことなのだと思う。例えば似合う服似合わない服があるように、幸せとかそういうものにもそういうものがあって、似合う似合わないというよりは適切不適切、使いこなせるかどうかという種類のもの、だから今わたしの目の前に開けたら幸せになれる宝箱みたいなものがあっても、わたしはそれを開けないし、多分その幸せは、わたしにとってはあまりおいしくないものなのだろう。


失敗したときのことを考えて行動を思いとどまるのは臆病なんじゃなくてリスク回避。デメリットやリスクをあげつらって行動を思い留まるのは得てして言い訳と言われがちだけれど本当にそれらがブレーキになっているのだから仕方ない。いいからやっちゃえよ、という声はこの場合適切ではなく、それ以前に適切不適切未満の問題として、わたし以外の何人たりとも決断のアクセルやブレーキにはなりえないのだと思う。


4月2日が近付くたびにわたしは不安定になる、4月2日を境目に急上昇するわけでもなくて緩やかに沈殿する。春は本当に、本当によくない。

2014年3月21日金曜日

20140321-02

疾走するキリンは遠くから見ると都市伝説に出てくる見たら死ぬ生き物みたいだった。茶色と白のまだら模様はわたしの車からはまっ茶色の毛玉に見えて、イエティみたいだった。パステルカラーのピンクや水色や黄色や緑のマシュマロの海は遥かかなたまで続いていて、草原みたいにどこまでも続いているそのところどころに大きな樹が生えていた。木陰は強い日差しを避けられ、かつ水たまりがたいていあるから、動物たちはそこここの木陰に集っているようだった。疾走するキリンたちだけが、パステルカラーの草原から浮いていた。

20140321-01

わたしは2009年からずっと間違っている

2014年3月8日土曜日

20140308-01

遊園地に行ってみたいけれど、いま夜にパレードを見たら、泣いてしまうかもしれないと思った。全身で幸せのシャワーみたいなものを受けたら打ち震えて死んでしまうと思った。なんどかそういうものを浴びたことがあって、その度にわたしは死んで、なんでもない朝をまた迎えて生き返って、でも何度繰り返しても、慣れないと思う。
行ったことのある場所と、過ごしたはずの人と、いろんなそういうものをぐるぐるかき混ぜてわたしは頭の中に架空の遊園地を作る。夜で雨だけど雨粒は落ちてこない、でも雨だから、地面に明かりが反射してにじんでとても綺麗で、海の上に立っているみたいだな、と思う。真っ暗な空には小さくチカチカオレンジ色の光がまたたいていて、あ、わたしもいつか、あれに乗ったことがある、と思う。




吐こうとしても弱音しか出てこなくてあーだめだー、と思う。眠たいのに眠りが浅くなってしまって、でも頑張って一日中眠ると頭が痛くなるし、寝だめもできなくなった。体のどこかが常に小さく痛いのはすごく不快だな、外では小雨が降っていて、コンクリートが濡れて車の明かりや街頭を反射して、そういう世界に今はいて、羽田空港や外人墓地にはわたしもう一生たどり着けなくて、それはもう、こちらの世界に来てしまったからなのだと思う。



なかった昔のことばかり思い出すのは久々だな、と思ってる。まだウイスキーがのめなかったころ。

2014年3月7日金曜日

20140307-01

人一人で人一人の欠落部分が埋められるかというと大抵無理、無理じゃない場合というか人というかもあるけれど大抵無理、じゃあ何人いたらいいんですかって言うと何人って言えるわけもなく、そしてそれは別にあなたが駄目だから足りないわけじゃなくて一人じゃ埋めることが叶わないというだけの話で誰が悪いわけではなく、そしてそういう部分はわたしの中にだってあるから、わたしはほんの少しの隙間を埋めて、それでも埋まらない余白部分を、がんばれーって思いながら見てる。

2014年3月6日木曜日

20140306-02

2頭いたシャモアは3頭に増え、そして今では1頭になった。1人だったわたしは2人になり、3人になり、7人になってまた3人になり、そして今は2人になった。日本最後の1頭と言われるととても悲しい気持ちがする。わたしがいるから、最後の1頭ではあるけれど、一人ぼっちではないな、と思う。
哺乳綱偶蹄目ウシ科シャモア属。偶蹄目と奇蹄目の違いは多摩動物公園のガイドさんから聞いた。わたしは偶蹄目のことを考えるとき、その偶数の蹄で断崖絶壁の岩をつかむのを想像する。多摩動物公園のシャモアは大抵檻の中の急な坂の上の方にいて、たまに檻にくくりつけられた葉っぱを食べにこちらに来てくれることはあるけれど、わたしは最近彼の姿を、遥かかなたのその急な坂の上にしか認めていない。

