2012年6月3日日曜日

20120603

赤信号にひっかかりたい、赤信号でひっかかりたい。点滅を見て走る君が伸ばす手を無視して僕はショーウインドウに夢中なふりをする。ちょっと急いでよって怒る声を無視してダラダラ歩く。君と僕の距離はすごく遠くて、それは精神的にも物理的にもどっちもそうで、そして今まで強制的に保っていたその、手を伸ばせば触れられる程度の物理的距離は、明日からもう、約束されない。多分僕は何も言えない、だからせめてこの赤信号のあいだ、手を伸ばせば触れられる距離に、そのくらいなら、願ってもいいんじゃないかな。

なくなる、って分かった瞬間に、無為に過ごした時間を惜しむのはばかばかしい。いなくなるって分かった瞬間に、大事さに気付くのもばからしい。今までそんなに愚鈍に過ごしていたわけでも、永遠に続くかのような楽観的過ぎる錯覚に甘えていたわけでもない。そんなんじゃなくて僕はただ、赤信号にひっかかりたい、ひっかかりたいだけ。
 

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きみのことはすき、すきだよ。でもわたし大人だから、たとえば感情だけではどうしようもないものも結構たくさん、知ってる。 君の鎧や何もかも、そういうものから透けて漏れ出るもののあたたかさも嬉しい、純粋にうれしいし、わたしだってすきだよ。でもさわたし大人だから、わたしがなんにも気付かないふりして前を向いて歩かないと、だめなんだよね。君がゆっくり歩くのも、立ち止まってわたしの背中を見てるのも、全部全部、気付かないふりをする、それが君のことをすきなわたしが、君のために唯一できる、今の精一杯の思いやりだ。
 

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お風呂入ってきました(変化球)。


しぬときひとりじゃないようにねこを飼うっていうかわいい女の子がいたけど、ぼくはしぬなら一人でしにたい。例えば部屋で一人で死んで、残されたねこが餌もつき、という想像をリアルにしてごらんよ。子供やペット、庇護しなければならないものがあると死ねなくなるから、ぼく今しねない。何かのために生きているわけではないけど、なにかのために死ねない。正直親や友達や恋人は幸いにして、わたしがいなくなったって生きていけるから、「君が死んだらXXがかなしむだろう!」っていうセリフには何の感慨も抱かない。ぼくがしんだら悲しい?悲しいだけでしょう、とりあえず食べるためのごはんにこまるとか、そういう直接的な生命に関する危機に、君はぼくの死によって瀕することはないでしょう。悲しくてごはんがたべられない?ああ、それはね、甘えだよ甘え。


わたしは語彙が少ないなーと思う。同じような小説ばかり読んでいるからだろうか。たまには人の死なない、切なくも悲しくもならない物語とかを、読んだほうがいいのかしら。
 

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すごくよく考えたんだけど、僕が感情揺さぶられる物語に、あんまり性は介在しない。たとえばそれをもっとこう、あけすけでポップでキュートな、そして仕事にもするような、そういうものとしてとらえてしまうと、そこからはジメジメとした感傷は蒸発して消えてしまうのかもしれない。ある人にとっては性は友情の延長のコミュニケーションで、ある人にとっては会釈で、ある人にとっては楽しみで、ある人にとってはお仕事でエンターテイメントだ。奔放なわけではなくてあんまり、そこを重要だと思わないから、例えば勢いで付き合った他大学の彼氏の浮気が発覚してお笑い芸人の遊び人の元に走りセックスをして、朝彼が起きないうちに明治通りを駅まで歩いて1限に間に合うように大学に向かう、そういう物語にあんまり興味がなくなった。上述のお話で言えばもっとも憂うべきは、彼女が、彼氏の浮気に何の感情も抱かなかった自分に動揺したというところ。
 

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最近暑いのでものすごく、冷たいのみものをのみたくなるのだけど、ウォーターサーバーの水ばかり飲んでいたら水道水が飲めなくなった。お茶を買ってきてもいいんだけどお茶って言うよりやっぱり水が飲みたい、でもお水を買うのはなんだかもったいない気がする、それでぼくはいつもファンタグレープとかコーラとかを買ってしまって、とりあえず飲み干してから、酷くなったのどの渇きに気付いて後悔する。これここんとこ毎晩繰り返してるけど懲りませんなあ。




だからちょっと経験を生かして、お水か、せめてお茶を買ってきます。こうして人は、成長していくのですね。

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