2014年6月29日日曜日

20140629-02

全然羽根木公園に行けてないからあそこは果たして実在したのかなって思ってる、グランドピアノとたくさんの遊具、みんなでカレーを作って遊んだり、あれが本当のことだったのか、もうわたしよくわからない。行きたい行きたいって言いながらもう10年近くたって、あのとき遊んだ小学生も多分いまはかなり大きくなっているだろう。秘密基地みたいな小屋の屋根に登る子供やたくさんのボールとか、ああいうの全部、本当にあったものなのか、わたしもう今は確信が持てない。



「あのね、わたし、君とどこそこへ行ったって言うのものすごく覚えているの、馬の銅像見たなとか、外人墓地の近くを通って、そのときわたしは助手席を倒して眠っていてでも日の出が見えてまぶしかったとか、空港の近くのどこかでひたすら海と飛行機の明かりを見たなとか、そういう、すごい観光スポットじゃない、ただの道端みたいな記憶、でもねたとえばディズニーランドとか海ほたるとか、そういうところに誰かと行った記憶、結構な観光スポットなんだけど誰と行ったか全然思い出せないの、それって心底本当に、どうでもいい人と行ったってことだよね」って言ったら「そうだね」って返ってきたからほっとした。なんてことない道端の記憶が残っているのはとても不思議、でもすごく残ってる。好きだよって言ってくれるのに絶対付き合ってはくれなかったわたしの好きな人に彼女ができて、その彼女と早々に別れてすぐさま次の彼女ができて、それを知ってもういやだ帰りたいと思って、でもここまで好きな人の車に乗せられて来たし駅も遠いし一人でなんて帰れないと思ったときに連れ出してくれたこと、人にからかわれても全部無視して一緒に逃げてくれたこととか、そういうの全部覚えていて、住宅街の細い道を歩きながら撮影スポットを探したなとか、わたしは車止めのコンクリートの上を飛び石みたいに歩いたなとか、そういうの全部覚えていて、わたしはただでさえ記憶力がないんだけど変な事ばかり覚えているなとか、そういうの、多分、どうでもよくないから覚えているんだなって思って、だから「そうだね」って返してくれて、わたしも「そうなんだな」って思った。



例えばわたしにできることは何にもなくて、僅かな経験から得た知識とか、そういうものをつらつら話すしかできなくて、でもそれだって専門家じゃないし正しくないから君のためになるかはわからなくて、つまりはやっぱりわたしにできることは何もない、だけど毎日ご飯を食べてちゃんと眠って、健康的に過ごしてほしいなって思ってるし、でも幾らわたしが切実にそう思ったって何にもできないことには変わりがなくて、だからそう思っていることは、口にしないようにする。



例えばわたしたちの性別が違うとして、相手に抱いているのが恋愛感情じゃない場合、そういうときに一番近くで寄り添うってのはなんだか違う気がして、本当は違ってないのかもしれないけれどわたしたちの場合はなんだか違う気がして、すごく大切に思っているとか心配しているとかそういうのを表すのはわたしたち自身にも周りにも誤解を生む気がするから黙ってる、自分でも説明しづらい気持ちだなと思う。わたしにはいつも好きな人がいて、それは絶対君じゃない誰かだ。
わたしはわたしでうまくやるし、君は君でうまくやるんだと思う。人生の伴侶みたいなものでもないし、同性の友達でもないから、もっと若かったら同性の友達と変わらず付き合っていたけどもう大人だから色々考えたりして、その結果適度な距離感を持ってわたしたちは付き合うんだけど、 夜の底に突き当たって沈黙に耳が痛くなった時には、生クリームの入ったメロンパンをわたしは思い出すんだろう。何もできないししないけど、健やかに生きてほしいなとかそういうこと、わたしは滑稽なほど切実に思ってる。

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