昨日は11時に眠ったのに、夜中の2時に猫の声で起きた。日本語が話せないのは――もしくはわたしが猫語を解さないのは――本当に不便だ、と思った。猫はわたしの腕の中にすとんと収まる大きさで、この生きものの中でたくさんの臓器が動いていて、働いていて、作用していて、その結果この生きものが思考し動き生きているということは、なんと奇跡のようなことなのだろうと思う。綱渡りのような奇跡だな、とも思う。そんな奇跡がわたしの腕の中にすっぽり収まる大きさで存在しているというのは、ひどくおそろしく、神々しいことだと思う。眠っている人を見るときにも同じことを感じる、自分の母親や父親を見るときにも同じことを感じる。わたしたちはなんて綱渡りの生きものなのだろうと思うし、全ての事象がそうなんだろうな、とも思う。かみさまが、おおきな手で、わたしの脊髄をつぶしてしまえば、多分わたしはこわれてしまうだろう。神様じゃなくても、誰かがわたしのことを潰さないという保証はなく、精緻に作られた生きものの構造が、強大ななにかに取り返しがつかないくらいぐちゃぐちゃにされることを、わたしはニュースを見るたび想像して、恐ろしくなる。それはきっと、ガラス細工の白鳥が粉々に砕かれるより、はるかに絶望的で、悲しく、取り返しのつかないことだと思う。

20140306-01

2月中旬の豪雪もあらかた溶けて、仙台市街地にはもう雪は残っていなかった。これから3日間、修学旅行という名の個人旅行でここに滞在しなければならないわたしはまずはホテルを探さなければならなかったのだけれど、駅でばったり会った知人が、実家に泊めてくれるという。仙台駅から車で20分ほど走るともう雪景色が広がっていて、まだ除雪のされていない細い車道には轍の跡がくっきりと、そこから両輪がはみ出さないよう友人は慎重に車を運転した。
どこまでも続きそうな直線道路と左右に広がる雪原となった畑、100mかそれ以上ごとにポツポツ現れる民家は完全に北海道の田舎のそれで、実家を思い出して懐かしくなる。「あ、あそこだよ」という友人の声で正面を向くと前方右手に赤い屋根の二階建ての家とこれまた赤い屋根の大きな車庫が二つ、車はゆっくりと速度を落とし敷地内に入った。友人の足捌きを全身で感じながらこんな雪道で走行・右折するなんてわたしにはとうてい無理だなと改めて思う。
車庫と民家でコの時に囲まれた敷地内に入ると、自転車に乗った巨大ないきものが敷地内をくるくる楽しげに回っていた。焦げ茶というか茶色の絵の具に黒を混ぜたような色をしたそれは二階立ての高さくらいあり、器用に自転車に乗る様子はまるでかわいらしい絵本の中の動物のようだった。彼は人間になりきって軽快に自転車でコの字の真ん中をぐるぐる回っていたけれど、突然テリトリーに入ってきた車に驚き、そしてその車に乗っている二人が明らかに驚いた顔をしているのを、そしてその中に明らかな怯えを見てとり、わたしたちを敵と見なし、人間のふりをするのをやめた。

友人は何も言わずハンドルを左に大きく回し今来た道を大急ぎで戻る。重力の中心が、右側に移動する。もしかしたらあの民家には友人の両親や80になると言う祖母が残っていて、もし「あれ」が人間のふりをやめ家人を襲うことを決めたならば逃げきれることはなさそうで、そこまで彼女は計算し車をUターンさせたのかなと猛スピードで車に迫る「あれ」を見てわたしは思う。助手席に乗るわたしに逃走を手伝うすべはほとんどなくて、でも少しでも力になればといつの間にか橇の形になっている車から落ちないように注意しながら両手で左右の雪を漕ぎスピードアップに荷担する。前に座る友人に体をぴったりくっつけて右折左折時には体重移動、それでも「あれ」は引き離されることなくついてくる。

