もしかしたら「好き」は有限なのかもしれない。
ぼくがいまこんなにも周りを呪いながら生きているのは死んだものばかり好きなせいかもしれない、いやきっとそうだ、そう思い至ったらすべてのことが腑に落ちた、すとんと小気味よく腑に落ちた。死んでしまった好きなものはどんどんとばけものになる。いなくなった人、終わってしまった時間、消えてしまった場所、それらはどんどん溶けていってどろどろになって形もなくなり抽象的な思念になる。そうなるともう、それらがたとえ戻ってきたり生き返ったりしても太刀打ちできない。生き返った人、動き出す時間、再生した街、それはもう違う、わたしの好きだったそれと違う。たとえ寸分違わず甦ったとしてもやっぱりなにか、違う。その日その瞬間それらを取り巻く一切やそれが好きだった自分自身さえも含めての好きだから、どうしても同じになんない。模造品が本物にかなうわけがないようにもうぼくの好きを壊せるものが誰も何にもいなくなって、そうしたらぼくはその「死んじゃった、どろどろに溶けた何か」を好きで居続けなくちゃいけなくて、そうするとぼくの「好き」はそれらに捕らわれてしまうことになる、だからもうわたしには新しい何かに向ける「好き」
がない。
ぼくの「好き」は、有限だ、
そしてそれは尽きかけている(もしくは尽きている)。
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