2014年3月6日木曜日

20140306-02

2頭いたシャモアは3頭に増え、そして今では1頭になった。1人だったわたしは2人になり、3人になり、7人になってまた3人になり、そして今は2人になった。日本最後の1頭と言われるととても悲しい気持ちがする。わたしがいるから、最後の1頭ではあるけれど、一人ぼっちではないな、と思う。
哺乳綱偶蹄目ウシ科シャモア属。偶蹄目と奇蹄目の違いは多摩動物公園のガイドさんから聞いた。わたしは偶蹄目のことを考えるとき、その偶数の蹄で断崖絶壁の岩をつかむのを想像する。多摩動物公園のシャモアは大抵檻の中の急な坂の上の方にいて、たまに檻にくくりつけられた葉っぱを食べにこちらに来てくれることはあるけれど、わたしは最近彼の姿を、遥かかなたのその急な坂の上にしか認めていない。

昨日は11時に眠ったのに、夜中の2時に猫の声で起きた。日本語が話せないのは――もしくはわたしが猫語を解さないのは――本当に不便だ、と思った。猫はわたしの腕の中にすとんと収まる大きさで、この生きものの中でたくさんの臓器が動いていて、働いていて、作用していて、その結果この生きものが思考し動き生きているということは、なんと奇跡のようなことなのだろうと思う。綱渡りのような奇跡だな、とも思う。そんな奇跡がわたしの腕の中にすっぽり収まる大きさで存在しているというのは、ひどくおそろしく、神々しいことだと思う。眠っている人を見るときにも同じことを感じる、自分の母親や父親を見るときにも同じことを感じる。わたしたちはなんて綱渡りの生きものなのだろうと思うし、全ての事象がそうなんだろうな、とも思う。かみさまが、おおきな手で、わたしの脊髄をつぶしてしまえば、多分わたしはこわれてしまうだろう。神様じゃなくても、誰かがわたしのことを潰さないという保証はなく、精緻に作られた生きものの構造が、強大ななにかに取り返しがつかないくらいぐちゃぐちゃにされることを、わたしはニュースを見るたび想像して、恐ろしくなる。それはきっと、ガラス細工の白鳥が粉々に砕かれるより、はるかに絶望的で、悲しく、取り返しのつかないことだと思う。

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