2012年1月25日水曜日

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ふいに悪口を言われてでも冗談だと思ったから「えーそんなこと言わないでよ~」ってヘラヘラ笑顔で返したのに悪口の追撃が止まらなくて、笑顔がうまく作れなくなって顔が歪んで段々涙が滲んじゃうし、でも泣いたらこれが冗談にならなくなるから必死で泣くのを我慢している、そんな顔見たい。

好きな子に一言罵声を投げかけたら止まらなくなる、笑顔で冗談にしようとしていたあの子がだんだん真顔になっていくのがかわいくて止まらなくなる、思いつく限りの罵詈雑言を、「わるくち」って呼ぶのも憚られるような人間蔑視の言葉を、ああこれ以上言ったらもうそれは人権蹂躙だよひどすぎるって自分でも思うのに止められなくて、そうするとどんどん言葉に感情がこもってきちゃって余計に止まらなくなって捲くし立てるだけ捲くし立てて、気付けば相手が怒るとも泣くとも笑うともつかない顔で静止している、そんなことしちゃいけないんだけど、うっかり、しちゃいそうになるときがある。いったん始まるともう自分の力では止められないから、最初のひとことを言わないように気をつけて生きるしかない。それは、どこまでこの子は笑顔を保ってこれを冗談にしようとするのかとか、わたしはこの子をどこまで傷つけられるのかなってのを確かめる作業で、つまりは終点にたどり着くまではその確認作業をやめられなくなるから、作業を始めたら最後まで終えなければ気がすまない几帳面なわたしは、最初のひとことを口にしてはいけないということだ。ちいさいもの、かわいいものはいとおしいから抱きしめたくなる、抱きしめたらやわらかいから、どこまでやわらかいのか確かめたくなる、確かめたくないのにいったん確かめ始めると最後まで確かめずにはいられない、だから抱きしめては、いけない。


こういう性質の人間を、「石橋をたたいて割っちゃうタイプ」といいます。


人間関係において確認作業を始めたら終わりだなぁと思う。わたしのことどれくらい好き?本当にわたしが好き?わたしがもしお金持ちじゃなくてもすき?わたしのこのコネがなくてもすき?わたしがお料理できなくてもすき?優しくなくてもすき?ねえねえねえ、ってはじめちゃうと、最後には「本当のわたし」じゃなくて「悪意」しかのこらない。こんなことしても痛くない?まだ我慢してくれる?だいじょうぶだよねわたしのことがすきだから、って、気付いたときにはその子に好かれた「わたし」でも、わたしが好きな「わたし」でもなくなって、ただただ他意しかないような存在になる。いま自分が置かれている状況を客観視して、ああこれはわたし好かれているな愛されているなって理解できても満足できないのは、カレーの写真をいくら眺めてもおなかがいっぱいにならないのと同じくらい当然なことで、いやいやわかるよこれがカレーだって、ほら運ばれてきた目の前にあるほら触れる距離に来ました、でも食べないと味、わからないよね?っていうことだ。食べたらなくなっちゃうし、カレーをカレーのまま目の前に残しておきたいならそれはとても愚かな行為なのだけど、そういう論理的で賢い考えよりも飢餓感のほうが勝ってしまうときがある。

(ちなみに僕はいま、カレーじゃなくてチョコレートとかにしたほうがかわいかったかなって思いながらブログをかいている。でもカレーになっちゃったのは、お昼も夜もカレーを食べたからです。)

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