同じ建物が何棟も建っているような団地にわたしは住んだことがないから、みんな自分の家がどこか、迷わないのかなといつも思う。唐突に現れたその団地の敷地内に滑り込んだところでわたしたちの乗ってきた橇は壊れ、わたしと友人は建物の陰に隠れる。雪遊びをしていた親子連れや物音に驚いたおばあちゃんたちが何事かとわたしたちを見やるので、わたしたちはかすれた声で後方を指さしあれ、あれ、と叫ぶ。叫んだはずのその声は掠れていて小さく、呟くくらいになってしまったけれどみんな指さす方向を見て、そして迫り来る「あれ」を見る。深い茶色の体毛に覆われた「あれ」は本性をむき出しにしており、さっきまで人間のふりをして自転車に乗っていたなんて到底信じられなかった。
団地の中に隠れようにもいつもは解放されている階段も外壁と同じコンクリートのシャッターが下ろされており、わたしたちと、そのとき外に出ていた人たちはひたすら建物の影に隠れるしかなかった。「あれ」の視界に入らぬように建物に回り込み続け、いい加減張りつめた緊張の糸が切れそうになったころ、市街地の方向から選挙カーの一団がやってきた。
のろのろと走る選挙カーからはうぐいす嬢の声が響いてきていたが、候補者は車には乗らず、選挙カーの横を徒歩で歩いているようだった。たすきをかけた彼は元スポーツ選手の有名人で、太い眉毛の暑苦しい顔はテレビの中の彼と全く同じだった。白い手袋をはめた右手を道行く人たちに振りながら、彼と選挙カーはゆっくりと車道を進む。このままでは「あれ」と遭遇してしまう、とハラハラしながら団地の影から見ていると、「あれ」はまた、どこからか持ってきた自転車に乗り、人間のふりをした。
西友で売ってそうな銀色のママチャリから「あれ」の身体はかなりはみ出ていて、全身を覆うモジャモジャの体毛と血走った目、隠しきれない牙とよだれは明らかに人間じゃなかったから、そんなものが人間のふりをしてママチャリを漕いで歩道を走ること自体に何とも言えない恐怖を覚えたのだけれど、元スポーツ選手の候補者はそんな「あれ」にも笑顔で手を振ってみせた。人間扱いされたことに満足して「あれ」はそのまま自転車でどこかへ行ってしまい、いや、でもだって、あんな姿のものに対して人間扱いして平然と接するなんて、わたしには絶対無理だ、と思う。

2014年3月5日水曜日

20140305-01

すごくねむたくてねむっているから、もう、ゆめもみない。


自動改札で前の人が引っかかる確率、最近上がってきている気がする。「わたしが好きな、わたしのことを好きだった人」がわたし以外の人を好きになることと、わたしのことを好きじゃなくなること、どちらがいやかなと思って後者を選ぶけど、どちらもいやなことには変わりがな いと思う。土曜日から腕時計をなくしてしまって、絶対家のどこかにあると思うんだけど、家のどこかにあると思うとあんまり探す気になれない。誰かどこかで見かけたら、わたしに教えてください。


読み終わった本、時系列と場面がはっきり書かれずに交差していて、その上たくさんいる登場人物が本名やあだ名やペンネームや源氏名や旧姓や偽名を使っていて、訳が分からなくなったので相関図を書こうと自由帳を開いたのだけど4人人物を描いた時点で配置がうまくいかなくなってやめた。むずかしい。あしたもう一度読み直そうと思う。

びっくりするくらいねむたいから、ねむります。

2014年3月3日月曜日

20140303-02

「あした、髪を切るんだ、なぜなら失恋したからです」というと「すごいすごい」と言われた。何がすごいすごいなんだ、と思った。誰にも失恋していないけれど、誰にも失恋していないというこの状況は、果たして本当かな、と思った。本当に誰にも失恋していないのかどうか、わたしには本当のことはわかっていないのじゃないかなと思った。

春いちごのチューハイというお酒を買って飲んだ、久々に、かんかんの、甘いお酒を飲んだ。缶に入った飲み物のことを「かんかん」と言ってしまうのは、方言なのか、個人の表現なのか、どっちなのだろうと毎度考える。でも「缶」じゃなくて「かんかん」だな、と、口に出してみて再認識する。

