2012年12月5日水曜日

20121205-01

思いやりは想像力で、違う価値観を認めることで、つまりはそこには、相手を好きとか嫌いとか、思いやる気がないとか優しくないとか、そういうものは関係ない。
人との価値観の差異がどうしても理解できないとき、わたしは自分と相手を、違う国の人間や違う部族、違う星の人間として考える。例えば同じ日本人だって、現代と戦後や現代と戦国時代では常識が全然違ったし、だからお互いが「あなたのため」として行動する内容にずれがあって当然だし、そのずれを「あなたはわたしのことが好きじゃないから/優しくないから/思いやってくれないからそういうことをするんだわ」ってとらえてしまうのは、すごくなにかが違うと思う。そこで想像力と、違う価値観を認めることだ。「ぼくはこういうことをされたら悲しい」を最大限に想像して、「ぼくは悲しくないけど、他の人はどうだろう」「ぼくはうれしいけど、一般的にはどうだろう」「ぼくはこう思うけど、あの子はどう思うだろう」って、たくさんたくさん考える。わたしは昔、わたしの信じる正義こそ正義だと思っていたし、わたしの理想こそ理想だと思っていたから、自分の考える「思いやり」「やさしさ」が相手に通用しないとき、そしてそれを責められたとき、「わたしの考えこそが正しいのに」と、わかってくれないことに絶望したけどそれ多分間違ってる(間違ってると思うけど、だからと言って責める相手もちょっと間違ってるなって思う)。
自分の価値観は世間一般から見たら少数派なのかもって自覚は、選民意識の現れみたいで持つのすごく抵抗あったんだけど、そういうものじゃなく、100人いたら30人くらいはわたしと同じ考え方してるかもしれないけど、残りの70人は違うよねってだけの単純な話だ。純粋な確率の問題として、70%と30%、君がどちらに属す確率が高いかな? ってだけの話。自分はもしかしたら少数派かもしれないって自覚と、今までの、「わたしの当然のふるまい」に傷ついたっぽい人たちの記憶と、そういうものを肥やしにして努力して、通常の努力と違う方向で努力して、わたしはやさしくなりたいな、って思った。

つまりはなにがいいたいかというと、すきな人のこと、わたしはわたしなりに、傷つけたくないなってことだ。

友達でも恋人でも、“わたし、どこまで見捨てられないかな”ってつい試したくなって、試すということは傷つけると言うことで、わたしに傷ついてくれることや、痛くて泣く様子や、逆に涙をこらえるようす、そういうものでゆがんだ満足覚えたいって醜い欲がどうしてもあって、たまにそれは抗いがたいものでもあるんだけど、そしてわたしは自分がすごく気分屋だとも知っているから、とても限定して、今日の今この瞬間は、わたしすきなひとのこと、傷つけたくないなって思ってる。


今すごく珍しい精神状態なので、おぼえがき日記を書きました。

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