2013年8月10日土曜日

20130803-01

わたしはこれを直接本人に言えないから穴熊みたいにここに篭ってここで書く、わたしやっぱりフィクションには、圧倒的ハッピーエンドをむかえてほしい。
それをそのままフラットに見られないわたしは、いろんなものに勝手に自分を重ねてぐっとくることが多々あるのだけれどそれがとても顕著、そうしてそういう感想はとても失礼なものだとは思うけれども琴線に触れて泣かされたのも、わたしがこれをとても好きだというのもすべて事実で仕方ない。
そのもの自体もすごく好きだし透かしてその奥を見てしまったり、個人的体験を重ねてしまってすごく心がざわざわする。人が泣いたり傷付くシーンがひどく辛くて、知ってたはずの台詞も予測できた結末も窒息寸前の酸素みたいに焦がれて待ち続けて与えられたみたいで、でもまだ酸欠だから完璧なハッピーエンドが、わたし、見たい。
生まれてしまったひよこを目の前にしての鶏が先か卵が先かの議論はとても意味のないもので、だから理由や因果やそういうものを考えても考えなくても解明されてもされなくてもわたしがこれをとても好きで電車の中で泣いてしまって慌てて顔を隠そうとするも文庫本が小さくて隠しきれなかったり、カバーを取って持ち歩き用にしている一冊のほかに保存用としてもう一冊購入したのも事実だから仕方ない、別に誰にも伝えなくてよいことだけれどこのブログにも何度も書いているように好きなものを大好きだと叫びたくなる衝動が訪れるときがありそれが今だから書いている。好きな人に好きなものを好きだと伝えるのは実はとてもハードルが高いことで、別にそんなこと言わなくても誰も不幸にならないし何より言えないのだけれどどうしても言いたくて、だからだらだら駄文を書いています。

ツイッターで書いたこれ
“わたしは物語をすべて自分自身のものとして捕らえすぎるきらいがあるかもしれない、だからこんなにすぐ泣くのだと思うし、それはそれでひとつの楽しみ方かもしれないけど人と物語の感想のいい合いがこれではうまくできないしそれはなんだかんだでちょっとつまらないし酷く浅い気がする”
“それをそのままにして感動するということもしかしたらわたしはできていなくてだから余白を想像できないし、Aというキャラに対しての気持ちではなくわたしに透かして見たA’というキャラひいては自分のA’’という状況への思いに瞬間で摩り替わっているのかなと思った”
“百人百通りの物語の鑑賞方法でよいのは勿論だけど、自分が自覚し ている限定された冷静に見られない作品だけではなくすべてのものに対してそうなのかもというか 摩り替えはいつか起こるのだけど瞬間過ぎないかなというか  物語自体の余白も余韻も1pxもないのはどうかとか”
 わたしの鑑賞方法はまさにこれ、すぐに思考が作品からそれる。とくにこれは「自分が自覚している限定された冷静に見られない作品」の最たるもので、でもそれはとても正しくないことだとおもう。それでもどうしても言いたかったから書きました。わたしはこれがすごくすき、心が動いたしなかされたし笑った、すごくおもしろかったしすごく痛かったし本当に最後まであえぐような気持ちで読み進めた。こんなところでばかみたいにばかみたいな文章書くくらいすごくよかったです。

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