映画を見に行ったら隣の男の人が、ものすごい勢いでポテトを食べていた。わたしが席に着くまでわたしの席に荷物を置いていた彼は、膝をこう、地面に水平に片足に乗っけるようなやり方で足を組んでいて、 氷だけになったジュースをズズっとすすっていて、このまま本編に突入したらいやだなと思ってわたしはその彼を横目で見ていた。予告が終わって盗撮注意のあの映像が流れ始めたころに彼は突然立ち上がり、食べ物が入っていたトレイを置きに外に出て行った。すぐ戻ってきて、またドカッと座り、足を大きく組んだ。映画の途中でも独り言を言ったり、スマートフォンをつけてみたり、サングラスを外したりかけたりしてみたり、忙しい人だった。



いちばん怖いのは、裏切られるより、裏切ることだとおもう。時間は巻き戻せないし、もう死ぬしかないけれど、死んでも時間が戻らないし、だからもう、どうしようもなくなる。




諸事情により、いまわたしの家には、よいビールが大量にある。わたしは普段、あまくないお酒をよく飲んでいるのだけれど、久々にいちごチューハイを飲んで、あまいお酒が飲みたくなって、だからこのビールのメーカーさんと、ビール好きの人には怒られそうだけれど、マンゴージュースでビールを割って飲んでいる。輸入雑貨屋で買うこのマンゴージュースはとてもどろっとしていて、ビールで割るにはこれが一番おいしい。スーパーで売っているマンゴージュースはさらさらしていて、割りものに使うとおいしくない。ところで、スーパーのジュースの賞味期限はせいぜい一週間くらいだけれど、このジュースは数か月ある。どういう仕組みなんだ、と、考えそうになって考えないようにして、なんかこう濃厚だから日持ちがするんだろうとかよくわからない納得の仕方をして、今わたしはマンゴービールをぐびぐび飲んでいる。



最近書いていた文章がもうだめになって、だめじゃないんだけどだめになって、全然日記も書かなくなって、今日久々に書いたらやっぱり面白くて、どうでもいい文章を書くのは楽しいなと思っている。だからいまわたしは、ものすごく、たのしい。




全然仲良くない、というと語弊がある、仲良くなくないんだけど、長時間は一緒の時間を過ごしてない、という友達(と呼んでいいのかな)のことを、お互いよく知らないと思うんだけど、すごく大切に思う時があって、この気持ちは一方的なものだから、気持ち悪いだろうけど、でもわたしは好きだよ、と思う。人が、例えばものすごく大変なとき、わたしがなにをできるかというと「今度またお茶しようね」というくらいで、でもわたしは本当に真剣に、あの子とまたお茶していろんな話をしたいと思っていて、だからそういうわたしのエゴのために、死なないで生きててほしいなって思う。わたしのために生きていてもなんにもいいことはなくてただただわたしが満足するだけなんだけれど、そんなわたしのエゴが、一グラムくらい、ここにつなぎとめる重しになったらいいなって思う。
好きっていうのは不思議だな、と思う。全然会っていなくても、話した時間が少なくても、そういうひとのことを、わたしは一人でいるときにすごく考えたり思い出したりすることがあって、それはとても気持ち悪いことだろうなって思うんだけど、別に相手に何かを求めているだけじゃなくて、元気でいてくれたらいいなと思う。わたしはあんまり人を好きにならなくて、好きにならないというか興味がないというか、そう自分のことを評しているのだけれど、一方的でよいという条件を付けたら好きな人が結構たくさんいるから、たとえ自己満足であっても、そこそこ幸せな人生なのだと思う。会ったことのない人でもすきなひとはたくさんいて、インターネットはすごいなとおもう。XXといえばだれだれ、と想像する人がいて、それはとても得なことだから、好きなものはみんな、どんどん主張していった方がいい、と思う。たとえその人が一度しかその単語を口にしていなくても、なぜか刻み込まれるみたいなことがあって、何度も言うけどそれがわたしに刻み込まれるというのはとても気持ちの悪いものだと思うのだけれど、電気ブランと言えばだれそれ、上野動物園と言えばだれそれ、万年筆といえばだれそれ、というもの、気持ち悪いとは思うけれど、誰かの心の中にそうやって残るということは、すごいことだな、と思う。



