2013年3月20日水曜日

20130320-03

「わたしはもう、だめかもしれない」と丁寧に発音する。「わたしは」の「わ」、「もう」の「も」、ダブリューとエムの発音。

どうして嘘の約束しかできないのだろう、と思う。もうわたしおとななのに、こんなのいやだなと相談をする。褒め言葉が、本当に皮肉にしか聞こえないことがあって、悲しいことにそれは多分事実で、頭の中でソロバンはじいてわたしは耐える。どうでもいいひとに陰口を言われることにすっかり慣れて、たとえば直接的に暴力を振るわれたり嫌がらせをされる、そういうことがなければ別にもういいかなって思ったりもするけどボディーブローのようにきくそれの、威力にわたし気付いてなかった。

やりたいことがあって、自分できめたやらなきゃいけないことがあって、でもそれは明日とか生きるとかそういうものに直結してしまうもので、だからわたしは動けない。生産的な行動、生産的行動を効率的に行うための精神状態に自分を持っていくのは簡単で、でもわたしそれはお給金の発生する仕事に対してじゃないとしたくない。きみのつくったものがとてもすきだよ、と、言い続けるのは酷なのかもしれないとふと思う。きみのつくったものがとてもすきだよ、と、今になって呪詛のように言い続けてみたってじゃあきみが生きている間、わたしはそれをきちんと伝え好きなりの行動をしたかと問われれば否で、じゃあわたしはきみのつくったものがとてもすきだよと、今言い続ける権利があるかとすると多分否、それになによりきみのつくったものは多分きみの過去でもあって、きみが望む望まないに関わらずきみはもうそれを作れないし作らないし、なぞりもしない。だからわたしは口に出さない、だからわたしは自室で一人、きみのつくったものをなぞって泣く。


わたしがいま好きだと伝えるべきものや人は多分目の前にあって、それらは生きていて、だから生きているうちにわたしははやくそれを好きだと伝えたり、好きなりの行動をしなければならないのにどうしてもだめで、そうするときっと、こないだした(そして一生引きずるであろう)後悔みたいなものが、どんどん増えて積もるのだとおもう。それを知っているのにわたしはどうしても行動できないから、ほんとうにほんとうの、ばかなのだ。




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