2014年5月5日月曜日

20140505-01

例えば家から徒歩5分のおかしのまちおか、そこに売っているお菓子をお土産に買って帰る程度の愛情って小匙換算すると何杯分になるのだろう。バラのにおいのシャンプーや石鹸、バラエキスの入ったお菓子、こんにゃくゼリー、海外のポテトチップスにチョコレート。OLが好んで食べるような、コンビニ売りの小さな袋に入っているくせに若干高いお菓子、そういうものを見かけるたびに全部、全部買って帰って好きな人にあげたい、そういうのっていったい、小匙何杯分くらいの愛情なんだろう?
全然足りない、と思う。そういうものは所詮、何の足しにもならないのだ。
僕の有用性はゼロかもしれない、わたしはほんとうに何の、何の役にも立たない。




「歯磨きは、週に何回程度したらよいですか?」という患者さんの質問に、「毎日、を、おすすめしています」と答えた。「そりゃあ、」と彼は言う。「そりゃあ、あなたは歯科医院の受付をしている、資格があるのかないのかはわからないけど受付をしている。その立場ではそういうまっとうな答えしか返せないだろうけど、あんた自身はどう思う?」そんなことを聞かれてもわたしは同じことしか返せない、「個人的にも、毎日、した方がよいと思います」「毎日?」「毎日」「週に何回、じゃなくて?」「そうですね、ごはんを、毎日、食べているなら、歯磨きもやっぱりその都度」「一生?」「はい」「死ぬまで??」「はい」「死ぬまで一生というのは君、生きている人間にとって永遠と呼ばれる時間だよ、そんなの歯ブラシ会社と歯磨き粉会社の陰謀ではないか」「まあ、あくまで、選ばれるのはご自身ですから」そういうと彼は何も言わずに帰って行った。おだいじに。
誰かに、なんでもいいから、GOを出してほしい人はたくさんいる。肯定してほしいとか認めてほしいんじゃなくて、GOを出してほしい人。だれかに「やれ」と言われてようやくそれをやりたい人。「やれ」という言葉を引きだせなくても、否定的にでも消極的にでも、「そうですね」という言質がとれたらもう、全責任はわたしにGOを出した、わたしに強制的にそれをやらせた、その人にあるのだ。

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