2012年8月1日水曜日

20120801-01

マキちゃんと話してると、すごく不思議な気分になる。マキちゃんは近所の幼馴染だけど、いまは別々の学校へ行っている。マキちゃんは寂しがりやでほれっぽくて、だからよくわたしに恋愛相談をする。同じクラスに好きな男の子ができただの、そうかと思えば部活の先輩が気になるだの。わたしはその一つ一つに耳を傾け相槌を打ち、的確なアドバイスをしながら、こっそりマキちゃんの顔を盗み見る。マキちゃんの恋愛はたいていが片思いで、マキちゃんが好きになる男の子はたいてい、わたしにはくだらなく映る。でもわたしが不思議な気分になるのはマキちゃんの男の子の趣味に対してじゃなくて、マキちゃんが、かわいくないのに、恋愛をする、ということに対して。

マキちゃんの恋愛はたいてい片思いだけど、ときどき両思いにだってなる。つまりはキスだってするし、セックスだってするのだ。他の友達とそういう話をするときは、まさに「恋バナ!」ってテンションでぐだぐだしゃべれるのに、マキちゃんの相談に乗るときにだけ、わたしは、恋愛について話し合うわたしとマキちゃんを、遠くからぼんやり眺めているような気分になる。こんなにかわいくないマキちゃんでも恋愛をして、それが実って、異性と付き合って、キスをしてセックスするんだ。不思議。だしかにマキちゃんは性格がかわいらしい、かわいらしいけど、すごく、かわいくない。恋愛が美人の特権だなんて思ってない、だって世の中のたいていの人はそうじゃない、わたしだってそうじゃない。でもそういう、「ふつうのこ」とは、なんとなくマキちゃんは、ちがう。だからわたしはマキちゃんから恋愛相談を受けるたび、クラスのマドンナは一人しかいないのに、大人になると大部分の人が結婚して子供を生む、その数字の不思議を思い知る。マキちゃんのことをきらいとか、ばかにしているとか、そういうことじゃなくて、ただただ純粋に感動するのだ。

クラスのマドンナにはなれなくても、かわいいともてはやされなくても、どこでかどうにかして、人は恋愛をして、セックスができる。


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マルドゥク・スクランブルを読みました。すごくおもしろかった。秋の映画は絶対見に行きたい、そしてそれまでにヴェロシティとフラグメンツもよんで、燃焼と圧縮の映画も見たい。


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小説に出てくるちょっとダメな主人公に自分を重ね合わせたときに、その主人公の突出した才能、人間性、そのおかげで構築されてゆく豊かな人間関係、そういうものまで自分と重ね合わせて軌跡を期待するような、そんな真似だけはするまいと、それだけ心して本を読んでる。


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僕は何かに強制されて、苦痛な環境・嫌いな人・したくないこと、そういうものに慣れたりしたりなじんだりする努力をするべきなのかなって思うことが多々あるけど、納得できるような「強制されるような人や力」が今のところ見出せないからそれをしないで生きている。でもたとえばこれが、あと数年で死ぬのであればよい、でも多分あと数年で死ねない算段のほうが高い、それならこんな極楽のような場所にいると、どんどん放漫になっていくんじゃないかとか、なにかがスカスカになっていくんじゃないかとか、少し心配になる。でもそんな不安を抱いたってやっぱり、その不安程度じゃ、「いやなことをあえてやる」理由として納得できなくて、やっぱり一番自分の心の平穏を優先してしまう。
なんかこのかんじ、子供が小さな頃大病をしてしまって一命を取り留めたのだけど、それがトラウマとなり部活動や習い事友達づきあい、ジャンクな食べ物、そういうものを一切禁止する過保護なママのようだなって今ふとおもった。





最近気づいたら水曜だし、週末だし、8月になってる。
だれかに耳元でまいにち、カウントダウンをしてほしい。
なにへのカウントダウンかはおまかせします。センスで。





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