3月31日までに頑張ろうと思っていたこと、多分間に合わなくて、でもまあ一からやり直して頑張ろうと思いながら一か月くらい経って、だからそろそろまた頑張ろうと思う。 別に何も頑張らなくても生きていけるしそこそこたのしいなって思ったけれど、頑張ったほうが、より楽しいなとおもった。


 

20140303-01 にっき

唐突に日記と思い出話をします。

わたしの実家には大量の絵本と乱歩と横溝と星新一があった。星新一は父の、それ以外は母の趣味。趣味というか、母は保母をやっていたから、絵本が大量にあった。それに囲まれて育ったからかわからないけれど、わたしは乱歩が好きで、つまりミステリが好き。
小学校の図書室で乱歩を探したら少年探偵団しかなくて、家では大人向けの、学校では少年探偵団を読んだ。でも将来は探偵じゃなくて、007を見てスパイになりたいと思った。「わたし、CIAに入る」って言ったわたしにお父さんは「がんばってね」って言った。
家にはゲームがなくて、スーパーファミコンとかファミコンとか64とか友達の家にはあったけどわたしの家にはなくて、だから本ばかり読んだ。テレビも、ご飯を食べるときは見ちゃいけなくて、でもそれ以外でも見ることってほとんどなかった。ウゴウゴルーガとかが流行っていたけれど、わたしはとても田舎に住んでいたから、そんなものがやっている時間に家にいられるわけがなかった。わたしが見たことのあるテレビはめざましテレビだけで、小学校の卒業文集に「好きな芸能人」を書く欄があったのだけれど、テレビを全然見なかったわたしは芸能人を全然知らなくて、めざましテレビのキャスターの「なっちゃん」って書いた。クラスの男子に「なっちゃんってアナウンサーの? すきなの?」って聞かれて「うん、なんかいいじゃん」ってごまかしたの、今でも覚えてる。
中学に上がって、体育の時間、校庭でよくわかんない自由時間があって、うちのクラスととなりのクラスの女子で円になって、一人ずつSMAPで好きな人を言うってことになったとき、すごく焦ったこと、これも今でも鮮明に覚えている。わたしはSMAPが何かしらなくて、でも「知らない」って言えなくて、隣の子が「ゴローちゃん」と言ったから、「わたしも!」って言っておいた。

とにかく、だからわたしはミステリが好きで、なんたらかんたら殺人事件ばっかり本を読んでいた。でも海外の作品はどうしても登場人物が覚えられなくて、ホームズもルパンも(そしてポーも)読んだけれどあんまり覚えていない。それは今でも変わってなくて、登場人物が日本の名前じゃないと、どうしても覚えられない。バカなんだと思う。

今日雫井脩介先生の『火の粉』を読んで、めちゃくちゃ怖かったから日記を書いている。悪の教典もそうだったけれど、こういう話、わたしの中ではサスペンスに位置づけられるこういう話、本当に心がしんどい。読んでいてつらい小説と言えば最近読んだ辻原登先生の『寂しい丘で狩りをする』、読み切るの本当にしんどかった。まどマギマミさんみたいに「みんな死ぬしかないじゃない!」改め「先に殺すしかないじゃない!」と思ってしまう。わたしのなかで一番しんどい小説が久坂部羊先生の『無痛』なんだけど、タナダユキ先生の『復讐』も、しんどいというか考えさせられて辛かった。薬丸先生の『天使のナイフ』も。
それと違う方向でわたしがとても苦手なのがバトルロワイヤル的小説。貴志先生の『クリムゾンの迷宮』はみんな知ってる名作過ぎる名作だけれど、わたしああいう立場にもし立ったら(インシテミルとかもそうだね)真っ先に自殺したい、痛くない方法で。多分、「誰かに狙われる」というのが精神的に耐えられないんだと思う。でもその「耐えられない」を差し引いても寂しい丘で狩りをするは本当にしんどかった、もうわたしが作中に躍り出てXXXてやろうかと思うくらいしんどかった。

火の粉があまりにも怖かったからよくわからない日記を書いてしまった。わたし乱歩で一番何が好きなのかなって考えたときに、パノラマ島がすごく好きだけど、鏡地獄が一番に出てくるかもしれないと思ってる。あれ、こわいものみたさで、一度やってみたくもあり、でもおそろしいから、多分できないと思う。
屋根裏のせいで電車で口を開けて寝ている人を見ると不安になるし、あれは現実に起こり得ることだと思うから、みなさん絶対、電車で口を開けて上を向いて寝てはいけないよ。




