2013年11月9日土曜日

20131109-02

例えば輪郭をうっすら知っていても、分かってしまっていても、それでも目の当たりにすると耐えきれないような出来事があるとすると、わたしにとってそれは、「暴力的」とでもいいようがないようなものになる。

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すきな人の作品に対して私情を挟まずそれを鑑賞するということ、昔のわたしならばできていたはずなのにどうしてもできなくなってから一年弱、でも邪念みたいなものにとらわれて素直にそれを見れなかったりしたのは最初だけで、もちろん何かのフィルタはかかりっぱなしなのだろうけれど、追っているうちにきちんと物語に入り込んでしまうということは、もうそのものが、そういうことなのだろうと思う。多分わたしは正しい鑑賞者ではないのだと思う、どうしてこうなのかなとも自分で思う。
今まではこんなことなかったのに、の、正しそうな理由を挙げることは実は簡単なのだけれど、それを差し引いたっておかしいと思うし、つまりは今のわたしは正しくないのだろうな、と思う。 思うのに、これ以外にどうしようもなくって、でもぬかるむ足元を踏みしめてちゃんと繰るには勢いづけなきゃダメで、とにかく思いつく手段を使ってわたしは今こうしてここにいるのだけれど、どうしても、わたしの口から出るすべての言葉が、間違っているとしか思えない。


立ち位置や立場や役割、どんなに優れた人でも誰かの父親母親兄弟恋人友人子供全部にはなれなくて、それをひたすら悔しいと思うときがある。わたしはここ最近ずっと、それがとても悔しいなと思うけれど、それは例えば反転して自分に当てはめたらすぐわかるしょうがないことで、でも悔しいなとは思ってしまうから、ひとりでパソコンに向かって文章を書くのです。重ねるごとに、私情というか色眼鏡が取れて純粋に見れてしまうこと、すこし怖いけど、だからこそすごいなあと思う。わたしが君の作った作品を好きだということ、明言は死ぬまでできないと思う、知られてはいるだろうけど明言はしてはいけない気がするし、しないだろうと思う。もしかしたら勘違いかもしれないけれど、なんとなく、することは適切ではないのだろうな、と思うから。でもわたしは本当に、



明日はエビをスーパーで買う。

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