2012年9月2日日曜日

20120902-00

分厚いガラスは何トンもの水の重みに耐えられるようにできている。床からせり上がるように生えているそれは僅かに湾曲し、まるでそれが壊れてしまったときのほんの僅かの保険のように、透明なセロハンが10cmくらいの空間をあけそれらを覆っている。地面から天井まで、2点でしか止められていないセロハンは若干撓んでいるため、ガサガサ音をさせそれを押すと固いセロハン越しにガラスに触れることが出来る。ガラスはプラスチックのように柔らかく、継ぎ目が粗い。カーブを描いた回廊は薄暗く青白い。

ここのものたちは視力を持たないのですよ、と説明が言う。視力を持たないので、光も必要ないのです、だからこの中は深海のようになっており、そこで彼らは暮らしているのです。透明度70くらいのエビの群れ、シロクマの子供、少年、成人男性。区画に区切られて生息しているものもあればそうでないものもいる、エビの群れが泳ぎ回る様子を見ているとまさに深海に見えるがそれではここにいる少年や成人男性はどうか。人間である以上水の中では息が出来ないはず、よく見ると水のようなこの分厚つく柔いガラスの向こうには気泡がなく、そうするとこれはやはり水ではないのか? ポメラニアンの大きさのシロクマの子供が、柔らかいガラスのつなぎ目の部分で足踏みをする、水の中のように真横になって。ガラスが若干足踏みに合わせベコ、ベコ、と動くので、わたしはセロハンごしに手のひらを当てる。シロクマの子供が押す、わたしも押し返す。こんな分厚いガラスを隔て全く違う空気(もしくは粘度の高い液体のようななにか)の中でお互いがガラスを押す圧力を感じ合う、まるで意志疎通が出来たような奇跡を感じてわたしは微笑む、そうするとシロクマの子供も微笑んだ。彼は小さな端末を取り出し何か文章を打ち込み、わたしに見せた。そこには英語で、「ぼくは君に、プロポーズは出来ないけれど」と書いてあった。そのジョークを見て、わたしは更に嬉しくなる。
彼らは視力はなくとも瞳を持っている、光を感じる機能はないので眩しさも感じない、漫画の中の吸血鬼のように光を浴びダメージを受けることはない。ここが薄暗いのはただ単に、光が必要ではないからだ。


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彼女はこの施設の一角の檻の中に住む。いつから住んでいるのかは知らない、最近入ったのではないが、生まれたときからと言うわけでもないようだ。長い黒髪に少し吊った冷たい目、黒いセーラー服。リノリウムの床の一角に数枚の畳、その上に置かれた文机に原稿用紙を広げ小説を書いている。彼女の檻に内包されるように、先ほどの深海のようなガラスがある。こちらにはセロハンはなく、薄暗くもなく、ガラスの隅には出入り口がついている。ガラスの向こうもまるで動物園の展示のようで、明るく、木々が適度に配置され、オラウータンの展示にあるような縄でできたブランコやタイヤを吊った遊び道具がある。

少年と少女は姉と弟のようだ、彼女とは馴染みのようで、僕には口の端を少しあげる程度の笑みしか見せない彼女も彼らには楽しそうに話しかける。彼女が満面の笑みを見せることはない、いつでも口の端を僅かにあげる程度の皮肉な笑い方だが、少年たちに対してのそれには彼女の甘えが感じられる。僕には飲み物の差し入れ、机の上の片づけ、本を本棚から取る程度のことさえも頼まない彼女は、彼ら姉弟に本の校正を依頼している。
弟がオラウータンの遊び場で満足するまで遊ぶ、姉は僕と彼女とともにこちらからそれを見守る。少年はふざけてガラスを内側からドンドン押す、それを僕はこちら側から押し返す。まるで先ほどのシロクマの子供とのやりとりのようで、僕は少しうれしくなる。シロクマの子供と違い、少年はこちらとあちらを自由に行き来でき、こちらでもあちらでも自由に遊べる。


次の小説が出るの、と彼女が言う。散らかった机の上にはいつの間にか、文庫の表紙の見本があがっている。遊びあきた姉弟が畳の上の原稿用紙で遊んでいる。表紙の校正も姉弟がしたようで、彼女がどんなに姉弟を信頼し、そして甘えているのかがわかった。帯には「XX賞受賞作品」と書いてあり、僕は彼女の受賞ペースに驚く。確か彼女は処女作で権威ある賞を受賞しデビューした、いま執筆しているのは二作目のはずだ。「1作目に続き2作目も受賞が決まっているの、すごいね」と僕が言うと、彼女は唇端を僅かにあげて「1作目を書き終えてから、すでにもう20年経っているのよ」と呟いた。彼女は昨年デビューしたはず、期待の新人として2年目に突入し今2作目を執筆中のはず、何をおかしいことを言うのかと呆気にとられて後ろを振り向くと、姉弟が砂になり崩れて白骨になった。「だからわたしさっき言ったの、これが彼女たちに頼む最後の仕事だって」「だから彼女たちさっき言ったでしょ、『さようなら』って」

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