人生を変えた小説ってそうそうないと思うけど、「別に作品にも作者さんにもそこまで強烈な思いやりがあるわけじゃないのに、よくわかんないのに、人生に深く刻まれた」みたいなものがあるなって最近とても思う。例えば桜庭先生の七竈を、わたしは全世界のそれ(ハードカバーのほう)を買い占めたいほど好きだけど、多分人生にってのとは少し違って、ただ作品として好き。そうじゃなくて、人生が変わるというか刻み込まれるものってあるなって思う。よくわかんないけど刻まれちゃったなって言うもの。今現在わたしの人生を一番変えたのが梨木香歩先生の『雪と珊瑚と』で、何がどう変わったかは誰にも言わないけれど、びっくりするくらい考えが変わった。あとは『ホテルジューシー』。ホテルジューシーのおばあのお部屋のお洗濯の話は、わたしことあるごとに人にしている。あと安吾の(なんで現代の作家さんだと「先生」ってつけるのに、安吾とか乱歩は呼び捨てにしちゃうんだろう。もうわたしのなかで伝説の先生みたいになっているのかな)『青鬼の褌を洗う女』は、人生を変えたというか、できていないんだけど、ああいう女の人になりたいなといつも思う目標みたいなもの。今は全然できていないし、現代社会のせいというよりも「いまのわたし」は目指そうともしていないというかできていないんだけど、すごく良いなと思うから、絶対実現できない、目標みたいなものだなって思う。


 火の粉があまりにも怖すぎて、変な日記を書いてしまった(これを書くのもこの記事の中で二度目だ)。怖い本と言えば、自分の中に強く残っている本と言えば、と思い浮かべて、ツイッターでつらつら書きそうになって、でも長いからブログに吐こうって思って、吐いたらものすごいくだらないものが出てきていま笑ってる。あと宮木あや子先生の『花宵道中』はサイコーだし(宮木先生の作品は全部サイコーだけれども)、『雨の塔』に出てくるフレーズが好きすぎて違うブログタイトルにまるまる拝借した。わたしは本、全然詳しくない、文学とか全く分からないしジャンルもよくわからないから批評というものができないけれど、本がすきだなあと今思ってる。


2014年3月2日日曜日

20140302-01 せかいせいふくのこと

わたしがもし世界を征服するとして、現在ある価値観や文化を全部ぶっこわしての世界征服だとしたら超めんどくさいな。一分とか一秒とかを全世界に周知するところからはじめなきゃいけないのかな、例えばいまsetTimeoutとか書いてちゃんとコンピューターがいちびょう、を認識するのとかどうやって組み込んでるのかわたしわからないし、「はい、……はい! これが一秒です」とか全世界に放映するのかなとか、そう人に言ったら「いや、一秒とか元になる基準があるから」って言われたけどそもそもその元になる基準を考えて分割して一秒を決めるとかからしなきゃいけなくて、世界征服して考えなきゃいけないことってたくさんあって、例えばどこに住むとかみんなのごはんどうしようとか着る服とか、だから一人で時間の単位どうしようとか松屋の食器の色どうするとか食肉どこで育てるとか考えるの絶対無理じゃん、今世界ってたくさんの人がたくさんの方向向いて頑張ってる(頑張ってなくてもそれぞれ進んでいるというか)から今があって、それってめちゃんこすごいことだよなって思った。世界征服するとしても絶対「あーそれそっちで決めといて」って言わないと無理で(松屋の食器の色とかね)、だからどんなことにせよ、一人で全部やるって絶対無理だなーって思った。
それと、めんどくさそうだから、絶対世界征服なんかはたくらまないでおこー、って思った。

 

2014年3月1日土曜日

じぶんメモ:2がつ本まとめ

まんがばかりだなー。あとやっぱり毎度記録忘れが多くて、読んだ後絶対色々思ってるはずなのに記録を忘れるとそれを読んだことすらわすれてしまうわたしはちゃんと記録付けないとと思った。2月は筒井先生のイベント、日にち間違ってて行けなくて、それがもうめちゃんこ悲しい。MUSEのチケットなくしていけなかったときとおなじくらい悲しい。人生の二大悲しいイベントだ。