2013年6月30日日曜日

20130630-01

ひとが死ぬけど自由なせかいと、ひとが死なない不自由なせかい、どっちがしあわせなのだろう。





防音のおうちにすみたいな、と思った。実家は田舎なので隣の家まで100メートルあるし、その次に近い家は数キロ離れている。わたしにはやりたいことがあって、でも全部やるのはなかなか大変で時間は1日24時間しかなくて、考えてしまうと結局一歩も動けない。すべてのことを客観的に見られるとしたらそれはきっとただの勘違いで間違いで、でももしわたしが今のわたしを俯瞰し正当な判断を下すなら「その贖罪はまちがいだよ」と言う、でもこうするほかに術を知らない。

偽者の神様を創りそれを崇め奉るようなまね、自分の慰めにしかならないのはよくわかってる。



あなたは情が深いから、と言われたけれど本当はまったくそんなことなくて、その人がそう判断したわたしの情の深い行動も自分の利になるよう計算しつくした結果だし、打算は仕事の上では褒め言葉で、わたしが打算的に動かないのは、本当に好きな人のためにだけで、つまりそれ以外のすべての情ある行動は、本当はわたしの益になったり損を回避したり、もしくは何かに許してほしいが故の自分勝手な行動で、わたしはそれを、きちんと自覚し続けなければならない。


たぶんわたしはわたしが思うより、全然まったくいいひとだ。自分が特別に酷い存在だと勘違いすることは、とても傲慢なことだと思う。自分が特別に酷い存在に生まれついたと勘違いすることは、他者に対しての暴力でしかないし、 子供っぽくて滑稽だ。自分が善人だと信じてやまないひとも鬱陶しいけど、自分が特別の悪人だと誤認しているのも面倒で、わたしは良くも悪くもない、でも平凡なド真ん中ではなく、まったく特別でもないけれど標準でもない、だれもがそうであるように、正しい把握は難しい。




一人でパソコンに向かい合っているとすかさず猫がひざに乗ってくる。暑いのによくやるなと思うけど、自分を慕ってくれる生き物がいるのはすごくしあわせだ。
自分のものではない心臓の音を聞くと安心する。




かみさまになりたい人がいて、馬鹿じゃないのなれるわけないじゃないと思ったけれど、そこに到達するまでの階段を、一段一段組み立てられるから神様なのだと思った。到達したい地点と今を、むすびつけることはむずかしい。でもだれか一人の理想の世界が、他者にとっても理想かというとそうではない気もしてしまって、人間は勝手だな、と思う。
精神的肉体的に痛みを加えられず、安心して眠れてごはんが食べられる、それさえあれば幸せだと思うのに、誰かに管理された世界でのそれが無常の幸せだと思えないのはなぜだろう。じゃあ誰にも管理されない、人と人が自由のために殺しあう世界が正しいのかといわれたら黙るしかなくて、幸せになるための一番簡単で確かな方法は、視野を狭めてしまうことだなと思う。でもそれはイコール思考停止で、それは本当は間違っている気もするけれど、完璧な答えなんて本当はどこにもなくて、じゃあ自分で自分を納得させることだけが真実だとすると、どんどん世界が狭まって、そうするとだんだん眠たくなって、だからわたしは常に眠たい。

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