2014年6月23日月曜日

20140623-01

『人に笑えないことを言われてでも空気を壊さないように頑張って笑う』、周りの人にどう思われてもよくなったわたしには二度と訪れない状況だと思ったら違った。そういうの馬鹿らしいって思ってたしそうなっても絶対愛想笑いなんてしない、思っててもやっぱりうまくは行かないみたいだ。例えばその「わたしの笑えないこと」が、本当に1ミリの悪意もなく、初対面の人とうまく話せないわたしを和ませようとした相手の気遣いだって痛いほどわかる場合とかあって、とりあえず俯いて口角上げて、でも追従の言葉はうまく出なかった。
認めると諦めるは同義なのかなと思う瞬間がある。例えば自分と違う考えの人、差異はまぁ差異だよねって思うのは認めることでもあるけど諦めると言い換えられる場合があって、その区別はとても難しい。絶対の正解とか正義なんてないからつまり自分が心地よいのが正義で、だから見つけたその差異を「わたしが正しいと思う」ように強制しようとするのはただの思い上がりで、でも「正しいと強制」しなくても「相手がどうしてそう思っていてわたしはなぜそう思わないのか」を伝え合うのを放り投げ差異の片鱗が見えたらダッシュで逃げて人生に関わりのない人とするの、「これだけ大人になっちゃったらもう人のことは変えられないし合わないなら逃げようね」ってことで、その合わない部分を認め合ってうまくつき合える人もいるけどそうじゃない人もいて、「変える」とか「変えない」とか言ってる時点で不遜なんだけど、つまりその違いってわたしが相手を好きかどうかだけだよなって思う。
別にそんな大したことじゃなくて例えば店員さんに横柄な口をきくとかそういうこと。この人はそうだよなって単に思える人もいればそれだけで嫌いになる人もいるし「わたしはそれはあんまり好きじゃないな」って伝えようと思える人もいて、すごく単純なそういうこと。
峰なゆかさんが何かの雑誌で、セクハラされても笑ってかわすのが一番楽だしスムーズだって知ってる、だけど今は自分自身とほかの女の子のためにもちゃんと怒ることにした、みたいなことを言っていて、わたしもそうなりたいのに、まだ全然だめだ、と思った。めんどくさいことから逃げたいし、めんどくさい人はヘラヘラ笑って無難に逃げてわたしの人生から閉め出したい。それって全然優しくない、自分にもほかの同じような目に遭う人にも、でも頑張るのは磨耗するからわたしは笑ってダッシュで逃げて、それでも次はちゃんと怒れるようになりたいなって思ってる。

0 件のコメント:

コメントを投稿