2012年7月14日土曜日

20120714-01

わたしのすきなひとはことごとく、わたしと一緒にいないほうが、しあわせになれるであろうひとばかりだ。

「好きなひとのことを考えて、もし好きなひとがいないなら、アイドルでもなんでもいいから、だれかを」って言われて頭に浮かんだ人はみんな大好きな人だけど、わたしはその人たちと「一緒にしあわせになりたい」とは、どうしても思えなくて。「幸せでいてほしい」とは心から思うけど、「一緒にしあわせになりたい」と思う人はいない。好きなひとのことを本当に好きで大切ならば、自分を殺して一番その人が幸せになれる方法を考えるならば、どうしてもその結論に達する。卑下でもなんでもなく、それは絶対真理で、僕の薄い人生経験から導き出された頼りない、でも僕にとっては絶対の真理。真理だから悲しいとか残念とかなくて、悲しいとか残念とか言われてもピンとこない。

地球はまるいし氷はつめたい、そしてわたしのすきなひとのしあわせは、わたしといっしょにいないこと。



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瓦屋根、縁側、干してある柿。そういう「ザ・日本」的なおうちは教科書の中でしか見たことなかった、初めて目にして感動した。田舎特有の広い道はわたしの地元と同じに見えたけど、田んぼや瓦屋根でああここは本州なのだなと思った。わたしはそのころとても危なっかしい存在だったので、24時間、文字通り24時間、人に監視してもらわないと生きていられなかった。「大丈夫?」ってきかれることは多々あったけど、殴られたことなんてなかったから、自死というものを成し遂げる前に存在を殺される恐怖を覚えて意識が逸れた。狭い6畳一間に3人暮らしであったので、お布団を2組敷いたらもうそれだけでいっぱいで、ご飯はお布団の上で食べた。朝晩入る厳しいチェックのせいで、あぶなっかしい行動ができなくなった。親には「お前はいなかったものと思う」と言われていたし兄弟とも連絡を取っていなかった、だからあのとき僕の家族は間違いなく、あすこで暮らしていた2人きりだった。あの頃の記憶はあぶなっかしかった故に残念ながらあんまりない、結局3人で6畳が狭くなって引越しをして、けんかをして限界がきて、半日で家を決めてCDプレイヤーとCD一枚だけ持って引っ越した記憶が一番最後。お布団も持っていなかったから、固い床で一人で寝た、痛かった。一度、実家につれてってもらった。瓦屋根のおうち、柿が干してあって縁側があった。別れ方が別れ方だったしその頃の記憶もあいまい、そうしてわたしは携帯電話を定期的にトイレに流す。だからもう2人の連絡先がわからなくて、そうしたら地震が来て、ああでも連絡ができなくて、いやでも死んでいるわけはなくて、でももし2人が無事だからってあのおうちは、おばあちゃんは、心配だけど、確かめるすべがない。



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この数年間ぼく思い出を作っていないんです。
だから今までの思い出を反芻して暮らしているんだけど、これを咀嚼しきって消化してしまった瞬間多分死ぬ。 残念ですね。
風化というものは確かにあって、忘れたくなくても忘れてしまう。帰り道かかってきた電話や壁を殴った痛み、ギーギー言う自転車をこいだこと、些細なことは覚えているけどだんだんと白みがかかって消えてしまう。残念ですよ、残念です。

生きながらにして死ぬというのはこういうことだと思う、でもそれ以外にすべを知らない。ビニール袋のなかで必死で残った酸素を吸って吐いて、そんな感じがする。 そしてそのビニール袋をはずそうとかやぶこうとか、思えないのが一番の問題だなってのもわかってる。いっそのこととは思うけどまだ袋には酸素が残っていて、だから惰性で呼吸をする。むなしいとか悲しいとかもし思われたとしても、それがぼくの真理だから、しょうがないんだよ。残念です。




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