2013年1月22日火曜日

20130101-03




「自分の感情がすべて一般的にふさわしくない」

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築いた友情と結んだ赤い糸、積み上げた経験と人脈と思い出。そういうものが人間の本当の財産だと思うけど、そういうものこそが煩わしくて、全部めんどくさくて捨てたくなるときわたしは携帯電話を想像する。
携帯電話を赤いポストにするりと投函する。そんなことしたって困るばかりで、むしろ実際の人間関係なんて携帯の外でつながっているものの方が多いのに、どうしてもそれを想像してしまう。わたしの持ってる携帯電話は未だに二つ折りのものだから、それを逆パカして放り投げてお金だけ持って鈍行に乗って、そんなこと考えるけど実際は、電話がないと不便だし、明日会社だし飼い猫も家で待ってるし、だから想像するしかない。

携帯電話をポストに入れて、わたしはひとりで旅に出る。


いろんなことが煩わしいのは、それらがどうでもよくないからだ。どうでもいいことならばきっと全部簡単に切り捨てられる。すてられないしがらみがこんがらがって絡まるから、解くのに疲れてしまってもういいやって、全部放り投げてダッシュで逃走、どうしたってその誘惑強い。

わたしが今まで人生で失敗したことたくさんある、多分あそこでああしなければ自分を含めた誰もかも一人残らず傷つかなかった、それならきっとその行動がそれに対する正解だったのに。もしその正解を、当時若かったり混乱していたりなんらかの理由で導けなくて間違っていたならわたしはきっと、あのころに戻ってやり直したいって思っただろう。でもわたし当時からそれが正解だってわかっていたし、わかっていたけどどうしても不正解な行動ををしたかったわけだし、正解よりも人を傷つけないことよりも自分の感情を選んだわけだし、だったら多分今私が当時に戻れたからといって、今度は正解を選べるとは到底どうしても思えなくて(結果もそれに至る病も、わたしは当時から十二分に想像できていて、そして現実はその想像通りに進んだので、この結末を知った上でも多分わたしはどうしても無理なのだと思う)、だからわたしは自分が間違っていたとはあんまり思ったことがなくて、だってわたしなんだから、それ選んじゃっても仕方ないよね、って思う。

わたしのなかでは多分「しかたない」がすごく大きくて、それは諦念のようだけど、諦めじゃなくて認めているだけだ。


自分に関することや自分が主体で進んでいく物事に関しては多分正解があるのだろうけど、そうじゃない、ましてや自分の好きな人でもない、第三者がからんだ問題だと、わたしも正解はわからないかもしれない。
そこに対して正解を探したりはもちろんするんだけど、間違ってもあんまり悔やまないのは、わたしがそこのことを心底では、どうでもいいと思ってるかかもしれない。




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