2014年4月6日日曜日

20140406-01

自分の文章には絶対の自信があって、何の自信かというと「何のことを書いているかすぐにわかる」という自信で、例えば他人が見たらわけのわからない文章であっても自分が見るとすぐに何の作品についてか、何のキャラについての文章かがわかって、その作品に触れて覚えた感動がレンジでチンするみたいに蘇るということに対しての自信で、なのに誰かのタンブラー上で見た自分の文章が、いったい誰を思って書いたものだか全く思い出せなくて、だからわたしはいま自信がない。
一年前のわたし、縦読み仕込んでおいてくれよー、と思ってる。

「食器を洗う」「洗濯物を畳む」程度のことも、手帳にわざわざ箇条書きにして線で消している、そうしないと行動が全くできなくなった。最近ネットや本で見た「自己肯定が低い人の対処法」みたいなものに同じようなことが書いてあって、若林さんが「毎日あった些細なこと―― 今日お弁当がおいしかった、XXさんと共演して話して楽しかった―― を日記に書いていて、そうしたら『マイナス思考の治し方』みたいな本に同じことが書いてあった」って話してたのを思い出してる。対処方法は多分、生存本能とかから自然発生するんだと思う。

毒親についての本を読んだ。インターネットで他の人の感想を見たら「この程度なら全然深刻じゃない」みたいな感想があって唸った。遠距離恋愛をしているひとたちのなかでは、恋人との距離が遠ければ遠いほど発言力があると言っている人を見かけたことがあって、それと似ているな、と思った。例えば目に見える暴力や事件もののネグレクトとか、そういうレベルじゃなくても自分をむしばむものはあって、あまりそこに執着するとそれこそ弱者の暴力みたいになるから自分がセンシティブだということを発露して誇る必要はないけれど、それでも他者から見た程度ではなく、自分が「嫌だと思った」という事実こそが、自分にとっては一番大事だと思う。
「その程度は痛くないよね?」という言葉が一番辛かったりもする。痛いと思うわたしが悪いという思考回路に陥ってしまうと、もう死んでしまうしかない。
生きていると段々鈍感になる術が身に付く、少なくともわたしはそうで、だから例えば他者から向けられる悪意とか、肉体的苦痛を伴うものでなければ無視できるようになるし、でもその反面、だれも悪くない現象に対して傷ついたりすることもあり、匙加減が難しい。 先日テレビで外国人男性に「日本人女性と母国の女性どちらが魅力的ですが」というインタビューが放送されていて、もう360度の違う角度から突っ込みどころのある企画だったのだけれど、もう突っ込んでいても摩耗するだけで仕方がないからスルーする、そういうの、表面だけ見てみれば何も考えていなかったころと同じなんだけど、確実に何かが違う。


色んなことをうらやむことがここ一週間くらい多くて、でもそれは全部わたしが選んできた結果だから筋違い、だけどどうしようもなく羨ましくなることがあって、ばかみたいだなと思う。わたしはたいてい、夢の中でも報われることはなくて、報われるというか、現実世界でやさしい人たちが口にしない拒絶がはっきりと言葉や態度になり自分に突き刺さるという夢ばかり見ている。例えば人間は、程度はあれど、自分以外の人を「気付いていない」と思う節があると思っていて、少なくともわたしはそうで、でも案外みんな賢くて聡く周りを観察していて、わたしのことも冷酷に客観的に評価されているのだと思う。「わたしが見られている」という意味ではなくて、例えば自分が他人を無意識で評価しているとすれば、自分もそうされていると自覚するべきなのだと思う。


わたしタコスというもの多分食べたことがなくて、だから食べてみたいなと思っているのだけれど、どこに行けば食べられるのか全然わからない。

同じように売られていたから、さくらんぼと苺のお酒を同量買ったのだけれど、わたしが好きなのは苺のほうだったなと思って後悔している。




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